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現在のこと〜少し寄り道〜

これまでのことを振り返っているところではありますが、エネルギーがいることなので、なかなか前に進めなくなってきました。
ここは気分を変えて!
今回は少し寄り道をして、現在のことをお話をしていこうと思います。


長男と次男

現在長男は中学3年生、次男は小学2年生になりました。
次男は、長男が小学1年生の秋に生まれてきました。
生まれてからの数年間は先のことが分からず毎日が必死で、一日一日を過ごすことに精一杯でした。
出産のときのお話はまた詳しくお話するとして、生まれたあとのお話を少ししてみようと思います。

生まれてきた次男は生きていくために、最低でも3度の手術が必要であると言われていました。

1度目の手術は思っていたよりも早く訪れました。
出産した晩、部屋に主治医が訪ねてきました。
『あさって(生後2日目)手術が決まりました。』
一度長男のところへ帰ろうと思っていた夫を引きとめるように言われ、私たちは翌日、手術についての説明を受けることになりました。

産後間もない私はただでさえ情緒不安定な心境で、術前の説明というのはそれはそれは怖ろしい言葉がたくさん並びます。
堪えきれずまるで子供のように…
泣きながら先生の説明を聞きました。
今考えても、目の前で号泣する私を前に話をするのはとてもやりづらかっただろうと思います^^;

術前の説明は何度聞いても慣れることはなく、毎回ズーンと重くのしかかります。
最悪の事態…を説明しなければならないので、仕方ありません。
ですが先生方は、丁寧に私たちにも分かるように繰り返し説明してくださいます。
当たり前ですが、お医者様の知識の深さと説明のうまさに毎回感心します。

難しい言葉がたくさん並ぶので、理解しようと私はの頭はフル回転!
私は催眠術をかけられたかのように、毎回眠くなります(笑)

単心室(使える心室が一つしかない)の心臓病に対して行われるフォンタン手術は、誰もが進める訳ではなくたくさんの条件をクリアしなければなりません。
そのためにカテーテル検査で評価を繰り返しながら、悪いところがあれば治療をしながら、目標である根治手術(フォンタン手術)を目指しますが、息子は不整脈があったため、アブレーションやバルーン治療・姑息手術を1回はさみ、計4回で目標のフォンタン手術を終えることが出来ました。

フォンタン手術

フォンタン手術とは、上大静脈(上半身の血液がもどってくる静脈)、下大静脈(下半身の血液がもどってくる静脈)の両方を肺動脈をつなぐ手術です。最近では、Total Cavopulmonary Bypassの頭文字をとってTCPCと呼ばれることもあります。
フォンタン手術の前にグレン手術が行われている場合には、すでに上半身から帰ってくる血液は肺動脈に流れているので、下半身の血流を肺動脈に流す手術となります。
フォンタン手術は、「(使える)心室が一つしかない」心臓病に対して行われる手術です。
具体的には、三尖弁閉鎖症、左心低形成症候群、単心室症、純型肺動脈閉鎖症の1部などが病名としてあげられます。
生後、はじめからフォンタン手術を行うことはまれで、通常いくつかの段階的な手術を経てからフォンタン手術へたどりつきます。
生後、肺血流が少ない場合は、BTシャント術が行われ、肺血流が多い場合には、肺動脈絞扼(バンディング)術という肺血流を少なくする手術が行われること が多いですが、グレン手術はその次の段階の手術となります。グレン手術を行わずにフォンタン手術を行うこともありますが、これは各個人の状態や、施設 の方針によっても異なります。
フォンタン手術が終わった後は、基本的に、チアノ-ゼはなくなり、酸素飽和度は90~100%近くとなります。ただし、肺の状態などによっては、「フェネストレーション」と呼ばれる穴をわざとあけておいて、少しだけチアノ-ゼを残すかわりに全身の静脈の圧力があがりすぎないような手術をすることもあります。
フォンタン手術には、人工血管をつかったり、自分の組織だけを用いたりとさまざまな方法があり、どの方法が一番良いというのは、いまの段階でははっきりとはわかっていません。
グレン手術の段階では、全身へ回る血液のなかに青い血液が混じっていますので、「チアノ-ゼ」があります。
フォンタン手術は、下大静脈を肺動脈につなげて、すべての静脈血がそのまま肺へながれるようにする手術です。

国立成育医療研究センターHPより

フォンタン手術にたどり着くまで

免疫力が低く人が集まる場所や、特に小さな子供さんたちが集まるような場所にはなるべく行かないようにと言われていました。
秋に生まれたので、季節的に寒くなりインフルエンザなどの感染症が流行る時期ということもあって、風邪をひいただけでも重症化する可能性がある息子は、暖かくなるまで家族にお披露目をすることも出来ませんでした。

術前は、本人はもちろん家族も体調を崩していると入院出来ません。
また、手術の日程は突然決まるので、常に家族の体調管理にピリピリする毎日でした。

ベストな状態で手術に挑みたい!
タイミングを逃したくない!


そんな思いで、とにかく手術を控えている時期はずっと気が休まることなく、張り詰めた気持ちで過ごしていました。

手術の度に神様・仏様・ご先祖様…
と思いつく限りの尊い方たちをお呼び出してお願いごとをするため、普段はとにかくネガティブな感情は抱かず良い行いをするように心がけ、自分の中の小さな悪も排除しました。

願掛けのためフォンタン手術が終わるまでは、大好きなお酒も禁酒しました。

在宅酸素の卒業

生まれてから4歳になるまで、在宅酸素を利用して生活していました。
フォンタン手術の前の、グレン手術を受けるまでは酸素を0.5㍑〜1㍑流して80台。
泣くとそれ以下に下がってしまうので、小さい頃はなるべく泣かせないようにずっと抱っこしていました。
まとまった睡眠がとれず、新生児のような生活が長く続きました。

フォンタン手術が終わり半年後に、カテーテル検査がありました。
血液の循環はうまくいっており、心臓の動きも問題なし!
在宅酸素は晴れて卒業となりました。
SPO2は90台へとあがりました。

それまで、どこへいくにも相棒だった酸素ボンベ…
4年間当たり前のように使用していたので、なんだか物足りないような寂しいような、不思議な気持ちでした。
カニューレを外したお顔は、日焼けでチューブのあとがうっすらと残っていました。

酸素がない外出は、見違えるほど楽で…
これまでの頑張りを自分自身も実感しました。

こども園入園

在宅酸素の卒業を前にようやく、こども園への入園にむけて動き出しました。
第一希望の園は、在宅酸素を利用していた園児を卒園させた経験があったので、まだボンベをからって見学に行ったのですが、先生方が落ち着いて対応してくださいました。
とてもアットホームな雰囲気で、息子と同じクラスになるであろうお友達は、面倒見のよい子どもたちばかりでその雰囲気も決め手になりました。

次男はというと、はじめての同世代の子ども達との触れ合いに、緊張し石のように固まっていました(笑)

この2年間で見違えるほどたくましくなりました。
想像していた以上に行事ごとに参加させて頂き、とても有意義な2年間であったと同時に、リスクがある中いろんな事にチャレンジさせてくださった園に対して、感謝の気持ちでいっぱいになりました。

小学校入学

結果的に、通っていたこども園の校区にある小学校へ入学しました。
今住んでいる地域の長男が通った小学校は、市内でいちばん大きな小学校だったからです。

長男がまだ在学中であれば、おそらく同じ小学校へ通わせたと思うのですが、長男と7つ離れているため小学校へ一緒に通うことは出来ませんでした。

入学式のあと、教頭先生より息子の身体のことについて在校生にお話ししてくださったそうです。
全校生徒20名の小さな学校なので、お兄さんお姉さんたちがたくさん助けてくれました。
小規模校なので先生の目が行き届くことと、私自身も送り迎えの際先生方と顔を合わせコミュニケーションをとれることが、安心感へと繋がっています。

1年が過ぎてさらにたくましくなり、元気に2年生へと進級しました。
弱々しかった赤ちゃん時代とは違い、口ごたえも兄弟喧嘩もします!
ひょうきんで口が達者!思いもよらない方向から攻撃してくるので、思わず吹き出してしまうこともあります。

とはいえ、良くないことは教えていかねばと心を鬼にしますが、元気な姿を見ていると大変だった入院生活を思い出し、こんなことを言うようになったのかと内心嬉しい気持ちもわいてきます。

県外の病院で言われた、
『自衛隊やオリンピック選手にはなれないけれど、走り回ったり体育に参加したり、健康な子どもさんと同じような生活が出来るようになることを目指しましょう』
という思い描いていた目標に、いつの間にかにたどり着いていました。

毎年次男の誕生日は頑張ってきたことに想いを馳せて、これまで関わってくださった先生方や助けてくれた家族や友人など、たくさんの人たちの顔が浮かび感謝をする日になりました。
日々の忙しさでつい忘れてしまいますが、今こうしていることが当たり前ではないこと、自宅で過ごせる何気ない日常がなによりの幸せであることを思い出させてくれます。

一瞬心がキューッとなるのは気付かないふりをして、一つ歳を重ねられたことを目一杯喜びたいです。


つづく(●'◡'●)





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