昔々の学生時代の思い出―(その3高校時代):落ちこぼれの時期と反抗心の芽生え
高校は都立上野高校。上野公園の端、東京芸術大学と上野動物園に接しており、東京大学本郷キャンパスからも徒歩圏の文教地区内に位置する。
当時、有数の進学校として名を馳せていた。通っていた中学からは6人合格した。
筆者は中学2年生までは常に学年で1.2位を保っていたが、3年生になると、2-4番目に下がった。
当時思春期特有の問題で前ほど勉強に熱が入らなくなった。
上野高校入学には900点満点で800点以上とらないと合格できないと言われていた。
受験が近づくにつれて模試結果を見てもこの点数を取ることは段々困難になっていた。
そこで自分では1ランク下の高校に変えようとしたが、これまた同学年で競争意識のある担任に説得されて、結局上野高校を受験した。
試験結果を自己採点するとやはり800点に届かなかった。
それでも何とか合格できた。
合格してみて喜んだかと言えば、そうではなかった。何かそれからの高校生活を暗示するような胸の内であった。
筆者はお山の大将的な性格とは分かっていた。そのため、ぎりぎりで合格したという負い目もあったのは確かである。
入学式の何日か前新入生は全員登校され訓示と宿題を出された。
入学式でもないのに訓示する校長や学年主任達が皆、「本校は何人東大に入学した」とかいう話ばかりであった。
その時からすでにこの高校への毛嫌いが始まった。
実は、筆者の長兄は当時東大の4年生。東大でオール優を貫いていた。
「たけし君ハイ」ほどではないにしても、それこそ両親・親戚の自慢の息子であった。
筆者の家は貧乏であった。
親父は戦争前、大学卒業後日本の軍国主義的風潮を嫌って中国に渡り、北京大学の夜間部で中国語を学んだ。
戦争中は中国語が話せるため若くして満州の製鋼所で出世し、また軍隊でも通訳として重用されたらしい。
それが戦後の引き上げで無一文になり、また肺結核を患い、その後も喘息もちで、また筆者同様短期で会社に勤めては、すぐ上司と喧嘩し、時には社長の頭にビールをかけて辞め、いわゆるルンペン生活が長く、お袋の内職で生計を支えてるような暮らしだった。
それでもこの数年前から、今や名門になっているゴルフ場の建設交渉に携わり、常務の肩書を持つようになって、いくらか生活に余裕が生まれていた頃であった。
長兄は開成中学・高校から一浪を経たものの東大工学部に入学した頃は、生活が苦しかった為、ある大企業の奨学金を援助を修士課程・博士課程でも得ていた。そのため、その会社に一生務めた。
兄は化学に進んだのだが、大学に行った親戚の息子は皆化学の道に進んだ。中には意にそぐわない親戚もいたが、親が勧めた。
筆者も根は化学屋である。
兄は全く偉ぶるところはなかったし、筆者と7歳も年が離れていたから、よく面倒をみてくれたが、どうも「東大」と聞くと条件反射的に虫唾が走った。
今では、「東大出たから何なのよ」となるが。
さて、実際の高校生活が始まると、1年生の時から「ここは東大によく出る部分です」とか、日本史の授業で「世界史を受ける人は寝てていいですよ」とか、受験の話ばかり。
そういうことに反感を持つようになって、1年生の後半には、すでに段々勉強する意欲を失っていった。
当時学年には8組あって、そのうち4組だけ男女クラス。
男女比は3:1であった。筆者は1年生の時だけ男女クラス。あと2年間は地獄の男子クラス。
女子で中学時代成績優秀な子は白鴎高校に行く。
従って、上野高校の女子は入学時概して男子に比較して学力が低かった。
無論高校生活で頭角を現した女子を何人も見たが、授業に着いて行けないで1年生の途中で退学した女子も何人も見た。
そうして、筆者も授業に着いて行けなくなり、宿題もさぼるようになった。
そんな折、同じような境遇を感じた友達が何人かできた。
いわゆる「落ちこぼれ組」。
うち一人は豪快で真の親友であったが、ガンで15年ほど前に他界。
もう一人は3年まで同じクラスで、今も音信がある。
筆者達は授業そっちのけで上野公園でボートを漕いだり、音楽喫茶に入り浸る、3年まで一緒であった友達の家でマージャンに打ち込んだりするようになった。無論賭けマージャンではないが。
高校生活で教師への最大の反発心を産んだ事件について触れよう。
数学は毎週小テストがあり、その成績優秀者の名前を廊下に張り出す。
2年生の時、ひょんな事から長兄が高校の時使った数学の問題・解答集の確率論に興味を持ち、1週間ほど打ち込んだ。
その後高校で確率計算の試験が4週に渡りあった。
すべて、問題集に出ていた問題で、当然全部正答した。
ところが、その4週の結果だけ、廊下に張り出されなかった。
数学の先生は2人いて、そのうちの一人は当時NHK3チャンネルで高校数学を担当していた、40台前半の講師でもあった。
それまで、その小試験に1度も名前が載らない奴が、突然4回とも満点取ったのが不審だったのだろうか?
とにかくこの事件で僅かに残っていたプライドさえもズタズタにされた。
これが教師に対する本格的な不信感・反抗心の始まりだった。
数年前までは、男女クラスの時の同級会が定期的にあり、日本に居れば可能な限り参加していた。
当然、その時、当時の担任ではないが、教わった先生全員に声をかけるのだろう。
この2人はいつも出席しては、その後どこの高校に移った。そこの高校は何人東大に入学する。というような話をするだけ。
当時の他の生徒、特に女生徒には未だに人気があるが、筆者は2人に近寄らないようにしていた。
当時の事思いだすと、それこそ、親父みたいに頭からビールぶっかけてやりたくなるから。
一方、1年生の時の担任は英語の先生で、定時制の先生でもあった。
東大とか、受験によく出るなどという話は一切しないし、親しみがあった。 いい年をした教え子が同期会で名刺交換や自己紹介などすると、目を細めてリスペクトしてくれた。
他の高校時代のエピソードとしては、
● 制服がなかった
当時の学校としては珍しいと思うが制服はなく、上野公園あたりで煙草
ふかしても学生服着ていた訳ではないし、結構老けた顔してたから警察
官含め周囲から注意を受けたことなかった。
夏休みに教室で自習していた時に煙草を吸っていたら、見回りの定時制
の先生から「火の用心だけはしてください」と言われただけだった。
● 予備校(補習科)があった。
何と校舎内に予備校(補習科)があった。
東大、東大と言っても現役で受かる生徒より浪人して受かる生徒の方が
圧倒的に多い。
現に筆者の学年で現役合格者は1名だけ。たしか20数名は浪人生。
3年生男子の約1/3が東大を受ける。
受かるのが目的というより東大受けた事が自慢なのか。
それ故浪人生も多い。
浪人生のうち優秀な者は駿台予備校へ、中くらいは、この補習科校舎
へ、更に落ちこぼれは、それぞれ好きな予備校へ行く。
筆者は、都立大を目指したが、受かる訳なくあえなく撃沈。
自分で駿台に継ぐレベルくらいの予備校へかろうじて滑り込んだ。
予備校の試験さえ落ちるのではないかと落ち込んでいた。
● 平林寺に大きな運動場・体育館があった。(1973年返還)
上野の校舎にも2つの校庭があったが、平林寺(埼玉県新座市野火)に広 い運動場があった。1週400m以上。運動会や運動部の合宿はそこで行わ
れた。
長さ51m(寸法を間違えたらしい)もあったが、当時はもはや使用され
ておらず、プ-ルの真ん中に木が生えていた。
● 水不足の年、筋トレ事始め
校舎にプールがあったが、丁度水不足の時で、水の入れ替えできず、や
たら塩素臭かった。
この時、自分が余りにも体格が貧弱であることを自覚し、6歳離れた次兄
が使っていたダンベルセットで筋トレ始めた。
筋トレは今や57年のキャリア。
● みじめな修学旅行
修学旅行は男子組で迎えた。
中学の時もそうだったが、奈良・京都コース。男女組は車中でも楽しく
やってたようだけど、男子組は最悪。誰か帰りの「日の出号」のなかで
爆竹鳴らしたのがいた。
● 芸大ののぞき見-唯一の楽しみ
唯一の楽しみは上野高校は芸大の隣にあり、高校のトイレの窓から芸大
の美術の授業が観られた。ヌードのモデルも時々見えた。
● 柔道で骨折
剣道か柔道が体育の選択必須科目で筆者は柔道を選択した。
授業の相手が弱そうだったので、投げられてやろうとして、受け身間違 え腕を複雑骨折した。
更に治りかけの時友達と外出して、躓き、足首にひびが入った。
10年くらい梅雨の時期になると腕・足首痛み整骨院で電気治療を受けて
いた。
● こわもての古文の先生
普段非常に厳しい一見こわもての古文の先生がいた。
前もって暗記して授業に出るように言われ、必ず授業が始まると人を指
す。
筆者は、勉強自体にやる気なくしていたので、いつも覚えないで授業に
出ていて、指されないよう毎回下を向いていた。
ただ、その先生は、ほぼ毎回決まった女子を指した。
彼女は不満を漏らしたが容赦しない。
でも解説は丁寧で、筆者も古文が好きになり、随筆だらけの国語より点
数が良かった。
最後の授業で、柔和な顔で、皆の今後の人生を励ましの言葉をくれた。
その女子は、本来優秀であったから、先生も安心して指したという事で
あった。
● 親戚だったとは
マージャンをする友達の家に一緒に帰る時、必ずといっていいほど寄るア
イスクリーム屋があった。結婚寸前に分かったが、ここは伊豆修善寺を実
家とする家内の親戚であった。
卒業後、クラス会や同窓会等で、東大出て暫くして仕事で行き詰り自殺をしたとか、病気で早死にしたとか聞くと、「東大出たからって何」という疑問が湧く。
そして、当時の上野高校の方向はおかしいのではないか?
筆者が卒業して暫くして学校群制度を嫌って有名私立に生徒が行くようになって、学力低下が進んだ。
また最近「自主協調」、「叡智健康」という2つの教育目標があり、この教育目標のもと、「学力」「進学実績」「人間性」の三つの向上を目指し、「進学に向けたアドバンス校」、「英語教育推進校」として、「地域・東京を代表する進学校」「名門校の復活」を目指していると聞く。
ただ、また、「学力」「進学実績」に力点を置きすぎ、筆者が感じたような落ちこぼれ感・疎外感を与えないように、絶え間ない教師の自問自答が求められと思う。
筆者も学校ではないがODAプロジェクトで施設の運転管理を指導することを何年も行ってきたが、何より「教えてやる」という姿勢では生徒は伸びない事を肝に銘じて欲しい。
どうしたら「やる気を引き出せるか」が教師としての面白さであろう。
最後に
結局学歴なんか、一生をみれば何の役に立ったのだろう?
自分で自分のして来た事に恥じる事なく、胸張って生きて来られたら、それでいいじゃないか。
筆者は確かに金銭的には蓄えは少ないが、今でも資格や経験が求められ、誰かに、何かしらの役に立っている。
次回は、落ちこぼれ人生を変えた予備校時代から激動の大学時代。教師への不信感、しいては権力への反抗、人に頼らず、自分で進む癖がついたエピソードについて触れたい。
本当に有難うございます。励みになります。元々書くことは好きなのですが、一旦書き出すと長くなります。こんな時、絵心があればと思います。