最近のこと

このコロナウイルスで外に出られない間に何個かの記事を書こうとしては途中で諦めてしまった痕跡があった。最近は、何も考えずに過ごす時間の方が多くて、あまり何かを書こうという気持ちにもならない。

どうしようもないことをたくさん言いたい。どうしようもないことも言葉にして吐き出さなければどんどん苦しくなってしまう。言わなきゃ気が済まないだけだから、言う相手は誰でもいいし、こうやって誰にも伝わらない形でも構わないのかもしれない。本当はそんなことはない。聞いてほしい相手にこそ言いたい。でも、そんなに人生甘くはないから、せめて誰かに聞いてほしいから、こういうものを書いて、人目に晒したり、ツイッターにネガティブなことを書くのが止まらない。そういう自分のことが嫌いではないから、余計にやめられない。

最近は、お金で解決できることはなんでもお金で解決してしまえばいいというようなことを考えている。何をお金で解決したかを明らかにはしないから、論旨がはっきりしない感があるが、お金で解決できることはお金で解決してしまったほうがいい。すぱっと払ってしまえるぐらいの額なんて、一か月働けば大体同じぐらいの額は稼げているし、そのことでくよくよ悩んでいる時間がもったいない。

何かをお金で解決してしまったときに、努力を放棄したとか、そんなことより内面を磨くことの方が大事だとか言われるということをインターネットでみた。簡単な反論として、努力したって解決しないことをお金で解決したのだ、だとか、お金を稼ぐことだって努力だ、だとか、十分内面を向上するための努力はしているだとかが思い浮かぶ。特に最後の、内面を向上させるための努力について、わたしに対してこれ以上努力をしろ、結果をだせと言える人は日本中を探してもそう多くはないと強く思ってしまう。

自分のことを正当化するために、この、努力とは何かということを考え続けた挙句、なぜお金を使ってショートカットをしてはいけないのかという結論にたどり着いた。ショートカットをすることの何が悪いのか、今まで理論的に説明できている言説を見たことがない。努力をしたから素晴らしいのか。結果をだしたことこそに意味があるのではないか。結果こそ全て、なんて思ってしまえば、結果をだせない自分の首をどんどん絞めてしまうのに、都合のいい場面では、結果こそ全て、力こそパワーと思ってしまう。

しかし、それでも、理論がいくら正しくても、人間の感情を止めることはできないから、やっぱりなんだか、あーあ。いやだな。

せめて世の中に対して強く主張しておきたいのは、お金で解決できることで解決したことが、わたしの人生にもたらす影響なんてさして大きくはないということである。悩みの種はいくらでもある。最終的にたどり着かなくてはいけないところは、そのひとつひとつの悩みをまぁいいかと思えるところ。せめて、前向きな原動力にできるところ。その境地には、いくらお金を積んだところでたどり着けるわけがなく、自己肯定感だとか、自尊心だとか、よくわからないふわふわとした概念をインストールするしかないのである。

この世はだいたい自分の思うようにはいかない。人の感情はコントロールできない。

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