嵯峨野の月#146 最終話 平安時代
最終章 檀林10
平安時代
嘉祥三年(850)夏のお昼前のことである。
宮中に参内する為に馬を進めていた参議、小野篁は朱雀大路の上でふと辺りを見回し、地方からやってきた旅人、物資を運ぶ荷車、頭に籠を乗せて客を呼び込む行商人の様子を見ながら…
この都もやっと名前の通り本当の平安京になりつつある。
としばし感慨に浸った。
だがここにいる名も知れない民が明日明後日の不安もなく真の平安を得る為には、
遷都から五十年以上かけて二度の政変、旱魃、疫病の被害に遭った多くの人の犠牲とそれを乗り越えるた為働いた人々の弛まない努力と献身があり、
その上に今の生活があることなど彼らは思いもしないだろう。
この人たちが十年二十年と出来るだけ長く平安を享受出来ますように。
と心中で願いながら篁は再び馬を進め、今日も藤原と渡り合う為に内裏へ向かう。
まあ、これが貴族にとっての「日常」なのだから仕方ないな…と馬上で苦笑する篁だった。
「全ては民のため民のため、と」
その日の夕方、宮中から帰った右大臣、藤原良房はまずは嵯峨天皇の皇女で妻の源潔姫から
「惟仁さまの今日のご様子は?」と聞き、
「今は起きておりますから会ってもようございますよ」
と返事が来ると弾み足で二月まえ、一人娘の明子が産んだ文徳帝第三皇子で後に清和帝となる孫、惟仁に会うのを何よりも楽しみとしていた。
首が座っていない初孫を慎重に抱き、
「惟仁さまぁ〜、今日はご機嫌でしたかぁ〜?」
と頬ずりする良房のでれでれとした笑顔に赤子の母も祖母もとても外にはお見せできないだらしなさだわ…と呆れ果て、
「さあさ、泣かせてしまわない内にお床に寝かせて上げて下さい」
と注意されるとはい…とうなだれて孫を床に寝かせる。
両親の遣り取りに
外では右大臣として威張っている父上だけど家では母上の言いなりなんだもの!
と明子は吹き出してしまう。
お産の為に実家に戻ったら気鬱の病も治ってしまった明子は、
私を病ませていたのは藤原からの押し付け物と思って私を愛そうともしない帝と既に二人も皇子を産んだ紀静子のいる後宮そのものなのだ。
と確信し、これからは必要最低限以外後宮に行かないようにしよう。惟仁さまさえ健やかに育てばいいのだもの。と密かに決めていた。
赤子を囲んで家族皆が笑っている右大臣家に良房の兄、藤原長良がいつにない仏頂面で弟を訪ねたのはそんな折のことだった。
「あの業平が降格させられたのは知っているよね?」
と温厚な人柄で名高い長良が苦虫を噛み潰したような顔で杯の酒を飲み干す。
「まあ…和歌好きの先帝は彼の者の才を買って側に置いておりましたが潔癖なお人柄の今上帝が業平の私生活の放埒さをお許しになる筈がない当然の人事かと」
と杯に酒を注いであげながら良房が答えると長良は赤くなった目できろり、と弟を見据え、
「次代の天皇の外祖父になる夢を叶えて有頂天か?良房。
業平降格の真相はな、事が事だけに氏素性申せぬ姫君に業平が手を付けてしまい、入内の予定が立ち消えになったため帝が激怒なさったからだ!
まったく、あやつの貴種の姫好みにも困ったものだ!
そのうち我が娘の高子の寝所に業平が忍び入るのを想像するとたまった者ではない」
「ちょっと待って下さい兄上、高子はまだ九才…」
「業平ならわざとやりかねないから困っているんだ!
なあ良房。高子が惟仁さまと結婚するまでの十年間でもいい、なんとかこじつけて都から追放出来ないか?奸計が回るお前を見込んでの相談だ」
それ、全然褒めてませんから。兄上。
と思いながらも良房、本当は藤原をよく思っていない帝と貴族たちとの仲を取りなしてくれる人格者の兄の心配を解消してあげようと思いついた妙案を口にすると、
「それしかないだろうな。この事はお前に一任するから直ちに実行して欲しい、頼む」
と機嫌よく長良が帰って行った翌日、良房はお忍びで業平の家を訪れ、
「…どうかね?何年間か東国づとめの任を果たしてみないか?六位に降格して昇殿できなくなったあなたが返り咲く最後の機会だと思うぞ」
とここだけの話として東国の領地を貴族の領地として機能できるようにするための院宮王臣家の東国への進出(荘園の形成・経営)事業の先鋒に立って欲しい。
と将来の展望を打ち明け、
「これは平城帝の血を引く貴種の業平さまにしか出来ません!頼みます!」
と涙を滲ませ自分の両手を握ってくる右大臣に逆らえるはずも無いが
「だって、それは東国からの搾取を重ねるという事でしょう?嫌われるような事に加担したくないなあ」
と最初は渋る業平に本来人たらしの右大臣が
「東国には顔の彫り深く野趣あふれるいい女揃いと聞きますが」と言うと
「行きます!行って務めを果たしてきます!」と目を輝かせて快諾した。
しめしめ、これで万事上手くいったものよ。
と業平の家を出て行く良房だが業平が任地から帰京した数年後、すっかり成長した藤原高子と男女の仲になり長良の心配通り高子二十五才まで清和帝への入内を遅らせる事になる。
業平とはそういう男なのである。
齢五十七にして国家の仏教の要職に携わる天台僧、円仁の楽しみは寺社周りの途中で山間の秘湯を見つけ、白衣姿で浸かり日頃の疲れを癒やす事であった。
夏の終わり、今宵は満月。
冷涼になってきたお山の温泉で湯治とはこれまた気持ちいい…と思ってうたた寝しそうになるのを、
「おい、一の字眉!迂闊に寝たら溺れ死ぬで!」
ときつい口調で呼ばれてはっと目を覚ました。確かに彼は一本字に近い太い眉を持つが、直接彼をそう呼んだのは小僧の頃ひとりしか居ない、
「…もしや、泰範阿闍梨?」
と傍らの白衣の老僧に円仁が話しかけると老僧泰範はにかりと笑って、
「随分出世しましたなあ、一の字」
と見習いの小僧の頃、彼を親しげにそう呼んで指導してくれたかつての兄弟子、泰範に湯の中でにじり寄り、「お久しぶりですなあ!」と手を取り合った。
最澄と空海が生きていた当時を知る弟子同士の、実に三十五年ぶりの再会である。
今や円仁は次代の天台座主。泰範は東寺の定額僧にして名講師という天台宗と真言宗を支える重鎮である。
「おいくつになられましたか?」
と円仁が訊ねると、
「ことし七十三や、兄弟子たちよりも長生きしてもうた」と泰範は湯で顔を洗ってから答えた。
「今はなあ、妹の孫の一人が出家したので阿闍梨にする為に教育するんが老後の楽しみや」
と近況を語る老僧の面差しはあの日最澄の天台座主指名を固辞し、自ら叡山を降りてしまわれた頃とあまり変わりない美しいものであった。
「…泰範はんが出ていかはったあの時以来寂しくて寂しく何度も泣いたものです。あの頃のあなたへの想いは」
と過去の恋情を告白しようとする円仁の口を
「よさんかい、お月様に丸聞こえやで」と泰範は遮った。
今更僧にあるまじき戯れでしたな…と円仁は苦笑し、
老僧二人はは宗派を越えた湯治を楽しみながら温かい光を放つ満月を見上げた。
秋も近まる高野山の天野の里では今や里長となった賀茂騒速とシリン夫妻が都から戻ってきた高岳親王を迎え、菜を煮込んだ温かい鍋料理を囲んで談笑していた。
「…なあ、騒速。私は将来この国から飛び出すかも知れんぞ」
といきなり親王が言うので騒速夫妻と長男甲斐一家は驚き、
「密教は真魚さんが持ち込んだ今の形で完成してるんじゃないんですか?今更何を学ぼうと?」
「密教は大陸の善神に助けてもらう反面、
仏が調伏させたという悪神のご機嫌取りをしなければ障る。
つまり罰が当たる。という負の側面を持つ。
これをどうにか出来ないかと密教を今のかたちにした不空三蔵さまの故郷、天竺に渡って波羅門教を学びたいのだ」
なんと、仏教の宗派間の争いが収まった今でもこの国を飛び出したい僧がまた一人。
「うん、美味い!」
とシリンの手料理に舌鼓を打つ高岳親王は十二年後、本当に渡航を果たしさらに十六年後の元慶五年(881年)羅越国(マレー半島の南端と推定されている)で薨去したと伝えられる。
親王はじめ里の者たちがすっかり寝入った深夜、空に瞬く星空を眺めながらシリンは何百年も前に先祖が離れた胡(ササン朝ペルシア)の言葉でこの国最後の拝火教徒の司祭マギの血を引く彼女なりに祈りの言葉を唱えた。
長年の苦難を越えてやって来た平安時代がこの先幾久しく続きますように…
やがて祈りを終えたシリンを待っていた夫、騒速が「そろそろ寝ようか」と声を掛けるとシリンは頷き、夫の手を取って家の中に戻って行った。
「既に妻子は舅と共に任地に向かい、我も業平さまの護衛として出立致します」
と最後の挨拶をして去って行った武官、賀茂志留辺の青い目と武官の装束という晴れ姿を思い出しながら小野篁は昔、祖母と空海から聞かされた志留辺にも言ってはいけない彼の正体と東国行きの秘密を思い出し、
「さて、アテルイの孫にしてエミシの民が崇めたアラハバキ神の化身のシルベが東国に赴き、
ヤマト以前の王ニギハヤヒの血を引く彼の息子、伊珂留が放たれたこれから、日の本はどうなるのかなあ?」
もしかしたら我らが想像も出来ぬひっくり返され方をされるやも。
と藤原が支配するこの世情の中思うと愉快でたまらぬ!
というようにひとり肩を揺らし笑い続けた。
涼風が頬を撫でる初秋の野原に立ち、在原業平とその従者、賀茂志留辺は、
「まさか、ご自身の不始末が原因で東国栄転なんて話聞いた事もございませんよ」
「栄転というよりは貴族の事業開拓だから容易い務めではない。豪族あがりのお前も名門武官と源氏の若様相手の教練だから権高い相手に苦労すると思うぞ」
と軽口を叩き合い、やがて厳粛な顔になった業平が
「シルベ、旅路の露払いを頼む」
と告げるとシルベは父から譲り受けた坂上神刀、騒速の鞘を抜き、刀身を構えるとかつて父が空海阿闍梨の高野山行きの旅路の露払いで行ったやり方、
縦に一回、横に一回、大きく刀身を振るって空気を切り裂くと、
「これからは征服ではなく共存、搾取では無く分かち合う為の旅路の無事を祈り、
東人の心の安寧の為に旅立つものとする」
となぜか祈りの言葉が口をついて出た。
刀を鞘に収めた志留辺に向かって業平が「いい言葉だな」と言うと主従は頷き合い、前に向けて歩き出した。
昔、平安の世を軽やかに生きた貴人が東人の血を引く武官を伴い、未来の拠点である東国へ向けて旅立った。
嵯峨野の月、完
六年間ありがとうございました。
ここから先が皆さんが知っている平安時代です。
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