昔々の学生時代の思い出―(その4 予備校、大学時代)独り立ちの時代
1. 予備校時代
予備校では、ある意味、講師からの一方向の講義であるが、予習・復習を繰り返すことで、1日1日問題が解ける喜びを知った。
特に高校時代苦手であった数学・物理の問題が一皮剥けたように理解できるようになった。
中でも物理は高校時代解答集を見ても全く理解できなかったのが、嘘のようであった。何故そうなったのかは思い出せないが、予備校での授業の方が、高校のように単にテクニックではなく、本質的な教え方をしていたように思う。
大学では微分・積分を使った式が面白く、それを駆使できるようになって、益々好きになったが、予備校ではここまでではなかったと思う。
予備校もコースが5段階あり、入校時は一番下のクラスだったが、時間が経つにつれて上級クラスに編入になり、数学等の試験の模範解答として張り出されるようにもなった。
無論この時代は、遊びに行く事などなく、予備校で気に入った女の子と珠に話す事と、家で、ダンベルや椅子等を使って筋トレする毎日であった。
それでも毎日自分に自信を取り戻して、上野高校では決して味わったことの無い充実した日々であった。
よく予備校で名物教師というのが自慢の予備校もあるが、この予備校は、そうした講師はいなかったが、一方通行とは言え、実に教え方が上手だったのだろう。
2. 大学時代(1968年から1972年)
受験は東京工業大学を狙った。
充分手ごたえはあったが、最後の物理の問題で大きな計算間違いをしてしまい、残念ながら不合格。
結果芝浦工業大学工業化学に入学。
ただし合格番号順が定員外で補欠だったのか。
筆者は以前書いたようにお山の大将が好きな方で、むしろ芝浦工業大学の方が向いていたかも知れないが、どうも補欠だったのではないかと思ったことは、闘志に更に火をつけた。
芝浦工業大学の本部校舎は港区芝浦にあるが、1.2年生は東大宮キャンパスに通う。
大宮キャンパスには寮があり(当時の寮は長屋みたいであった)、地方から来た学生が住んでいた。
時々お邪魔をしては、一緒にインスタントラーメンすすったり、マージャンしていた。
しかし予習・復習は欠かさなかったし、とにかくメモ魔とあだ名される程、授業に没頭していた。
ただ、どこの部屋に行っても「ちょろまつ君」のマンガ本が積まれていたが、その良さは筆者には分からなかった。
■ 学園紛争
筆者の人生の生き方に多大な影響を与えたのは、やはり学園紛争である。
芝浦工大は工学部しかない単科大学で、他大学と比べても授業料は安かった方だろう。
それでも学費値下げ要求を契機に学園紛争に突入した。
あの当時の学生はマージャンに明け暮れるか、デモに参加した経験のある学生は多いのではないかと思う。
筆者は別にいわゆるセクトに入っていた訳ではないし、むしろ保守的であったが、団体交渉の時の自分達の利益のことしか考えていないと感じられた理事たちの受け答えを見てから、何かに怒りをぶつけるためにデモに参加した。
芝浦工大のデモは単科大学にも拘わらず、運動当初は付属高校生も含めて多い時は4,000人くらい参加した事もあり、機動隊から「お前らの学校は動員力すごいな」と言われた事があった。
新左翼と言われたセクトは1つだけで数10人、他はノンポリ。
共産党系から創価学会系まで一緒にデモを行っていて、他大学から非常に異質であったろう。
そのうち共産党系と創価学会系は離れて行く。
今から考えれば若かった。
早稲田大学から東京駅まで軽いジョギングの速度で駆け抜けたこともあった。
また、いわゆる日比谷公園の松本楼放火事件の時、日比谷公園の中で、ノンポリの友達4人とベンチに座り演説聞いていたが、放火事件からまもなく機動隊がなだれ込んできた。
「全員検挙」との声が聞こえて、今度こそ駄目かなと覚悟したら、5人くらい前で、留置場が一杯だからという理由で検挙されなかった。
そのほかにも兄のお古の背広着て顔が老けていていたせいか、友人が検挙されても、筆者は「先生はこちらに出て下さい」などと言われて何回か検挙を免れた。といってもただデモに参加しただけだが。
デモと言えば確かに不純な気持ちもあった。
当時の芝浦工大は建築科か土木科に数人女子学生が入学する程度。
筆者の時も入学者全体で女子学生一人。
ましてや工業化学科など見向きもされなかった。
彼女らは大体セクトに入っている男とできちゃう。
今じゃミスコンもあるらしい。
筆者は高校2年生からずっと男子だけのクラス。
デモに行けば、女の子の手を握るチャンスもあった。
また一時、体育会系に芝浦を追い出されて、慶応の三田校舎のいくつかの部屋を借りていたこともあった。
そこで見たのは、校内を品の良いお坊ちゃま、お嬢ちゃま達が手を繋いで歩いていた。こんな雰囲気でデモなどする気は起きないね。
さて、何故学園紛争が筆者の人生に多大な影響を与えたのか話を戻そう。
● 前述した自分達の利益ばかり追求する理事たち(権力側)への反発。
● 教師という者への幻滅。
ある時、国立大学を退官して、芝浦に就職した教師が講義用の机に残した講義原稿を見つけた。
そこには、「ここでこう言って笑わせる」「ここで話題を変える」などと書かれていた。
それも何年も使っているのだろう。
原稿用紙が黄ばんでいた。
大体何年も同じこと言ってるなら原稿なんか使うな。
もっとも画面から動かず一心不乱に下を向いて或いはプロンプターで原稿を読むだけの放送大学の講師陣も多いが。プロじゃないね。
また、学園紛争一段落した際、「出席してさえくれたら優をあげます」と言った、やはり公立大学退官教授もいたが。
教師としてのプライドが微塵も感じられない。
しかしながら、それを歓迎している学生も多数いたのも事実である。
中には代返頼んで授業にも出ない奴らもいた。
一方で学園紛争でロックダウン中にも拘わらず討論の輪に入ったり、デモ
に参加したり、その期間悩み抜いた比較的若手の生え抜き助教授や教授も少数ながらいた。
でも大多数の教師は、学園紛争には無関心であった。
今考えるとロックダウンは約1年間続いたが、その間、給料は支払われていたのだろうか?
彼らはその間何をしていたのだろうか?
● 教わるのという受け身ではなく、自立的姿勢の確立
大学ロックダウンの間、確かにマージャンやデモもした。
ただ、そのうち勉強したいという気持ちも強くなった。
1年生の時、高校時代全く理解できなかった物理が微分・積分を使って考え、解答する授業に出会ってから、物理の授業が楽しくなった。
また、化学は元々好きな学科であったが、特に化学工学に夢中になった。
何よりも計算尺を使うのが楽しかった。
今は全てコンピューターの時代だが、当時は科目ごとの計算尺が用意されていた。
アポロ13号の映画を見た人は多いだろう。計算尺で軌道計算をしていた場面にはビックリした。
そんな折、学園紛争で1年以上ロックダウンとなった。
そこでまず、復習から始めた。
そして時間があるから、教わるのではなく自分でやってみようと一歩踏み出した。
予習の際は「分からないところは授業で聞けばいいや」となるが、自習の際はそうはいかない。分からないままでは次に進めない。
1日に大学の授業と同じ科目を最低4時間は自習してただろうか。
中でも没頭したのは化学工学。
その際、役に立ったのが長兄が使っていたテキストだった。
長兄は東大の博士号取得迄奨学金を得ていた総合化学工業の大企業に永久就職したが、専門は化学工学であった。
ある日、自習している筆者を見て、「これも使ってみると面白いと思うよ」と何冊かの参考書を貸してくれた。
初めはやはりレベルが高すぎる。
しかしながら、何度もそれらのテキストを行きつ戻りつしているうちに段々理解が深まった。
化学工学だけでノート何冊使ったことだろう。
そのうちテキストにでてくる文献も読みたくなって本屋に直接注文したり、国立図書館に行った。
こうしてロックダウン中に実験や卒論残し、2.3年生で習うべき殆どの部分を自習で終わらしてしまった。
この時、違う癖も身に着いた。
参考書によって式が違うのに気がついた。
そのため、一つの参考書や文献に出てくる式をそのまま信用してはいけない。
印刷間違いがある場合もあるから、いくつかのもので確認する癖がついた。
また、計算尺による計算は、時にケタ数の間違いをしている事がある。
そのため、可能な限り自分で検算する癖をつけた。
これは、社会人になっても同じで、出版物中にいくつもの印刷や計算間違いを見つけ、その都度出版元に連絡した。
このような自習癖がついてしまうと、人から何か教わっても、それ自体を自分で検証しなければ納得しない。
そして自分でその問題だけだけじゃなく、関連した事項も広く深く調べるということが癖になった。
特に、この広く・深くというのはコンサルタントになってからが顕著である。
筆者は、ODAプロジェクトで施設管理のオペレーターではなく環境問題全体を自分で考えるトレーナーを育てるべく指導をしてきたが、まず彼らに伝えるのは「疑え、自分で検証する姿勢を持ち続けよ」である。
こうしてみると学園紛争によるロックダウンの時期は筆者にとっては、自分の生き様を形成する基礎となった時期であった。
本当に有難うございます。励みになります。元々書くことは好きなのですが、一旦書き出すと長くなります。こんな時、絵心があればと思います。