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発災当日 前編(私の体験)

1月17日、今日は阪神大震災が発生した日ですね。
あの頃、私は中学生でした。
高速道路の高架が倒れている映像は非常にショッキングでした。
静岡県では大規模な地震がいつか発生する。と言われ続け、県民の防災意識が高かったとは思いますが、それでもテレビから見る実際の被災地は衝撃的なものでした。
また、トンガでの海底火山の爆発、津波、被害が大きくならないことを願っています。

  • 被災当日早朝

平日よりも30分程遅く起き、恐らくテレビやスマホを見ていたと思います。
その後、7時頃でしょうか。雨なのは分かっていましたがどの程度降っているのか気になりカーテンを開け外を見ると、道が川のようになっていました。
かなりきつく狭い坂なので、雨脚が強くなると浅い川の中を歩いているようになります。
靴が浸かるほどではないですが、翌日には同じ靴は履けない(乾かない)。そんなイメージです。
ただ、その日いつもと違ったのは泥水まではいかないまでも、砂が混じっているような少し茶色くなった水が流れていました。
これが第2の兆候です。
ですが私は「暗渠のどこかで石が引っ掛かって水が溢れているんだろう」としか思いませんでした。
大体8時頃には食事や着替えを済ませ、再度外を見ると、道路を挟んだ斜向かい宅の方(Kさん)が外に出ていました。
私も外に出て話をしました。

「雨すごいですね~、いつ止むんですかね~」

そんな事を言ったと思いますが、雨音が大きく、そして川のようになった流れを挟んでいたので伝わらなかったと思います。私も相手の方の声が聞き取れませんでした。
この会話の先か後か、正確なことは覚えていませんが家の前に「この先通行不可」というような看板が立ちました。
もう少し上に行った開水路の所から水が溢れているんだろうな。そう思いました。

  • 出発(第3の兆候

上の子どもの習い事に行く前に、私の通っている病院に寄りたかったので通常10時前に出発するところを、妻と下の子どもを残し9時過ぎに出発しました。
車に乗り込み、「この雨でも(避難)レベル4が出ないんだな」と息子と言葉を交わしました。
「この雨なのに習い事も休みにはならないんだ…」とも。
19年の台風19号の時に避難レベル4が発令され、私達家族は伊豆山小学校に避難をしました。
その時の雨の強さに匹敵している。そう感じました。
ですが不思議なことに、朝見た茶色い水は流れていなかった記憶があります。もしかしたら私の記憶違いかもしれませんが…

新幹線のガードをくぐり、逢初川の開水路部を見ると、濁流が今まで見たこともない程の凄まじい勢いで流れていて「こんなのに落ちたらひとたまりもないな」と会話を交わしながら街へ移動しました。

  • 災害発生

病院に到着すると思いの外混んでいていつもは20分程度で呼ばれる所40分経っても呼ばれず、子どもの習い事の時間に間に合わなそうだったので、一度子どもだけを送るために移動をしている時に一瞬停電しました。
その時に妻からのLINEで伊豆山も停電したことを知ります(すぐに復旧)。
この時10:28 通報された時間です。
私は病院に戻り、診察を受けている10:55に妻から電話、出ることができず、まだ病院だった事もあり「どうした?」とLINEします。

妻「どこか上の方で土砂崩れが発生したらしい。こっちでは聞き取れなかったんだけど防災聞こえた?」
私「分からない。市のHPに出てない?」
…数分後
妻「お母さんに聞いたら般若院の辺りみたい」

その後私が会計をしている際に着信があり、折返し電話をします。11:20
妻「ねぇ!向かいの家が流された」
私「は?何?何言ってんの?」
妻「Kさんの家が土石流で流されたの!うちも家ごと下に流れている気がする。地すべり?」
私「今どうしてる?」
妻「2階に避難した。リビングが土砂に埋まって、階段にも少し来てる」
私「下の子は?」
妻「不安がってるけど頑張ってるよ」
私「S(妻)も不安だろうけど、大丈夫。助けが行くから。やたらに動かないように。下の子を守ってやって」
妻「分かった。上の子を迎えに行ってあげて」
まだこのときは事態が理解できず、なんの根拠もない「大丈夫だろう」という気持ち70%と、もしかしたら…が30%混在していました。

  • 混乱と避難

移動中、徐々にもしかしたら…が膨らんでいき、習い事先についた時には少しパニックになっていました。
「うちの子をすぐにあがらせてください!」
そう言うと、受付の方が既に練習が終わって着替えていると教えてくれました。11:30頃の事です。
待っている間、妻に電話をしました。しかし3度かけても出ない。
最悪の事態が頭をよぎりました。
足が震え、手が震え、最後には全身が震えだしてしまい、その時近くにいた年配の方に声を掛けられました。
「大丈夫?土砂崩れがあったところなの?伊豆山のどこ?ご家族は?」
私は混乱していて、まともに話すことができませんでした。
住んでいたのは岸谷(きだに)という地区ですが、土砂の「土」が頭にこびりついていて、別の地区の「土沢(とさわ)です」と答えた覚えがあります。
その方はキョトンとした表情をして「ご家族無事だといいわね、頑張って」と言ってくれました。
同級生のグループLINEで「伊豆山やばいぞ」「大丈夫か」「消防ので送られてきた画像ヤバい」と矢継ぎ早に通知が来ました。
妻からのLINEかと思ったので「今やめてくれ!妻と連絡がと!ない」(原文ママ)
その直後に妻から電話がありましたが、まだ家に留まっている状況でした。写真、映像が送られてきて、確かに朝会話をした方の家が無くなっていました。

上の子と習い事の近くにある私の実家で、買ってあった弁当を食べました。
ですが喉を通らない。
『ショックで喉を通らない』
というのは例え話、それほどショックを受けたんだよ。という比喩だと思っていました。
でも本当ですね。全然食べれなくて1時間近くかかって食べた記憶があります。
妻はよくスマホを充電せずにバッテリー切れを起こします。
なので、この状況で連絡がつかなくなるのはまずいと思い、連絡したくてもしないことを選びました。

父から消防に連絡をしておけ。と言われ、連絡しました。
住所、誰が残っているか。送られてきた映像から向かいの家が無くなっていること。を伝えました。
既に自衛隊に派遣要請がされていること、道路が寸断され救助が難航していること、ヘリを使った救助を考えているが、天候が悪いことを聞かされました。
なんとか、なんとかお願いします。そう言って電話を切ったと思います。
自分で助けに行きたいが、自力じゃとてもじゃないができない。
今思えば消防の方も同じ歯痒さを感じていたんだと思います。

妻にも救助が向かっていることをLINEで伝えました。
しかし返答がない。既読がついたかどうかも覚えていないです。
とにかく、その時の私に出来ることは、待つことと、祈ること。それ以外何もできない。
テレビをつけても、土砂が流れ降りてくる映像を繰り返しやっているだけ。
発災直後の情報はほとんど得ることができない事も歯痒かった。

最後に妻と連絡を取り合ってから約50分後、妻から電話がありました。
「今、仲道公民館に避難したよ。近所の人達に助けてもらった」
無事が分かって、その数十分後にハートピア熱海に避難させてもらえるという連絡があってから、その日のことは殆ど覚えていません。
とにかく安堵した。これに尽きます。
ですが一つその日のことで不穏な、というかその時はまだ考えも、知りもしなかった話題が同級生のLINEで持ち上がります。

”盛り土”

私の同級生で不動産の仕事をしている人間がいて、関わりたくない連中だった、と。
それがこれからこれほどまで大きな渦になるとは思っていませんでした。


  • まとめ

だいぶ長くなってしまったのと、妻がどのように避難したか。ということを分けようと思い、前後半に分けて書くことにしました。
次は妻に聞いた限りの避難体験を書こうと思います。

家に残してきた家族が災害に見舞われる。

この心境は、どう表していいものか非常に難しい。
最初は大丈夫だろう。段々と、いや…まさかな…という気持ちが大きくなる。
その感情が今度は心配に変わる。でもどこかで大丈夫だろう。という気持ちも残っている。
そして一緒に連れて行かなかった後悔、助けに行けない、情報が入らない歯痒さ。
いつか、その感情の変化も書きたいと思います。

最後に
阪神大震災で亡くなられた方のご冥福と、未だに負っている心の傷があるならそれが少しでも癒やされるように祈っています。
またトンガとその周辺国の方々の無事をお祈りします。

※写真は同級生から送られてきたものです

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