2022年のこと

1年に一度ぐらいは1年の振り返りを残しておこうと思ったものの、あんまり思い返す気もしないなと思っているうちに、今年も1か月を過ぎようとしてしまった。
後から振り返れば、いくらでも経験の意味合いは捏造できるし、感情もドラマチックに書き換えられる。その時思ったことはできるだけ時間をおかずに残しておくべきかもしれないけど、気持ちは言葉にする過程で、自分の語彙力に押し込められる範囲で捏造され、増強される。考えるたびにつらくなることはできれば考えず忘れてしまう方がいい。

いろんなことを思っていたはずだけど、考えても考えても気持ちがいい方向に向く気がしなかったので、考えるのをやめた。今年悩んでいたことについてあまり人にも話さなかった。被害を受けてくれたのは、母と、友人、友人の妻ぐらい。誰かに話すために言語化すること自体、気持ちを捏造し増強させる作業のように思われたのであまりやらなかった。

ここ最近になって、友人に今年はこんなことがありましたと話したら、なんですぐに言わなかったのと言われた。そんな聞かされても困るやんと話したら、それはすぐ呼んでもらっていいやつや、と言ってくれたのが、なんかとてもよかった。そうなんだ、それぐらいの友達だったんだとか、思ってうれしかった。

母に、ずっとやりたかったことをやれているし、まだまだやりたいことがあるから、結婚にも子供を産むことにもあまり興味がないという話をしたら、育ってほしいように育ってくれてよかったといわれた。これも、とてもよかった。(なお、ケッコンと入力すると、血痕と変換された)
自分の人間性を批判される機会が多かったので、何がわたしをこうさせたのかをよく考えていた。結果として、両親が育てたように、かつ、私が理想と思うとおりに私は生きていることがよくわかった。

家の前にあるほとんど車が通らないような短い信号を守り、ビルの警備員さんに元気に挨拶をしているかぎり、私は自分のことを嫌いになることはない。
仮にこの2つも守れず、自分の思う理想的な生き方ができなくなったとしても、家族に愛されているし、友人もいるので、自分を嫌いになることはない。いうても、私は人から愛されているからな、ということが自分を支えてくれる日が来るとは思ってもみなかった。

こんなじめじめしたことを残したかったわけではないのだけど、本当はライブやコンサートに行きまくったこと、何度も一人旅をしたこと、サッカーを見に行ったこと、人と頻繁に会うようになったこととか、書きたかったんだけど、2022年を振り返ったときに思っていることは、周りに人がいてくれてよかったに尽きるので、これが捏造していない気持ちだと思います。

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