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口伝鈔 第16章 「信のうえの称名」 ポルトガル語、日本語原文 朗読動画あり。

おはようございます。 今日も一緒にお参りをいたしましょう!
Bom dia a todos! Vamos juntos rito matinal.
今日は観無量寿経です
http://labo.wikidharma.org/index.php/%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E8%AA%9E_%E8%A6%B3%E7%84%A1%E9%87%8F%E5%AF%BF%E7%B5%8C


O Sutra da Contemplação da Vida Imensurável
http://jodoshinshu.com.br/budismo-terra-pura/sutra-da-contemplacao-da-vida-imensuravel/


Capítulo 16

Sobre recitar o Nome baseado na Fé 


Kakushin de Takada76 era um discípulo de Mestre Shinran. Quando Kakushin foi acometido de uma doença grave e enfrentou seu fim, Shinran foi para sua residência e o encontrou em sua condição crítica. Embora sua respiração estivesse difícil e começasse a falhar, ele não parou de recitar o Nome. O Mestre disse: "É maravilhoso colocar esforço em recitar o Nembutsu enquanto sofre, mas você tem alguma pergunta sobre recitar o Nome no momento final? Diga-me o que você pensa.'
Kakushin respondeu:"Um momento de alegria se aproxima, um momento se aproxima. Dizem que tudo acontece num instante, mas enquanto houver uma respiração, devo expressar minha gratidão à benevolência do Buda por me permitir receber o grande benefício do“Ir-nascer“.
Mestre Shinran respondeu: "Esta é uma expressão de seu constante serviço ao longo dos anos". Tão emocionado ficou que torrentes de lágrimas lhe brotaram dos olhos.

Kakunyo diz: Esta história relata a essência do Verdadeiro Ensinamento e nos traz paz de espírito. Há aqueles entre nossos companheiros que recitam o nome freneticamente com o seu Auto-Poder a fim de renascerem dentro de uma flor de lótus na Terra Pura, quando a morte se aproxima. Como eles não sabem as causas kármicas de sua vida passada, eles nunca sabem que condição após a morte os esperam. Se uma pessoa é queimada pelo fogo, afogada na água, perfurada por espadas ou morre enquanto dorme, tudo é devido ao karma passado sem exceção. Assim, quando uma pessoa enfrenta tal morte, faz parte dessa pessoa e não pode ser evitada. Uma pessoa comum, não iluminada, quando fatalmente ferida por um inimigo mortal naquele instante pensa em odiar esse inimigo. Não há outro pensamento.
Uma pessoa que morre enquanto dorme - a mente básica inconsciente de respirar naquele último momento - não pode exercer intencionalmente nenhum esforço final, nem dizer o Nembutsu.
Novamente, uma pessoa morta por alguém - além de pensamentos odiosos preenchendo sua mente e afastando todos os outros pensamentos - não tem tem- no para o Nembutsu. Confiar em ações futuras antes de morrer é impossível.
Em outras palavras, as pessoas que enfrentam a morte pensam que fazer algo diferente do que normalmente fariam dificulta o Ir-nascer. Mesmo um candidato que idealiza o Voto Original comete tal erro, que é virtual- mente impossível de corrigir.
Aquele que é obrigado no fim da vida a dizer o Nome através do Auto- -Poder nasce, em última análise, nos arredores da Terra Pura. Na verdade, este problema surge porque é difícil evitar as condições kármicas passadas. É a mais difícil de todas as dificuldades enfrentadas neste ponto da jornada.
Além disso, mesmo a nossa aspiração de Nascimento no reino dos devas ou na região periférica dos indolentes não pode ser concedida porque nos afastamos do Voto Original. Esta visão é afirmada no comentário de Shinran contida no Florilégio de passagens sobre
A Doutrina, A Prática e A Realização Verdadeira da Terra Pura [Kyōgyöshinshō] [Shoshing77] .
E, "Simplesmente permitindo-se completamente a dizer o nome do Tathagata, uma pessoa se dirige para a bondade do voto universal da grande compaixão amorosa". Observe que uma pessoa instruída por um Bom Mestre na vida ordinária possui um verdadeiro Coração Confiante78, o coração inspirado pelo Voto Original. Repousando nas fileiras daqueles cujo Ir-nascer já garantiu, não é preciso esperar pela morte para receber tal beneficio.
Como os textos revelam claramente, dizer o Nome depois de experimentar o verdadeiro Coração Confiante, realiza a grande prática do Outro Poder, lembrando-nos de sermos gratos pela bondade do Buda. Assim, nos momentos finais da vida deste discípulo, sua visão não mudou. Assim, Shinran comovido irrompe em lágrimas.
Note isso bem.

76
Também conhecido como Taro
77
Poema da Verdadeira Fé *
78
Em japonés: [Shinjin]

原文 


信のうえの称名


(16)
一 信のうへの称名の事。
 聖人[親鸞]の御弟子に、高田の覚信房[太郎入道と号す]といふひとありき。重病をうけて御坊中にして獲麟にのぞむとき、聖人[親鸞]入御ありて危急の体を御覧ぜらるるところに、呼吸の息あらくしてすでに絶えなんとするに、称名おこたらず、ひまなし。そのとき聖人たづねおほせられてのたまはく、「そのくるしげさに念仏強盛の条、まづ神妙たり。ただし所存不審、いかん」と。覚信房答へまうされていはく、「よろこびすでに近づけり、存ぜんこと一瞬に迫る。刹那のあひだたりといふとも、息のかよはんほどは往生の大益を得たる仏恩を報謝せずんばあるべからずと存ずるについて、かくのごとく報謝のために称名つかまつるものなり」と[云々]。このとき上人(親鸞)、「年来常随給仕のあひだの提撕、そのしるしありけり」と、御感のあまり随喜の御落涙千行万行なり。
 しかればわたくしにこれをもつてこれを案ずるに、真宗の肝要、安心の要須、これにあるものか。自力の称名をはげみて、臨終のときはじめて蓮台にあなうらを結ばんと期するともがら、前世の業因しりがたければ、いかなる死の縁かあらん。火にやけ、水におぼれ、刀剣にあたり、乃至寝死までも、みなこれ過去の宿因にあらずといふことなし。もしかくのごとくの死の縁、身にそなへたらば、さらにのがるることあるべからず。もし怨敵のために害せられば、その一刹那に凡夫としておもふところ、怨結のほかなんぞ他念あらん。また寝死においては、本心、息の絶ゆるきはをしらざるうへは、臨終を期する先途、すでにむなしくなりぬべし。いかんしてか念仏せん。またさきの殺害の機、怨念のほか他あるべからざるうへは、念仏するにいとまあるべからず、終焉を期する前途またこれもむなし。仮令かくのごときらの死の縁にあはん機、日ごろの所存に違せば、往生すべからずとみなおもへり。たとひ本願の正機たりといふとも、これらの失、難治不可得なり。いはんやもとより自力の称名は、臨終の所期おもひのごとくならん定、辺地の往生なり。いかにいはんや過去の業縁のがれがたきによりて、これらの障難にあはん機、涯分の所存も達せんことかたきがなかにかたし。そのうへは、また懈慢・辺地の往生だにもかなふべからず。これみな本願にそむくがゆゑなり。
 ここをもつて御釈[浄土文類(教行信証)]にのたまはく、「憶念弥陀仏本願 自然即時入必定 唯能常称如来号 応報大悲弘誓恩」(正信偈)とみえたり。「ただよく如来の号を称して、大悲弘誓の恩を報ひたてまつるべし」と。平生に善知識のをしへをうけて信心開発するきざみ、正定聚の位に住すとたのみなん機は、ふたたび臨終の時分に往益をまつべきにあらず。そののちの称名は、仏恩報謝の他力催促の大行たるべき条、文にありて顕然なり。これによりてかの御弟子最後のきざみ、御相承の眼目相違なきについて御感涙を流さるるものなり、知るべし。


東本願寺聖典 ふりがな付き


https://shinshuseiten.higashihonganji.or.jp/contents.html?id=1&page=668


現代文


16
信のうえの称名念仏のこと。


聖人<親鸞>のお弟子に高田の覚信房<太郎入道と名のった>というひとがあった。重病にかかって、聖人のお住居でなくなろうとしたとき、聖人<親鷺>がお部屋におはいりになって、危篤の様子を見守っておられたところ、息もあらくすでに絶えようとしているのに、称名念仏を一時も怠ることがなかった。そのとき聖人がお尋ねになって、「その苦しそうな中にも念仏を称えつづけていることは、なによりも殊勝なことである。だが、思うところになにか不審はないか」といわれた。すると覚信房は答えて、「よろこびもすでに近づきました。わたしの生命もわずか一瞬に迫っています。一瞬のあいだであっても、息の通うあいだは、浄土に生れる大きな喜びを与えられる仏のご恩にこたえ、お礼を申さないではおられないと思われますので、このように報謝のための念仏を称えているのであります」と申しあげた。この時、聖人は「年来、わたしにいつもつき随って仕えてくれた間に、わたしが導いたそのかいがあった」と感激のあまり、心から喜びの涙をとめどもなくながされた。
 こうしたわけであるから、わたし一個の考えをもってこのことを思いめぐらしてみるに、真宗のかなめや安心のかなめはここにあるのではないか。自力の称名念仏を励んで、臨終のときにはじめて浄土の蓮華の上に生れようと期するひとたちは、さきの世で行った行為がどのようなものであったかを知ることができないために、どのような死に方をするものか、まったくわからない。火に焼け死ぬか、水におぼれるか、刀で切られるか、あるいは床の中で死ぬにしても、これらはみな、過去の世で行った行為によらないものはない。もしこのような死に方が身にそなわったならば、ついにそれを逃れることは不可能である。もし怨みをいだく敵のために殺害されるならば、その死の瞬間には、愚かなものとしては怨みのほかにどんな思いがあるだろうか。また床の中で死ぬ場合は、心に息が絶えるという瞬間がわからない以上は、臨終を期して〔浄土に〕生れようとあてにしていたこともすでに無意味になることだろう。そのときどのようにして念仏するだろうか。またさきの殺害にあうひとは、怨みのほかにはなにもない以上、念仏するひまはあるはずがない。臨終において期する前途は、この場合もまた空しい。かりにこのような死に方に遇うひとが、日頃思っていることと達うならば、浄土に生れることはできない、と思うのである。たとい阿弥陀仏の本願にかなったものであっても、このようなあやまちは、ついに改めることができない。まして、自力による称名念仏は、もとより臨終においてかねて期するところを思い通りになしとげることができるだろうが、しかしそれも辺地に生れるのである。まして過去に犯した罪の深さは逃れることができないから、これがもたらす障得にあうようなひとは、分相応の思いさえ達するということは、とても困難なことである。そのうえまた辺地・解慢に生れることさえもかなえられない。これらはすべて阿弥陀仏の本願にそむいているからである。だからここに立って、聖人のご註釈<『浄土文類』>には、「阿弥陀仏の本願を心にとめてつねに憶えば、しらずしらずのうちにそのまますぐに浄土に生れることを約束された身となるから、ただよくっねに如来の名号を称えて、広大な慈悲の恩にこたえなければならない」と見えているのであり、このことは「ただよく仏のみ名を称えて、広大な慈悲の誓いの恩にこたえなければならない」ということである。平生、正しい師の教えをうけて、「信心がひろびろと開けるとき、浄土に生れることを約束された位に住ずる」と、このことを頼みとするようなひとは、あらためて、臨終の時に阿弥陀仏や菩薩たちがお迎え下さるのを期待してはならない。〔なぜなら、信心が開けた〕後の称名は、仏の恵みにこたえる感謝の念仏であり、仏によってうながされた催促の念仏でなければならないことは、聖教の文に明白だからである。だから、これによって、かのお弟子が最後のとき聖人の伝えられた教えの眼目と違わないすがたをみて、感涙を流されたものである。この点をよく理解しなければならない。



高田の覚信房俗名田島太郎、常陸国、真壁の城主椎尾弥三郎春時の家臣であったという。

安心
信心といってもいいが、これが揺がないものとなることを「安心決定」といい、浄土に生れることが確約されるとする。 『改邪紗』第十一章注二参照。一九三ページ。

火に焼け死ぬか、・・・・
『執持紗』第五章参照。九三ページ。


<『浄土文類』>には
『教行信証』行巻の「正信侶」の文である。原文は、「憶念弥陀仏本願 応報大悲弘誓恩 自然即時入必定 唯能常称如来号」(真宗聖教全書二。四四)である。 『教行信証』は詳しくは 『顕浄土真実教行証文類』という。

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親鸞 (著), 石田 瑞麿 (翻訳)


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