見出し画像

「でも」は自分を守る言葉なのかもしれない

いくちゃんから「いづみちゃんの好きなお菓子作ったけど食べる?」とラインが来た。食べるに決まってるよ。

夕方家の前を通るからサクッと渡すと言うので、駅前まで出ていくよと返信して、新しくできたモールの中庭にある、けやきの木の下でマスクをしたまま、ちょろりと座っておしゃべりをしたんだった。

いくちゃんは自宅でお菓子の教室をやっている。いや正確には、やっていた。コロナが始まって、当たり前のように教室はお休みとなり、家に籠もるうちに自然とお菓子も作らなくなっていたのだという。
作る習慣を無くすと、勘が鈍る。でも作ったからといって家族で食べ切れるわけでもなく、このご時世の中でおすそ分けが喜ばれるかどうかもわからず、「3月ぐらいから、私、ちょっとおかしかったよ」と言うので、
「うん、私もおかしかったよ。たぶん、みんな口に出していないだけで、たくさんおかしくなった人がいたと思う。人によって考えていることに温度差があるから、声をかけるのも気を使うよね」と言ったら、いくちゃんは
「ほんとに? よかったよ、私だけじゃなかったんだ」とほっとしたように笑った。


なんだかちょっとおかしくなっていた間、いくちゃんは「でもね」ばかり言っていた気がするのだそうだ。「誰かがかけてくれる優しい言葉にも、「でも」「でも」ばかり言って、私、なんか嫌な人間になっちゃってたよ」。

なにか言われたら速攻で「でもさ」とか「違うよ」って言っちゃう人は、私の周りにもいる。あれはたぶん、無意識のうちに自分の身を守っているんだと思う。内向きになっているときは、そうして相手をシャットアウトしておかないと、かろうじて保っている気持ちのバランスが崩れてしまうから、とりあえず「でも」「でも」と繰り返すことが必要な時期も、たぶんある。

そういえば、以前何をやっても、「わー、よくそんなことやるね。私には絶対無理!」と言う人がいた。どうやらそれは褒め言葉のつもりらしいのだけれど、言い方も含めて、ちっとも褒められている気がしなかった。ただ「素敵だね」と言えばいいのに、「絶対無理=できないし、やらないし、やりたくもない」みたいなニュアンスが加わるのは、やっぱりどこかで自分の身を守っていたのだろうと思う。

「お菓子を作っておすそ分けしたの、コロナになってからはいづみちゃんがはじめてだよ、話せて気が楽になった。だから私、もう“でも”って言うのやめて、これからは人の言うことに対して “そうなんだ”って、まずは肯定形で言うようにしてみる。それ、すごく気持ちが違う気がするよ」
「うん、それ素敵だ。今日からそうしよう」
「そうしよう」。
夕日が沈みかけた郊外のショッピングモールの中庭で、私達は力いっぱい手を振って別れた。

いくちゃんのお菓子は、いつものように優しくて甘くて、ほっとするしあわせな味がした。それは肯定と共感ができる人が作り出す、きちんと芯のあるおいしさなのだと思った。
コロナはいろいろなものを壊していったけれど、私達は「でも」とか「無理」なんて言いながら自分を守らなくたって、もうちゃんとやっていける。

私も今日できることを、少しづつ。前を向いて行くんだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?