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口伝鈔 第20章 「罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。」 ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。

おはようございます。今日も一緒にお参りをいたしましょう。
Bom dia a todos!  Vamos juntos rito matinal.
正信偈 Shoshingue p29
https://www.dropbox.com/s/yzwfdyup0v4wxn8/gongyo-shu.pdf?dl=0



capítulo 20
Sobre a visão de que se pessoas conscientes cometerem os grandes crimes das cinco transgressões e caluniaram o Dharma conseguirem o Ir-nascer, não devemos cometer infrações menores

Segundo o nosso falecido professor Mestre Nyoshin, Mestre Shinran disse:
"As pessoas pensam: 'Embora algumas infrações sejam peque- nas, devemos pensar em todas as transgressões, crimes, maldades, perversidades com medo e decidir em nossos corações não as cometer. Da mesma forma, se focarmos nossas mentes em cultivar raízes do bom karma e seguirmos esse plano, receberemos grande benefício ao acumulá-lo. Certamente estes são meios para escapar à transmigração.
"Essas afirmações vão contra o Verdadeiro Ensinamento e contradizem o que foi ouvido pelos nossos professores. O Buda-Dharma em vários ensinamentos das escolas budistas, absolutamente se opõem a cometer atos ruins e crimes. No entanto, o mau karma de um profano resulta de condições kármicas passadas e profundas que causam atos malignos. Consequentemente, essas transgressões capitais são quase impossíveis de se parar ou prevenir."
"Além disso, dizer que mesmo uma pequena infração não deve ser cometida depende da mente do profano e ele próprio deve deter a transgressão ou suas infrações. No entanto, profano possui um corpo cheio de transgressões desde seu nascimento. Não há transgressão grande ou pequena. De três ações 83, todas são transgressões.”
"Será que o Verdadeiro Ensinamento se baseia na afirmação de que mesmo pequenas transgressões devem ser evitadas e mesmo que se um transgressor se arrepende, o Ir-nascer é rescindido porque o ato já foi cometido? Devemos examinar cuidadosamente esta afirmação. Isso significa dissuasão? Para o Buda Shakyamuni, a dissuasão é uma forma de meios hábeis. "Para o Verdadeiro Ensinamento da Terra Pura, o pano de fundo é o Voto Original de Amida. Além disso, ao considerar a transgressão - seja uma pequena infração ou crime maior - não parece realmente haver maneira de detê-lo ou dissuadi-lo. Isso deve nos fazer perceber que realmente confiar no Voto Original de Amida é fundamental. "Além disso, se difamar o Dharma surge da falta de fé e crença no Buda-Dharma, então originalmente em tais pessoas não existe receptáculo para o Buda-Dharma. Mas se arrependidos, eles Irão- nascer. Assim, o comentário explica: 'Os caluniadores do Dharma e o não-receptivos84 sofrem conversão; resultando em Ir-nascer para todos.85 Essa é a razão."

83
Falar, fazer e pensar
84
Em japonês, [icchantika]

85
Shan tao[Zendő] em [Hojisan]

原文
抑止と摂取
(20)
一 罪は五逆・謗法生るとしりて、しかも小罪もつくるべからずといふ事。
 おなじき聖人(親鸞)の仰せとて、先師信上人(如信)の仰せにいはく、世の人つねにおもへらく、小罪なりとも罪をおそれおもひて、とどめばやとおもはば、こころにまかせてとどめられ、善根は修し行ぜんとおもはば、たくはへられて、これをもつて大益をも得、出離の方法ともなりぬべしと。この条、真宗の肝要にそむき、先哲の口授に違せり。まづ逆罪等をつくること、まつたく諸宗の掟、仏法の本意にあらず。しかれども悪業の凡夫、過去の業因にひかれてこれらの重罪を犯す、これとどめがたく伏しがたし。また小罪なりとも犯すべからずといへば、凡夫こころにまかせて、罪をばとどめえつべしときこゆ。しかれども、もとより罪体の凡夫、大小を論ぜず、三業みな罪にあらずといふことなし。しかるに小罪も犯すべからずといへば、あやまつても犯さば、往生すべからざるなりと落居するか、この条、もつとも思択すべし。これもし抑止門のこころか。抑止は釈尊の方便なり、真宗の落居は弥陀の本願にきはまる。しかれば小罪も大罪も、罪の沙汰をしたたば、とどめてこそその詮はあれ、とどめえつべくもなき凡慮をもちながら、かくのごとくいへば、弥陀の本願に帰託する機、いかでかあらん。謗法罪はまた仏法を信ずるこころのなきよりおこるものなれば、もとよりそのうつはものにあらず。もし改悔せば、生るべきものなり。しかれば、「謗法闡提回心皆往」(法事讃・上)と釈せらるる、このゆゑなり。

出典: 浄土真宗聖典『ウィキアーカイブ(WikiArc)』

先哲の口授
せんてつのくじゅ
 歴代の祖師たちが口伝えに説いてきた教え。(口伝鈔 P.909)

落居
[らっきょ]
 Ⅰ しずまる。決着がつき、落ち着くこと。(口伝鈔 P.909, 御文章 P.1165) 
 Ⅱ 領解すること。(御文章 P.1179)

思択
しちゃく
 深く思いをめぐらすこと。十分に考えること。(口伝鈔 P.909)

抑止は釈尊の方便なり
 おくしは-しゃくそんの-ほうべんなり
 『大経』の第十八願と成就文に、「ただ五逆と誹謗正法を除く」と抑
おさえ止とどめられたのは、釈尊が道徳的配慮から誡められた方便説であると、覚如上人はみられている。(口伝鈔 P.909)

詮はあれ
[せん]   意味はある。かいはある。(口伝鈔 P.909)

凡慮
ぼんりょ
 凡夫の考え。おろかな者の考え。(口伝鈔 P.909)

帰託
きたく
 帰依し、身を託すこと。(口伝鈔 P.909)

謗法闡提回心皆往
ほうぼうぜんだいえしんかいおう
 「謗法・闡提、回心すればみな往く」(信巻訓)「法をそしる仏のたねをやくものも、そのこころをひるがえして本願をたのめば、みな往生するなり」(左訓) (口伝鈔 P.910)

東本願寺聖典 ふりがな付き
https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=673

現代文
二〇
罪は五逆・謗法を犯しても、浄土に生れることができると知って、しかもどんな小さな罪もつくってはならない、ということ。
同じ聖人の仰せであるといって、なくなられた師、如信上人が仰せられた。
 世間のひとはつねに「どんな小さな罪でも、罪を恐ろしく思って、止めようと思えば心のままに止めることができ、善のたねは修め行おうと思えば蓄えることができて、これによって、阿弥陀仏の大きな恵みをうることもでき、またこれが迷いの世界を逃れる方法ともなるだろう」と思っている。しかしこの考えは、真宗の教えの根本にそむき、また先哲の口ずからお説きになったこととも違っている。まず、五逆罪などを造ることは、まったく諸宗の掟にふれるもので、仏法の本意ではない。しかしながら、悪を犯した愚かなひとは、その過去の宿業の原因にひかれて、これらの重罪を犯すのであって、これを止めることもおさえることも困難である。
 また、「小さな罪であっても犯してはならない」と言うときは、愚かなひとでも思い通りに罪を犯さないでいることができる、とも受け取られる。しかしながら、もともと罪そのものを本性とする愚かものである以上、大・小の差別なく、身に行うこと、口に言うこと、心に思うこと、すべてが罪でないものはない。ところが、「小さな罪も犯してはならない」と言うときは、過って犯しても浄土に生れることはできない、と結着するものか。この点、よくよく考えをめぐらさなければならない。これは、仮りに抑止する意味であろうか。抑止は釈尊の方便である。
 しかし真宗の落ち着くところは、阿弥陀仏の本願以外にはない。だから、小罪も大罪も、罪の詮索がしたいならば、どんな罪も犯さないでこそそのかいがあるので、犯さないでいることもできないあさはかな智慧を持ちながら、このように言うときは、阿弥陀仏の本願に帰して、身を託するものがはたしているだろうか。誘法の罪はまた仏法を信ずる心がないことからおこるものであるから、もともと浄土に生れる素質のあるものではない。しかし侮い改めるならば、生れることができるものである。だから、「謗法や闡提ら回心すれば、みな浄土に生れる」と解釈されるのはこのためである。



抑止 第十八願には、五逆と謗法のひとは救いの対象より除く、と説くが、 『観経』には、五逆のものも念仏すれば、浄土に生れる、と説き、両経の説くところに矛盾があるようにみえるため、善導は、 『観経疏』散善義下下品で、五逆と謗法を除くとしたのは抑止するためである(真宗聖教全書一・五五五)と解釈した。阿弥陀仏の本願からは、すべて救いとって捨てないのであって、阿弥陀仏は愚かなひとにこのような極悪の罪を犯させないようにしようと考えて、一応抑え止めたにすぎない、とするのである。したがって抑止は仏の慈悲方便によるものである。

謗法や蘭提も回心すれば…… 『法事讃』上巻の文である(同一。五六七)。闡提はサンスクリット語のicchantikaの音写の略で、正確には一闡提と音写する。善のたねのないもの、信心のそなわらないもの、と考えられ、仏となるたねのないものという。

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