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プリズムに変わるメイン・キャラクターの構造─テレ東系キッズアニメシナリオが模索した道

※この記事は、2014年の夏コミで発行された「プリティーリズム三部作完結記念合同誌」における7人の参加者のひとりとして、泉が寄稿した原稿、の再録です。

 本誌購買者への配慮から有料の限定公開としていましたが、完売・再販予定なしの上に発行から二ヶ月近く経ち、主催者と相談した上で2014年10月13日から無料全文公開しています。

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青葉 譲@aobajo
「欠点のある主人公のことを子供たちは好きにならない。だから成長物語である必要などない」と昔、言われたことあります。だから今の主人公は始めから強いし絶対に負けないのだと。商品としては正解かもしれないが、作品としては間違っていると僕は思います。いつまで突っ張れるか分からないけどね。

 これは、菱田監督がTwitterで2013年3月28日に投稿されたお言葉です(現在は削除されています)。
 監督が言うような「キッズアニメの主人公は最初から勝ち続け、つまり成長の余地などない方が望ましい」とする方針がアニメスタッフに要求された例を、私も聞いたことはあります。
 もちろん菱田監督のように、「商品」としての要求をただ受け入れるだけでなく、なんとか抗おうとするスタッフによる話でした。
 キッズアニメを企画する際には、そんな意向を説得しなければならないときもあるようです。
 そこで、この記事では、近年のキッズアニメ、特にテレビ東京系のキッズアニメを概観しながら。『プリティーリズム』三部作が模索した「メイン・キャラクター(≒主人公)の表現手法」を学んでいこうと思います。

プリキュアシリーズとの比較

 「最初から主人公が負けないキッズアニメ」と聞いて思い出すのは、テレ東系ではない「プリキュア」シリーズのヒロインたちです。たまには欠点や幼さが与えられるものの、幼児から見て「中学生のお姉さん」として憧れるように設定されたプリキュア達は、学校では優等生の人気者であることが多く、変身すれば第一話からいきなり「負けない力」を得て活躍します。菱田監督が聞かされた「商品的正しさ」を、ある意味でプリキュアシリーズは叶えています。
 逆に言えば、テレビ東京系のキッズアニメは、女児向けの人気シリーズであるプリキュアを意識しつつ(特に「商品であること」を要求する人達ほど敏感なのでしょう)、なおかつ異なるアプローチを試さなければならなかった、と考えられます。

ストーリー表現とキャラクター表現は似て非なるもの

 まず、「始めから強く負けない主人公」が望ましいという意見は、ことさら否定しなければならないものでもありません。
 間違っているわけでなく、一理はある。
 その方針がなぜ有効なのかを、好意的に考えてみましょう。
 その答えの手掛かりとなるのは、キャラクターの表現ではなく、ストーリーの表現として「キャラクターの見られ方」を考えてみることです。
 キャラクター、登場人物の勝ち負けは、その人物が強いか弱いか、成長するかしないか、というキャラクター自身の問題だけでなく、ストーリー進行に大きく関係します。
 つまり登場人物が負けるということは、「ストーリーが盛り上がっていない」という、ごく生理的な反応に直結しやすいものです。お話によるにしても、登場人物の敗北をアップテンポでハイテンションな、派手で明るい演出で表現するということはあまりしないと言えるからです。
 また、事件や物語といった状況は、一般に、勝ち続けることや成功しつづけることで真相に近付きやすいものです。レベルアップするたび、次のステージへ進むことのできるゲームのように。
 逆に負け続け、失敗し続けることで進展する状況もありうるでしょうけど、どちらかといえば、登場人物の失敗は物語の停滞を感じさせ、見かけ上の派手な盛り上がりを作れず、沈んだ印象を視聴者に与えてしまう。
 つまり、その登場人物が好まれるかどうかを抜きにして、ストーリーや映像の要求からしても「登場人物が勝ち続けなければならない」ことには一理があります。
 さらに作品のテーマを背負い、作品の「看板」として目印であり続けるのが主人公の役目ですから、最終回まで退場することや突然死することなどない、という視聴者の期待に応える必要だってあります。
 主人公の敗北や失敗は、成長物語の是非を説く以前に、「主人公のリタイア」を予感させるネガティブな要素になってしまいます。
 その不安感は、キャラクター表現につきまとう問題というよりも、ストーリーテリングへの「信頼感」にだって関わる問題です。
 この主人公が、もし負けてしまうとお話が崩壊するのではないか? 来週から別のお話になってしまうのではないか?
 子どもは深く考えていないなりに、わかりやすいお話として「主人公がずっと登場していて、いなくなったりしない」という目印をアニメに求めているのではないでしょうか。
 子どもは心が弱く、失敗を嫌うというよりも、わずかな死(物語崩壊)の匂いに敏感なだけだとは考えられないでしょうか。
 事実、子どもはアニメでも漫画でも、いつもいるはずの主人公が登場しない話を見ると、その作品への興味を低下させる傾向があります(その主人公氏を好きかどうかを別として、ですよ)。
 主人公が勝ち続けなければならないという要求は、強さや万能感の要求としてよりも、もっと素朴に「物語から登場人物がいなくなったりしない」という安心感を与えるために、期待されるのではないでしょうか。子どもは「物語のお約束」も漠然としか知りませんし、「最後まで主人公には出番があって、どうせハッピーエンドになるんでしょう」と斜に構えて楽観できる大人でもないのですから。
 とはいえ子どもだって大人びたもので、「どうせ最後にはハッピーエンドになる」と、メタな見方をどこかしらから学ぶものです。しかし一年という長い時間、それを確信していられるでしょうか。
 子どもにとっては初めて付き合うかもしれない一年もののキッズアニメは、その漠然とした思い込みが本当に正しいのかどうかを実地に確かめる一年間になるのでしょうから。
 でも逆に、最初から強くて完成されたキャラクターだけでは、その一年間で描けるドラマが乏しくなります。
 感動的な盛り上がりを作るためには、低いところから高いところへと上昇するという、落差が必要で、解放的なカタルシスを産むには「タメ」の期間も必要です。
 私はことさら「キッズアニメは成長を描かなければならない」とは感じません。ですが、感動的な落差や、「タメ」の期間から解放されるカタルシスが強い方が、アニメを観る子どもも、そしてアニメを作る大人だって、アニメを楽しめるはずです。
 そんなシナリオを作り込んだ作品ほど、完結後も愛されていくはずだと思います。

『しゅごキャラ!』と『ジュエルペット てぃんくる☆』の多重人格的アプローチ

 プリリズの放送開始から数年さかのぼり、『しゅごキャラ!』という少女漫画原作アニメ(2007年~)を振り返ってみましょう。
 PEACH-PIT原作の原作付きアニメですが、第一期のシリーズ構成を手掛けた島田満は、のちにシリーズ構成を行う『ジュエルペット てぃんくる☆』(2010年~)への影響の大きい作品として名を挙げています。
 このアニメの主人公、「あむ」は、「外キャラ」と呼ぶ「他人から見られる自分」と、「ホントのじぶん」とのギャップに悩む小学生の女の子です。
 周囲からはクールなカッコいい美少女というイメージで見られていますが、実は極度の人見知りでイケメンに惚れっぽい、可愛いファッションにも憧れる女の子なのです。でも臆病な彼女は「外キャラ」のイメージを破ることもできず、ホントのじぶんを表現することができません。
 そこで変身ヒロインものの要素として、潜在的な「なりたい自分」にキャラチェンジして戦う設定が用意されています。あむの「なりたい自分」は三種類もあって、活発で明るいチアリーダー、センスの優れたアーティスト、家事の得意な女の子らしい女の子と、あむの「将来の可能性」が多重人格的にキャラ化されています(ちなみに「しゅごキャラ」は「守護霊」の「しゅご」が由来で、守護霊を憑依させて戦うようなバトルものの翻案だと言えます)。
 また、「外キャラ」や「キャラチェンジ」以外にもあむ自身に二重性が存在します。自分は素直になれないクセに、自分のように臆病な人を見ると自信たっぷりにお説教し、なぜか力強く応援できるのです(あむのキャラのひとつがチアリーダーの姿をしてるのも、他人を応援したいという性格を隠しているからかもしれません)。
 こうして『しゅごキャラ!』では、「みんなを助ける強い主人公」と「なかなか自己実現のできない弱い主人公」を同時に描き、特別な力を持ちながらも、等身大に悩んで成長(=精神発達)していく物語を成立させていたのです。
 『しゅごキャラ!』の原作漫画とアニメには心理学的なエッセンスが強く感じられ、特に発達心理学やユング心理学でいう「全人格的な成長」「人格の統合」をイメージさせる物語にもなっています。
 変身ヒロインものとしては、「変身後の強さ」と「変身前の弱さ」を描き分ける手法は定番のスタイルと言えるでしょう(プリキュアシリーズも基本的にそのスタイルを用いています)。
 『しゅごキャラ!』はその構造をさらに複雑化し、キャラクターの心理的なコンプレックスを子ども向けでも理解できるように描いた点が意欲的でした。
 その第一期を構成した島田満にとって、主人公の人格を多重化し、強さと成長を両立させるシナリオの経験は、『ジュエルペット てぃんくる☆』の企画で大いに活かされます。
 『てぃんくる☆』のコンセプトも、一年をかけた主人公の成長でした。
 当時から人気だった『プリキュア』シリーズのように「中学生のお姉さん」を主人公にするでもなく、未熟な小学生を主人公にしています。
 そこで意図されたのが、「ジュエルランド」という精神世界と、現実世界を行き来するファンタジーの設定です。
 泣き虫で引っ込み思案の主人公、あかりは、あむと同様に「なりたい自分」が多く、優しい心を隠し持った少女なのですが、ジュエルランドで過ごすときだけその優しさや強さを解放することができます。
 ジュエルランドでは強い魔法の力を持ち、すぐに仲間から好かれていくあかりですが、現実世界に帰るとまた自信のない女の子に戻ってしまう、という二重性の中で、少しずつジュエルランドの経験を現実世界にフィードバックさせ、自分の殻を破って成長していきます。いつかは、ジュエルランドを必要としなくなるくらいに……。
 そうして、映像上では主人公が最初から強く、明るく活躍するように見せつつも、その実はなかなか成長することができない、という未熟さを同時に描けたわけです。
 さらにジュエルランドには、あかり自身の分身とも言える「影」のキャラクター、アルマも登場します。アルマも「ジュエルランド最強」と言える強力な魔法使いであると同時に、いつもひとりぼっちで、母の喪失というトラウマを持つ脆い心の子どもでした。
 現実のあかりの心の弱さも「私は母親に愛されていないのではないか」という母性愛の欠如感が根本の原因になっていて、あかりは「影」であり「自分の鏡」であるアルマを救うことで自らの弱さも乗り越えられるようになります。

『プリティーリズム』の複数の主人公を立てるアプローチ

 『しゅごキャラ!』や『てぃんくる☆』の特徴は、主人公を多重人格的に分裂させるだけでなく、マスコットキャラや分身として外面化することにありました。
 あむの「なりたい自分」は「守護霊=しゅごキャラ」としてマスコット化し、あかりの内面的な弱さや優しさはアルマという分身や、ジュエルペットと呼ばれるマスコットの姿で外面化します。
 私達がこうしたアプローチから学べるのは、物語を描く上で、「一人の主人公だけが成長のテーマを背負う必要はない」、という考え方です。複数のキャラクターにまたがってテーマを表現することは、むしろ当然の物語作法だと言えるのですが。
 強いヒロインが主役となるプリキュアシリーズもそうで、プリキュア達の成長の振れ幅よりも、プリキュアに救済される敵キャラクターの変化の方が、大きなカタルシスを生む落差に繋がります。とりわけ英雄的な強さを持っていたのが『フレッシュプリキュア!』や『ドキドキ!プリキュア』のプリキュアでしたが、いずれも「イース(せつな)」や「レジーナ」といった敵側の存在を救済していく様子にこそドラマが注力され、プリキュア自身が何かを克服せずとも劇的な感動を呼んでいました。そう、パートナーとなるキャラクターがいることで、主人公の強さも輝くのです。
 そこを学んだ上で、『プリティーリズム』シリーズに戻って見ていきましょう。
 前述の二作とはスタッフもスタジオも異なり、共通点はテレビ東京系の少女向けアニメというだけですから、直接の影響関係があるとは言えません。
 ただ、現代のキッズアニメの作り方として、各々のクリエイターが似通った工夫に収斂していった、とみなすことができるでしょう。

・第一作『プリティーリズム オーロラドリーム』

 まず第一作で試されたのは、主人公格のヒロインを異なるタイプに分けて3人用意する、ということでした。
 そもそも、最初のアーケード版ゲームの主人公は「りずむ」であり、『りぼん』のコミカライズ作品の主人公もりずむでした。
 しかし「ニコニコ動画配信&DVD発売記念特番」(ニコニコ生放送、2011年6月29日)に出演した際の監督は「りずむは30年前のアニメだったら主人公」と評しており、あまり現代的な主人公ではないと認識していたのがわかります。
 それは、彼女がなかなか成長できない、苦労型のヒロインだからでしょう。まさに冒頭で触れた意見に反した、時代遅れなヒロイン造形だったわけです。
 しかし、伝説的なプリズムスターの一人娘という設定で、サブタイトルに繋がる「オーロラライジング」を成功させるというテーマを背負った彼女の立ち位置は、主人公格と呼ぶに相応しいものでした。
 それに対し、彼女の周囲には現代的といえるヒロインが二人配置されます。
 その一人が、表向きの主人公である「あいら」。プリズムショーの素人なのに「心の飛躍によって演技ができる」というおおらかな設定のおかげで、いきなり喝采を浴びるショーを演じてしまう、天然系の主人公になっています。名前の通りにあいらしく、自然に周囲から好かれていく天賦のアイドル性を備えた少女です。
 彼女は自分の才能で苦悩することも少なく、成長することと言えば「自分のしたいことを見つける」という、些細と言えば些細な成長でした。
 二人目の「みおん」はあいらとは逆パターンの天才で、「登場した時点でプロフェッショナルなカリスマ」という描かれ方をする高スペック美少女でした。
 さて、少年漫画のスポーツものなどを参考にしてもいいのですが、あいらの「素人だけど天才なので第一話から強くなるパターン」と、みおんの「物語が始まる前から強さを獲得しているパターン」は、主人公の出し方として重宝されます。ロボットアニメの主役パイロットでも、ありがちな設定でしょう。
 第一作で試されたのは、これらの現代的ヒロインを表に出しつつ、その裏で「タメ」や「失敗」の多いりずむの物語を同時進行させることでした。
 そうした展開の延長で、あいらとみおんを含めた「失敗」を自然に描くこともできたはずです。みおんの指導のミスで、あいらとりずむのデュオがせれのんに敗北した回のように……。純はこう言ったでしょう。「簡単に見つかるオアシスは蜃気楼」「熱せられた砂を掘り、指先の痛みに耐えて見付けた湧き水だからこそ魂を潤し、止まりかけたキャラバンの背中を押した」のだと。物語も同じです。激しい落差を経験することでお話は潤い、前に進む力を得るのです。

・第二作『プリティーリズム ディアマイフューチャー』

 次回作「ディアマイフューチャー」は企画としての紆余曲折を憶測させる作りになっており、評価の難しいタイトルです。
 まず、実在のユニットであるPrizmmy☆とPURETTYを登場人物のモデルにする、という音楽制作会社寄りの企画が先んじ、結果的には前作の3ヒロインに加えて9人、計12人ものヒロインが画面狭しと登場します。
 シリーズ構成も、この多数のキャラクターを組み替えてユニット結成させるなど、エピソード作りの苦心の跡が見られるものでした。当時の監督の発言からも、小さなエピソードを毎回繰り返すのか、大きな物語を一年かけて動かすのか、バランス調整に迷っていたことが窺えたものです。
 しかしそこは一年間ある話数の余裕もあって、最終的には「みあ」が「ヘイン」と競うシンプルなライバルものの形を取るようになります。これは逆に言えば、キャラクターが多すぎたために、かえって「主人公格を分散させる」という技巧的なことも行えず、むしろシンプルに一人の主人公へと収束していく物語にせざるをえなかった、と見なせるかもしれません。
 ただし、みあは自信家ではあっても天才とは呼べないタイプであり、むしろ前作で伝説級となった先輩ヒロインたちの存在あってこそ徐々に成長できたキャラクターだったと言えるでしょう。
 他に魅力的で強烈なキャラクターがいてこそ、未熟なキャラクターの成長も描くことができる。その法則は本作でもしっかりと活きています。

虹色のメインキャラクター

・第三作『プリティーリズム レインボーライブ』

 前二作のノウハウの集大成と言えるのが第三作「レインボーライブ」でした。
 世界観はパラレルワールドでリセットされ、ほぼイチからキャラクター関係を構築できた企画です。ついでに言えば、作品外のユニットとのタイアップ色も減少したため、自由なお話作りを感じさせます。
 また監督のお言葉を見てみましょう。Twitterの2013年08月21日の投稿です(こちらも今は削除済み)。

青葉 譲@aobajo
皆さんもうお気づきかとは思いますが、今回のレインボーライブは主人公が七人体制で構成されております。自分が気に入った子をひたすら追いかけて見るというのも一つの楽しみ方なのではないでしょうか?!

 複数の主人公というアイディアは「オーロラドリーム」と同じですが、人数はその倍以上の7人です。これは「ディアマイフューチャー」の経験から、「一年間で描き切れる人数のコツ」を掴んでの選択だったのだと思います(第一作と第二作を足して割るとちょうど7.5人ですね)。
 第一話から登場する「なる」は、あいらと同じくプリズムショーの素人ですが、あいらほど才能には恵まれていません。第一話の見せ場を持っていくのは「りんね」の役割であり、なるはフィーリングの流れでプリズムストーン店長に採用されます。
 第二話以降、「あん」「いと」のプリズムストーン側のヒロイン達の紹介が済むと、やにわ物語を牽引していくのはエーデルローズ側のプリズムスター達です。
 ヒロ、おとは、べるといったプロフェッショナルの活躍は、映像的に物語を盛り上げるだけでなく、彼らも主人公格のメイン・キャラクターなのだと予感させるように演出されていました。
 坪田文の脚本主導だったべるとおとはの物語は、完全にそっちが主人公だと思わせてしまうもので、なるを傍観者に押しやってさえいました。そしてわかなとあん、いととコウジもそれぞれ重いドラマを背負っていきます。
 ですがそれは、本作にとって必要な過程だったのでしょう。主人公はなる一人ではなく、7人なのです。しかし「主人公は一作品につき一人である」というイメージは強固なもので、簡単に他のヒロインと対等になることはできません。
 ところでレインボーライブは「群像劇」かというと、私はそうではないと思います。群像ではなく、あくまで「主人公」が7人以上いる物語なのです。それぞれが主人公でなければ成立しない物語だと思います。
 そこで本作では、なるを物語の視点役(ナレーション担当の語り部役)に位置付けつつも、物語の中心地に居座ることがないよう、少しずつ居場所をズラしていくのです。
 これは単になるの格を下げているわけではなく、主人公の束縛を中和し、自由な存在に変えていく過程だったと思います。例えば、「主人公なら失恋なんかしないはずだ」という縛りがあるとしたら、いととコウジが両想いだと知ったなるの、涙をこぼす名場面も自然には描けなかったことでしょう。つまり物語を一人で背負う主人公とは、その責任の重さゆえに、とても不自由な存在になりえるのです。
 なるは傍観者だったからこそ、「勝利を背負わされた主人公」という枷から外れていたからこそ、あの涙を見せることができた。
 そして、べる、わかな、いと達も、「一人だけの主人公ではない」からこそ、それぞれの重いドラマを見せていたことを思い出しましょう。
 悩み、悲劇を背負う彼女達はふつうのキッズアニメ主人公では描きにくい感動を与えます。なるもまた「7人の主人公の一人」という位置に収まることで、べる達と同じ「よりフリーダムな主人公の立場」を獲得しているのです。
 そして、公式ガイドブックで監督が「なる以下主人公が7人いて、そこにジュネも入ってくるんですけど」と語ったように、さらなる主人公として「ジュネ」が加わります。そんな彼女が歌うマイソングの曲名は、とても象徴的です。
 「nth color」、何番目かもわからない色。セブンスコーデの七色を超越した、数え方を問わない存在。
 ジュネもまた主人公の一人ですが、そこで「8人目の」と付ける意味はありません。
 8番目にプリズムショーを見せる彼女は、「わかな=RAINBOWのW=7」よりも大きい8でもあり、しかしレインボーライブの世界で最も早くプリズムスターになった彼女は「りんね=RAINBOWのR=1」よりも小さいゼロとも言えるでしょう。
 また、公式ガイドブックで監督は「ドレミファソラシでまたドに戻るから7つの力」とも語っています。するとりんねの分身でもあるジュネは、りんねの「ド」より1オクターブ離れた「ド」と言ってもいいでしょう。
 しかしジュネは、ドのように数えられる音であることを拒みます。何番目でもない色、何番目でもない音。1~7の上でもなく、下でもない。ただ彼女が主人公の一人として認められさえすればいいんですね。
 ひとつの光が、虹色に分解されることをプリズムと言います。
 主人公をプリズムで分散し、それぞれの色を輝かせる。一人一人が、かけがえのない自分の物語を背負っている。それがレインボーライブで試みられたアプローチであり、シリーズの集大成として相応しい完成度を見せてくれます。

少女向け以外のキッズアニメでは

 以上を結論としつつ、少女向けではないテレ東系キッズアニメの話も少ししておきましょう。
 例えばカードゲームアニメ『カードファイト!! ヴァンガード』も興味深い主人公の描き方をしています。
 特徴的なのはとにかく主人公のアイチの勝率がとことん低いこと。特に第一期の序盤では、まさに初心者でしたから本当になかなか勝ちません。
 これは「主人公が負け続けても話は進む」というシナリオの上手さでもありますし、負けても悲観的にならないアイチの演出の良さでもありました。またアイチが追い慕う、櫂という実力者の存在も物語を牽引していたのでしょう。
 面白いのは、第四期である「レギオンメイト編」でも「主人公側のキャラクターがよく負ける」という作風を続けていることです。
 むしろ主人公が強くなりすぎると『ヴァンガード』らしい話にならない、とでも言いたげに、第三期で最強クラスまで強くなったアイチは今期から追われる側へと移り、櫂が主人公に。さらにカムイや石田といった実力で劣る仲間達の方が熱血主人公のような描かれ方をして……やはりよく負けるのです。
 キャラクターを地道に叩き伏せる試練を、よくぞ自然に描いているものだと感心します。
 プリティーリズムがフリーダムな主人公を追求したように、他のテレ東系キッズアニメもそれぞれの仕方で表現を模索しているのだと、『ヴァンガード』を観れば納得できるでしょう。

主人公とメインキャラクター

 最後に、そもそも「主人公」という名称を使いつづける意味はあるのでしょうか? そんな前提を覆すようなことを考えて終わりたいと思います。
 「主人公」とは、古来から使われていたわけではない、近代以降の言葉です。英語のHero/Heroineの対訳語にも使われますが、語源は禅宗の書である『無門関』で、仏教思想的にはほとんど今の用法と関係のない言葉です。
 ですから、「主役」という言葉の方がまだ的を射ているのかもしれません。
 昔、日本では主役のことをどう呼んだか。それは一定していませんでした。
 歌舞伎では主役を「一枚目」、色男役を「二枚目」、道化役を「三枚目」と呼んでいましたが、この中では当然と言うべきか、美男子役である「二枚目」が人気役者の役どころだったというのは面白いものです。
 時代は変わっても「物語を背負わされた主人公」よりも、その周囲のキャラクターの方が幅広い魅力を発揮できたということでしょうか。
 また、狂言の世界では「狂言回し」という言葉があります。お話の中を案内進行する視点の役で、「語り部」に近い意味です。語り部といえば有名なのは「シャーロック・ホームズ」のワトソンでしょう。「ワトソン役」と言えば語り部の代名詞になるくらいですから。
 ただ、語り部と言うとあまり物語に参加しないイメージになりますが、狂言回しは自分自身が物語の中を進んでいくケースもあります。
 プリティーリズムの中では、特に「なる」がこの狂言回しに近い立ち位置でした。その場合、「りんね」という主役を迎えて見送るまでの視点を担うという、『竹取物語』の「竹取の翁」と同じ立場で捉えられます。
 かぐや姫と竹取の翁、または羽衣伝説の天女と男、どちらが主人公なのかは微妙でしょう? 『ドラえもん』という漫画でも、一応のび太が主人公というのが公式な設定ですが、明言しなければドラえもんが主人公だと思う人はいるでしょう(ちなみに、ドラえもんのように作品名とイコールのキャラクターを「タイトルロール」と呼びます。しかしタイトルロールと主人公が一致するとはかぎらないのが一般的です。手塚治虫の『火の鳥』もそうでしょう)。
 このように考えていくと、「主人公」「主役」という名指しは流動的であり、あまり根拠がないことが理解できてくると思います。
 では、主人公候補となりそうな登場人物たちを、ひっくるめて呼ぶ方がいいのか? そう考えて、今回の文章の中では「メインキャラクター」という言葉を用いました。
 例えばWikipediaの声優記事では、声優が演じたキャラクターの一覧で「※太字はメインキャラクター」と注意書きされることがあります。主人公やメインヒロインを含む、レギュラーキャラの中でも主なキャラクターという意味で使われているようです。
 また、プリティーリズムの公式ガイドブックやビジュアルブックの商品解説でも、「メインキャラクターを演じる声優たち」「春音あいら、上葉みあ、彩瀬なるをはじめとした各シリーズのメインキャラクター」といった言い回しがされており、適切な表現だと言えそうです。
 英語で主人公は「セントラル・キャラクター」とも訳せるのですが、「レギュラーキャラクター」→「メインキャラクター」→「セントラルキャラクター」の順に中心度が上がっていく、と使い分けられるでしょうか。
 この「メインキャラクター」という言葉を話して、私達は何を伝えることができるでしょう?
 何より『プリティーリズム』について伝えるなら……そうですね、こんな使い方はどうでしょう。主人公を分散させるアプローチによって生まれた、鋭く現代的なシナリオ手法を示したいときに、「プリズム化するメインキャラクターの構造」と呼んでみることとか。
 でも、アニメのメインキャラクターがみな、主人公格の物語を演じるわけではありません。そうなるためには、レインボーライブのような「プリズム」に輝かせる力が必要なはずです。
 単にメインキャラクターの人数を増やすだけでは、物語が支離滅裂になるものです。そして、観客が多数のキャラに目移りしすぎると、肝心なテーマを示すメインキャラクター(レインボーライブでいうとりんねやなる)のお話が眼中に入らなくなる恐れだってあります。
 プリズムに変化するメインキャラクターは、繊細なバランス感覚と、観客を誘導する演出力(そしてちょっぴり贅沢な尺の話数)あってこその表現手法なのです。
 一年間、4クールという豊かな時間を使い切るからこそ可能だった「プリティーリズム三部作」のシナリオですが、そこから学べることは大いにあります。
 まずは、そんな作品からもらったギフトの大きさを忘れずに語り継ぐこと。そして、主人公などの先入観に縛られず、フリーダムに他のアニメにも向き合っていくこと。
 それがプリティーリズムを見終わった私達が、今後も行いつづけられること……のはずです。

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