諦める事なかれ! くじける事なかれ!

以下はある意味、自分の経歴の一部とも言える内容であるが、挫折を味わい、自分の境遇を嘆く人に「諦める事なかれ! くじける事なかれ!」と伝えたい。

自分は現在73歳。実質10回の転職を繰り返してきた。
ただ履歴書では10回も書ける欄はないので6回となっている。


1日行って「こりゃ駄目だ」と直感し、その夕方辞表出したところもあった。 
そしたら、その転職先の上司は「よくぞ見破った。俺も来月辞めるんだよ」と言った。

また、1年半いたが、雰囲気が悪く、そこでの在籍自体を思い出したくもない会社や半民半官の人材銀行を通じて三顧の礼で迎えられながら、親会社の方針が変わったという理由で、入社後半年以内で辞めざるを得なかった会社もあった。

一方、人生の転機になった会社もある。

40歳の時、英検準1級合格直後、親父の遺伝なのか世界に出たいという欲望が強くなった時だった。 
まだ設立されたばかりでオーストラリアに本社を置く膜メーカーの日本支社の応募に受かり生活がガラリ変わった。

給料の要望を聞かれたので、それまでの業界の平均値を要望したら、なんとその1.5倍ものオファーであった。

自分は一貫して同じ業種(水処理)の業界(中小企業)にいたが、今から考えると給料の水準は世間より低かったと後に知った。これも後から分かった事だが、同期の仲間はもっとふっかけた給料を貰っていた。

その外資系会社は新しいせいもあり、日本での受注実績少なく、仕事は結構楽であったが、それでも毎年給料は20-30万円ずつ増えていった。

それに安住して6年半が経った時、突然リストラを言い渡された。
当時同期は殆どが、日本支社設立当時のアメリカ人社長(支社長)から東大で講師をしているという調子のいい男に代わってから次々辞めて、自分だけが残っていた。

水処理業界と言っても自分は荏原系(廃水処理)、その男は口先だけで栗田系で合わなかったのは事実であり、狙われた感は否めない。
何でという思いから横浜市の無料弁護士相談に相談したら、会社都合という要因と退職金の額から、もはや争っても勝ち目はないと言われ、やむなく退職した。

それからが次の就職先決まるまで4カ月間かかった。
慣れない職安通いとそこで紹介される会社を訪ねては、こちらから断った。6件ほどあったろうか。
当時、まだ長女が高校2年生、長男が中学2年生で、普段は文句ひとつ言わない家内は「どこでもいいから早く決めて」と強い口調で懇願したが、自分には今までやって来た事と取得していた水処理や分析に必要な国家資格を3つ持っていたので絶対的に自信があった

その間、以前勤めていた2社からも誘いがあった。
理由は「お前さん いなくなってからイエスマンばかりで面白くない」との2人の社長の共通の話であった。

そんな折、リストラされた会社をいち早く辞めて、どこかに就職した人から「俺また違う会社に行くんだが、一緒に来ないか?」と誘いがあった。
彼は自分がその外資系会社に入社して間もなく、ある物件の失敗で辞めざるを得なくなった人である。

誘いのあった会社は新興建設コンサルタント(実は在籍自体を思い出したくもない会社)であちこちの分野の有資格者を求めていた。
コンサルタントなど経験がないから非常に迷ったが、結局彼とその会社の強引さに押し切られて就職することにした。
実はこの時、ある人材銀行通じて、好きな分野での就職が決まりそうであった。 
わずか1日の差で、強引さと給料が思ったより高かったためもあったし、「コンサルタント」という響きにもある意味動かされた。

その会社自体は「コンサルタント」と言っても測量がメインの「コンサルタント」で下請けか孫請けであり、自分達の分野は自分達で何とかしろという態度であった。

そこで自分を誘ってくれた人が昔のつてを使って当時我が国で1.2位を争っていた大手コンサルタントに自分達を売り込みに行った。
そうこうしているうちに、下請け、孫請け的な立場ではあったが立て続けに3件のODA案件に従事した。

その後、ばったり仕事がなくなり、会社から給料減額と嫌がらせを受けるようになったので彼の勧めもあって退職した。

すぐ大手繊維メーカーの子会社で環境分析を主体としたコンサルタント会社に就職した。
この会社は半民半官の人材銀行を通じて三顧の礼で迎えられながら、親会社の方針が変わったという理由から半年以内で辞めざるを得なかった会社である。

でも辞めざるを得ないと知っていても不思議に焦ってはいなかった

そんな折、deadlineが迫る年末に、先の大手コンサルから電話があった。

「今何してる」と電話の向こうで聞くので「これこれ、こういう訳で来月辞めなければならないんです」と言ったら、「そんな理由なら、もっと早く連絡してくれればいいのに。すぐ辞めてうちに来なさい」と言う。
実は電話口の彼には会った事なかった。

入社後分かった事だが、彼は環境部の部長で、はじめのODA案件のプロマネが自分の知識・能力・仕事ぶりを気にいってくれて、何かの時に呼ぼうと名前を覚えていてくれていたそうな。

そのプロジェクトでは、自分の前に4人同じポシションで働いたが、プロマネが合格点をつけたのが唯一自分だったそうだ

晴れて、日本で1,2位を争う総合大手コンサルタントに入社できたものの正社員ではなく、形式上は契約社員。自分で確定申告する身分であった。

その理由は、正社員で雇う条件として、技術士または下水道技術検定第1種を持っている事が必須と言われた。
正社員でなくても待遇は、正社員と殆ど変わらず、収入もそれまでで最高であった。

技術士資格は30代の頃、国際条約を満足させる廃棄物処理法を確立したと思った時、取ろうと考えた。

しかしながら、その後、更に多角的側面から結果を検証した。
確かに、廃棄物関連法や下水道法に合致している。
ところが環境問題全体を考察した時、その処理法は確立したとは言えず技術というものは、単に法律に合っていればいいというものではない。
従って、技術士になる資格はないと諦めた。
それほど技術士資格というものは自分にとって高尚なものであった。


それでも前述の3件のODAのうち米国のPE (Professional Engineer)と一緒に仕事した時、ある分野では、自分の方がはるかに知識も経験も豊富と感じた
ただ当時はPEと日本の技術士とは制度が違い、技術士の優位性が言われていた。

決定的だったのは、その大手のコンサルタントで2年という長期の下水道プロジェクトに携わった時である。

そこに従事する、その会社の日本人は若手以外は全員技術士資格を有していた

彼らと仕事しているうち、先のPEに感じた事をまた感じた。

「この程度で技術士と言えるなら俺も取ってやる」と決心した

実は前年、そのプロジェクト参加前に30万円もする6回の答案添削コースを自費で取ったが、どう書いたらいいか分からず1回も答案提出せず、結局30万円パー。

次の年そのプロジェクトで自分と同様の背景を持ち、5科目の技術士と中小診断士を持っていた人と一緒に仕事することになった。

自分が試験勉強で悩んでいると知り、「答案添削してやる」と言ってくれた。
その時、技術士試験の答案の書き方等を丁寧に指導してくれた。

技術士の試験は当時図などを除くと数秒に1字、専ら約6時間論文を書き続けなくてならない体力勝負
初回挑戦時は自分の経験を示す論文は、先の廃棄物処理とそれに伴う廃水処理に関わるものであった。

出来栄えとしてはよくまとまっていると指導をしてくれた人も言ってくれたが、桜咲かず。

彼の友達が試験委員をしているため、秘密裏に何故落ちたか聞いてくれたとの事。
それによると、

まず下水部門の試験委員長は「これは下水ではなく廃棄物部門」と主張して、水処理業界から来た試験委員と論争があったが、結局委員長の裁量で合格点に届かなった。

更に、他の論文でもコンサルになる前に従事していた膜処理ばかりに焦点が当たっており、博士論文みたいで技術士としてふさわしくない。
技術士は広く・浅くでいいので次回はキーワードを散りばめて答案を作成
すればいい。ただ設計指針に出てくる数値をこれほどすらすら書ける人は殆どいない」と励ましてくれたとか。

次年度は、忠告に従って自分の経験は明らかに新しい下水処理技術についての論文と、他の論文は問題に対するキーワードを散りばめたものに仕上げた。
年を取っていたせいか面接も容易で試験官が敬語を使う程で、見事合格

先の部長曰く「技術士資格持って入社するのは大勢いるが、入社後、しかも50歳過ぎて技術士資格取ったのは初めてのケース」

下水道技術検定第1種も下水道技術士試験と共通の論文形式で、これも難なく取得した。

更に次年度は内容が似ているので水質管理を専攻として衛生工学部門を受験した。

水道・下水道部門は解答例付問題集もあり、またインターネットでも話題を見つけやすいが、衛生工学部門は、そういったものはなく過去問題とそれに対する話題を自分で探しては解答できるように何度も練習した

何せ最後には手首が動かなくなるほど書いて書きまくる試験で、実試験で問題見て考えて解答していたら、絶対と言っていいほど受からない。
そのため、問題を見て反射的に解答する癖をつける練習を徹底的に行った。

幸い海外に行かない場合、通勤時間が片道約2時間半、うち1時間半は必ず座っていられたので、電車の中でノートに解答をスラスラ暗記するまで書いた。
当時50人受けて自分含めて合格者2名。

これで晴れて正社員となったが、会社がいくつか不都合な事を起こしてしまい、殆どは後の裁判で無罪となるが、ニュース沙汰になり会社の存続すら危ぶまれた

丁度キューバにいた時、偶々補強として参加していた会社の部長から「ベトナムのプロマネとして来ないか」と誘われた。「ベトナムに打診するから経歴書を書いてくれ」と言うので、それを渡した。

水専門のコンサルタントではあるが、自分では他のコンサルタントに興味があり、日本に帰ってから接触していた。

これも1日違いで、先のコンサルが「ベトナム側がOKした。これが契約書。逃げられないよ。給料はこれで」と言ってきた。

行きたかったコンサルタントは1日遅れで給料を提示したが、先のコンサルタントの方が条件が良かった。この時57歳で条件よく転職

5年前(68歳)、そのコンサルも辞め今は実態のない自営業

2年間は個人コンサルとして海外プロジェクトに実際に従事

昨年2件のODA案件にアサインされ、元受けと契約したが、客先の業務指示書が余りにも美辞麗句を並べ立てた割には実現は非現実的なので、途中で自分から契約を解除した。

73歳になった今もなお、ODAの話がくるし、一応自分の技術士資格を必要としている会社の社員となって社会保険も貰っている

これもリストラされても自分を信じ、苦労して52歳で念願の技術士を取得し、更にコンサルタントとして自分で様残な分野に興味を持ち、情報を仕入れ、かつ実践的に挑戦したせいだろう。

中には故人になった人もいるが、ここで挙げた人は無論、それ以外にもこの間自分の人生を変えてくれた何人もの人たち、会社に感謝の念を伝えたい。

ところで先日オンラインでTOEIC IP テストというもの受けた。

TOEIC自体は2009年に受けて、まずまずの点数であったが、この間問題形式も変わり、また2009年当時に比べ、それこそ1.5倍くらいの情報処理能力スピードが要求されるためと、このオンライン形式の準備期間がわずか3日くらいで、今回は2009年度の点数の85%くらいの出来。

俄然またファイトが沸いてきてコロナ終息後、ODAの仕事とは関係なしに、またTOEIC自体を受けようと計画している。

更に、できれば気象予報士の資格にも挑戦したい。
でも、もう73歳だからね。あと何年正常な生活送れるか。
それこそ「諦める事なかれ! くじける事なかれ!」と自分自身を叱咤しなければならない時期になってきた。

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本当に有難うございます。励みになります。元々書くことは好きなのですが、一旦書き出すと長くなります。こんな時、絵心があればと思います。