ブランディングに思うこと

ブランド(brand)とは、元々burnだった。burnは燃える/燃やすという意味を持つ単語で、このburnがあるときbrandという言葉を生み出した。なぜburnがbrandになったか。それはあるものに焼き印を押して、他のものと区別したからである。たとえば焼き印は奴隷に押された。お前は人間だ。でも、他の者とは違う。奴隷なんだ。その識別されたものがbrandである。

今では、これがbraning(ブランディング)という行為になって幅をきかせている。とにかく周りと私は違う。私はこういう人間で、こういう人間でなくてはならない。その自己のアイデンティティに言葉を当て、周りに認めされる行為がブランディングだ。

昨今の世の中では仕方ないけど、苦しいなと思う。人間ってそんなに窮屈に生きなくちゃいけないんでしたっけ。そんな生き方しか認められないなら、社会自体を疑ってみるべきじゃないか。

しかし、そんなこと言ったって、自分を立てるというのは大事なことである。自己をなくし、世間に埋没させて生きていくぐらいなら、もう死んでもいいぐらいだ。そうじゃなくて、やっぱりどこまでも自分は自分として、自己の存在を見つけ出さなくちゃいけない。夏目漱石流に言えば、自己の鉱脈を掘り当てろということだ。

じゃあ、それとブランディングとは何が違うのか。僕は時間だと思ってる。僕にはブランディングという行為が、どこか強引に進められるものに感じるときがある。頭の中にある漠然としたものを、急いで言葉にする。こうじゃない、ああじゃない。これだ、あれだ。それは言葉の操作じゃないのかい。

一方で、鉱脈を掘り当てろというときの自己発見は、その背後に莫大な時間が想定されている。単なる言葉の操作ではなく、何かを身を持って体験していく中で、失敗も挫折も経験し、簡単にいかないけれども、少しずつたしかなものが見えてくるという経験だ。

大谷翔平が、真の意味で二刀流になったのはここ3年ぐらいだろう。彼自身は二刀流をブランディングとして生きて来たわけではないけど、これまでのプロ生活を経て、二刀流というブランドを確立させた。ブランドという言葉を使うときは、この視点が必要なんじゃないか。時間や歴史といったものが作り出していくもの。それがブランディングという行為と結びついたときに、初めて真の意味での自己の確立が可能なのではないのか。

ぼくがブランディングに違和感を覚えるのはこういうところで、無理に自己を規定するのが苦しいなら、一旦無視しておくのもアリなんだということ。本来丸いかもしれないのに、強引に四角にしようとするなら、どこか無理があるはずだ。そんなことで思い悩むぐらいなら、今自分ができることを淡々とやって、その中でたしかなものを見つけていくことに没頭したほうがいい。ブランディングが唯一解ではない。