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言葉がないから異文化をつなげない

国際政治についてもヨーロッパについても僕はほとんど何も知らないのだけれど、聞いていて何やらモゾモゾするものがあったので少し書いてみようと思う。モゾモゾするに至った動画は以下に貼り付けておく。なお、モゾモゾした部分は、動画の趣旨(主題)とは直接関係ない部分である。

動画の中で、小国分立のヨーロッパでの伝統的な合意形成の仕方というものへの言及があった。それによれば、ヨーロッパでは昔から、合意形成する際には、担当者同士が集まった時に、こういう状況なんだからここに関してはお前譲れとか、ここに関してそっちがそうなんだったらこっちはこうするとか、やり合って、一つもの(決め事)が決まっていくのだとのことらしい。会議でよくナントカ文書が採択されたとか、ナントカ宣言が合意に至ったとか言っているが、会議の成果としてはそうしたものが「文書」の形でまとめられるのが通例なわけだ。

これを聞いてあーやっぱり日本は違うなぁと思った。自分などいちITエンジニアの立場であるにもかかわらず、紛れもなくそう思った。

ITでたとえば「要件定義」という工程があり、「現場にヒアリングして業務フローをまとめる」というような仕事があるが、憚られるが正直に言えば、うまくっているところを見たことがない。まとめられた文書は「暫定」にすぎず、残念ながら現場感覚に100%沿ったものにはなっていなくて、そうした文書に基づいてITシステムは作られていくわけだから、結果それは、業務全体の何かよくわからない一部分を中途半端に代替する、効果的なのかどうかよくわからないものに仕上がってしまうのだが、どうも「上(うえ)」がこれを使えというから仕方なくそれを使うことになる・・・、といったことが、ザラに起こり得るのがうちらの現場だと思う。

つまりは、言語によるコミュニケーションが、日本においては発達していないのだと思う。現場を同じくし、共に仕事をする仲間同士では、阿吽の呼吸のように共有できる何らかの感覚があるものの、それを越えたところでは、いっこうに意思疎通など進まなくなってしまい、互いに相手を見下すか敵視するか嘲笑うかして交流をなくしたまま、以降もそれぞれのまとまりのままで永久に幸せに暮らしていく。何あろうこれが、日本では最高に幸せなやり方だったのだと思う。

現に日本社会では農村でも都会でも、それぞれの職種とか職能集団ごとに「部族」のようなものになってしまっており(形成されており)、何かの理由でその部族から弾かれれば、訳ありな人として別の部族へと迎え入れられ、その部族の中で以降の生を得ていくという考え方が、昔から存在しており、また今でも一般的な考えとなっていると思う。(少なくとも私の知るある組織において、「部署」というものは・・・(以下略))。

なので、私のようにこんなふうに、言語でもっていろんなことをペラペラとくっちゃべる人間は、日本人の中では少数派であり、もっと言えば異端であるから、当然いじめられるし、通じないやつとして迷惑がられるし、基本的に鈍感だったので、何事もなくやってこれてはいても、そのじつ非常なストレスをも周りにはかけていたのかも知れないわけで、誰が悪いわけでもなかろうに、面倒くさい話だなと思う。何せ自分の場合、何かを思いつくとき大抵それは言語として思いつくのだから。

工業のほとんどがアナログだった時代「すり合わせが得意」としてもてはやされた日本人の特性は、デジタル全盛の今になり逆にデメリットとなっていることの背景の一つにも、この問題があると思う。

ITエンジニアをやっていると「よく」この問題にぶち当たる。方法論は西洋式、適用現場は日本式という、基本的には異質な2文化だから、「なじむ」ということがない(期待できない)わけであって、ITの現場はそこをなんとか「だましだまし」やっているにすぎない。

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