昔々の学生時代の思い出―(その2中学時代)
まず、親や教師への反抗期というものはなかったと思う。
中学は荒川区立第10中学校。
長兄が卒業した開成か最低でもその区域一番の都立高校目指して、それこそ“四当五落”(今は“六当五落”或いは“七当六落”というらしいが)の毎日であった。
当時筆者の周りでも塾に通ってる同級生は殆どいなかったと思う。
とにかく教科書は勿論、市販の問題集と格闘漬けの毎日であった。
だから、女子だけでなく、朝の全校朝礼の時、気分が悪くなり、保健室へ運ばれる男子も多かった。
青い顔してるのが自慢という時代であった。
しかも高校入試は9科目の時代。
今考えると唯一息抜きできたのは、夏休みに出た音楽の宿題。
毎日何かしらの音楽聞き、その感想文を書く。
大体分かりもしないクラシック音楽かジャズなどの軽音楽しか聞かなかった。
クラシックは今でもあまり縁はないが、軽音楽特にラテン音楽やジャズ等ムード音楽は若い頃から好きであった。
演歌(歌謡曲)は好きだったが、その感想を書くのは、抵抗があった。
筆者の年代は戦後のベビーブーム。いわゆる団塊の世代。
第10中学校も第8中学校から分かれた学校であったが、1組50-60人で8クラスあった。
これが1年生から3年生まである訳で、本校舎では収まらないから校庭にプレハブで臨時の教室建て、2部授業を行っていた。
懸命に勉強したのには、長兄が卒業した開成か最低でもその区域一番の都立高校目指したための他に小学校入学が1年遅れたこともある。
何かにつけ、年が上だから、できて当たり前みたいに周りから思われているのは分かっていた。
先生は幸いなことに40台前半の校内一の教育熱心と評判の男の先生が1年から3年まで一貫して担任であった。
元々は社会科の先生だが毎日必ず宿題を出す。
同じ漢字を100回書いてこいとか、毎日何をしたか日記をつけろとか、何か反復練習が多かったように思う。
ノートを毎日提出して、そのコメントが必ず書いてあった。
しかしながら筆者が大学生の時、同窓会を開いた時の事。
違う中学で教頭になっていた、この先生を招待したが、ベロベロに酔っ払って猥談を始め、「これ終わったら、いい姐ちゃんいるとこ知ってるから池袋へ行こう」などと大声をあげだしたのを見て、筆者の“教師”を見る目が変わった。
特に印象に残る教師があと4人いる。
一人目はスモールチィーチャーと呼ばれていた1年生の時の英語の先生。
英語の発音時の口の形や歯や舌の位置などを黒板一杯に書き、英語らしく発音できるキッカケを与えてくれた。
二人目は日本史の先生。
授業が始まると、まず黒板にやたらと文章を書く。
生徒はそれをノートに書き写すのに集中している。
大体いつもノート2枚以上は書き写す。
ひとたび黒板に書くのが終わって、まもなく「ハイ 筆を置いて」が口癖であった。
ところが、この授業が分かりやすい。
筆者は世界史も日本史も好きだが、歴史好きは、この時からだと思う。
歴史にどんどん興味が湧いてきて、家で時間があれば開成中学・高校で長兄が使っていた文献を集めた参考書で該当箇所探して、自分なりに、授業用ノートに書きこんでいた。
三人目は理科、特に化学の先生。外部から来た美人の先生。
当時リケジョなど珍しい時代で、その先生が来る日は生徒だけでなく、学校の先生達も楽しみな様子だった。
授業も実験が中心で、筆者が化学が得意になったのも、この先生のお陰だろう。
振り返れば小学校時代のコルゲンコーワ(担任のおはさん先生のあだ名)が酷すぎたからね。
4人目はいつもは体操の先生。
実は夏休み等の補習では、いつも数学を教えている先生より、分かりやすく教える数学の先生となる。あだ名は「鉄仮面」。
人は見かけで見てはいけないことを教えられた。
嫌だったのは3年間坊主頭だったこと。
多分当時公立(区立)中学全体がそうだったのか記憶にないが、外に出る時は坊主頭と分からないように学生帽を深くかぶった。
特に恥ずかしかったのは修学旅行。
悲しかったのは、2年生の後半で一部の生徒が新しく建設された区立中学に移ってしまったこと。
いつも昼休み砂場で相撲をとっていた男友達の他、かわいい女の子の殆どがそっちの学校に移ってしまった。
中学校時代は、単に受験勉強に明け暮れる日々を過ごすだけだった。
そして、何とか区域一番の都立高校に入学した。
これが、ある意味自分の生き方に大きな影響を与えることになる。
本当に有難うございます。励みになります。元々書くことは好きなのですが、一旦書き出すと長くなります。こんな時、絵心があればと思います。