昔々の学生時代の思い出―(その1小学生時代)
現在73歳で学生時代は昔々の出来事となってしまったが、今の自分の生きざま等を形成したのも、やはり学童時代含め学生時代の体験だと思う。
実は小学校入学は1年遅れである。
それは父母が肺結核にかかって、筆者も羅漢し2年間埼玉県の病院に入院していたからである。
その間兄二人は東京日暮里の文房具商を営む父の兄(伯父)のところへ引き取られた。伯父には筆者より1歳上の一人息子がいた。
筆者の病は比較的軽く8歳の時(2月生まれの早生まれ)(昭和31年、1956年)退院できたが、もはや伯父のところでも引き取る余裕はなく、北海道室蘭で当時国鉄の貨物列車の運転手をしていた母の兄(伯父)に引き取られることになった。
こちらの伯父には二人の息子がいた。
一人は札幌で町の医院の院長をしていた旦那を持つ筆者の母の姉さん(伯母)(室蘭の伯父の妹)のところから北大に通い、一人は室蘭の自宅にいて将に北大を狙って浪人中であった。
当時東京から室蘭まで青函連絡船含め当時約35時間以上かかった。
伯父が国鉄に勤めていた関係で、当時の2等車で行けたため、長旅でもそれほど苦痛ではなかった。
当時、東京から北海道に来る子は珍しかったのだろう。
土地の男の子は皆坊主で継ぎはぎだらけの服を着ていたのに、筆者は坊ちゃん刈だし、着ていたものも何となく違っていたのだろう。
初めの頃はよくいじめられた。
ある日ちょっとかわいい女の子と話してたら小石を投げられ、そのうちの一つが眉間の下、鼻の付け根に当り、出血した。
もう少しずれていたら命に関わったと医者に言われた。その時の傷跡は今でも残っている。
それ以降、何事もなかったように、仲良くなり、いじめもなくなった。
時には友達の家にも呼ばれた。その時今でも覚えているショックがある。
飲み物は飼っているヤギの乳、ご飯のおかずは、滓みたいなとろろ昆布がわずか。
伯父のところも大きな息子が2人もいて生活苦しかったと思うが、そんな経験はなかった。
伯父・叔母・その2人の息子ももう故人になってしまったが、感謝以外の言葉見つからない。今はとろろ昆布も高くなったが。
いじめがなくなったのは小学校の先生の存在も大きい。
何かと気遣ってくれて、土地の子達との交流のため、よく水族館や学校行事とは離れた遠足など学校の友達と一緒に過ごす課外活動参加の機会を作ってくれた。室蘭の小学校には2年間いたが、情熱のある2人の若い先生だった。
1年生の時は男、2年生の時は美人の女の先生だった。
また、伯父の国鉄仲間の子供が多く通う小学校で、親同士の絆も強く、その子供達も仲間意識が強く、彼らは筆者をすぐ受け入れてくれた。
室蘭の小学校時代のそのほかの思い出としては、東京に戻ってからの比較になるが、給食が旨かった。
これは、後で話そう。
東京に戻ってきたのは父母が退院した小学校3年生の時。
入院時母は特に症状が重く、手術で肋骨を4本とったそうな。
母は結核になる前に腎臓も1つ取っており、満身創痍といえるが、呆けもせず、全く人の世話にならずに101歳まで生きた。
室蘭の小学校(武揚小学校)時代と比較し東京日暮里での小学校生活は殆どいい想い出はない。
小学校3年生の時はアバタを厚化粧で隠した結婚を控えた女の先生。
4年から6年まで家庭科と国語しか教えられないコルゲンコーワ顔のおばさん”先生”。
北海道の小学校に比べ、何となく自由さがなかった。それと給食のまずさ。
筆者と同年代の方なら覚えていよう。あの脱脂粉乳を。給食と言えば、垢みたいなアルミの容器に入った脱脂粉乳とコッペパン。せいぜいひじきの煮物つく程度。
筆者は東京に戻ってからはランドセルは3年生の時使用しただけで、4年生からは兄たちが使い古した布製の肩掛けカバンを使用していた。
時々コッペパンを残しこのカバンにしまっておいては、ネズミが中にあるコッペパン喰おうとカバンに穴を開け、パンクズがその穴から落ちていたこともあった。筆者には7歳と6歳年上の兄がいて、少なくても2個のおさがりのカバンがあった。敗れた穴は母が手縫いで塞いでくれていた。おさがりは背広もそうで、大学卒業まで兄たちのおさがりを着ていた。
ところで室蘭にいた時、給食費とか教科書代を小学校に持って行った記憶がない。
単に記憶がないだけかも知れないが、北海道での給食はほぼ毎日サケの牛乳煮込みとコッペパンだった。
先に書いたが、その小学校は国鉄関係者の子供たちが多く、当時の国鉄が援助してたのかも。
東京の小学校では校庭の狭さにも驚いた。
1週80mがやっと。そのままだと運動会の時100m徒競走ができない。
北海道の小学校は一周は優に100mを超えていたが、その他に歩いて1時間ほどの山のすそ野に1週600mの運動場があって、運動会はそこで行われた。
5年生、6年生は400m競争であった。
筆者は残念なことに北海道の気候になれず、しょっちゅう寒冷蕁麻疹起こして1年のうち約25%は休みで、秋行われた運動会には2回とも出席できなかった。
東京の小学校の4年から6年までの担任だったおばさん”先生”は酷かった。
何せ家庭科と国語しか教えられない。
算数もだめ。
理科・社会に至っては3学期に1度教科書を我々に読ませて終わり。説明なし。
体育は自習ばかり。
図工と音楽は専門の先生がいた。
そして家庭の都合と教職員組合活動でよく休む。
隣の組は若い教育熱心な男の先生で、何人も有名私立中学に合格させていた。
こんな訳で筆者の小学校時代は北海道室蘭の時と東京に戻ってからの時とでは全く対照的であった。
次回からは中学から大学時代のエピソードを書いて行こうと思います。
筆者の投稿をお読みいただいた方々は多分気づくと思いますが、筆者が権力や権威を酷く嫌ってきて、それらに逆らう事を、いわば生きがい・生き様にしてきた事を感じられると思います。
それは、中学以降、特に高校以降の筆者の体験によるものであることが、お判りになるかも知れません。
(追記)
室蘭市の小学校は武揚小学校といいます。
在籍からすでに64年経つのによく名前覚えていました。
それは校章が印象に残っているから。
でもその校章等調べてたら大ショック。
平成27年(2015年)3月末に閉校していた。
109年もの歴史あったことも知ったが。
本当に有難うございます。励みになります。元々書くことは好きなのですが、一旦書き出すと長くなります。こんな時、絵心があればと思います。