栖屋駅から黒川駅への通路はどこ?
昨日は郷土史会の例会。
いつも発表している会長とI野さんが、家のプリンターの調子が悪いとかで資料を用意できず、いつもとは違ったメンバーで発表となった。
その中の一人は俺。初めての発表。
陸奥東山道ルート、とりわけ利府町という土地柄、栖屋駅から黒川駅への通路がどこにあったのかというのが気になっていたので、そのテーマを取り上げた。だって、めっちゃ混乱するんだもん。
郷土史会に入って2年ほど経って、この間いろんな説を聞いてきた。やれ板谷道(惣の関ダムの脇を通る道)だの、やれ4号線沿いだの、やれ長根街道(荒川静香ロード)だの、いや県道三号線だのと…
そりゃ遺跡の発掘が進んでいないから百花繚乱自説が飛び交うのはしょうがないけど、聞いてる方は頭を抱えるぜ。ということで、ここしばらくはこれをテーマに据えて、これまでどんな人がどんな説を言ってきたのか、その説の根拠となるところは何なのか、それを整理しようと思った。
で、昨日は「大和町史」(1975年発行)の高橋富雄先生の説を取り上げた。高橋先生は、古代黒川郷の三郷村(白川・新田・駅家)の場所を擬定し、白川郷(黒川郡衙のあった村)を大郷町の中村から鶉崎一帯、駅家郷を大和町の下草から吉原付近とした。駅路はそこを通ったはずなので、いわゆる板谷道説をとっていた。具体的には、惣の関ダム脇辺り(西に亀山、東に番ヶ森の鞍部)を通って大郷町に出たら、吉田川のほとりを西進し、現在の大和町中心部に向かう。
発表後、様々な意見が飛び交った。この50年間のうちに、黒川郡衙の擬定地は変わっているとか、惣の関ダム脇辺りの峠道を越えた後、白狼神社のところで西に向かう道がありそこを通ったとか、昭和30年代ぐらいには春日窯跡辺りから今の自衛隊射撃場辺りに抜ける道があったとか、様々だ。自分はもとより何が正しいとか言うつもりはなく、これまでどんな人がどんなことを言っているかをまとめたいだけで、正解を求めていない。でもこんなふうにして議論が沸騰するのは面白かった。
それとは別に最近親しくさせていただいているM下さんから、この話題に関する手持ち資料を頂いた。その冊子をちらっと覗くと、また別のことが書いてあった。次はこれにしようか。いやいや、いったんやり始めるとキリないね。泥沼だね。でも、面白いから、まっ、いっか。それ望んでたんだし。