見出し画像

強すぎる感情と向き合いながら


私の性格は難がありすぎる



I’llです。
自己観察を続けていると、言葉にできない意識の矛盾や、抑圧された目的のない欲望と向き合うようになります。
私は何か身の回りでトラブルが起こると、極力自分を出さないように頑張ります。もういい大人ですし、私の感情が強すぎてどうしても当たりが強くなりがちだからです。
人の悪いところを見て、悪口を言うのは簡単ですが、私は人の足元を見すぎるせいで悪口の威力をコントロールできません。自分に対して向けている目線をそのまま人様に向けると、どうしても厳しいことを言ってしまいます。
私があまり人と関わらないようにしているのは、下手なトラブルを回避する目的以上に、人を傷つけないために遠ざける必要があるからです。常に優しさを振り撒きながら生活するのは、かなり長い我慢を強いられますし、24時間そうしているのも疲れます。ふとした瞬間に思ったことを言ってしまったり、言葉に出さなくても本心が伝わって相手の気持ちが害されるのは本望ではありません。
私は常に一人で行動しますが、それは寂しいと思う以上に「人を巻き込みたくない」という気持ちの方が強いです。自分の思い込みの強さを全て受けきれる人間は、おそらくこの世にはいないと思います。私自身が凶器になる瞬間はどこかで必ずあり、私から他者を守るためには自分から遠ざかるしかありません。
私が根に持つ性格もあります。かつて人にした迷惑は簡単に忘れるんですが、自分がされた嫌なことは一つ一つ細かく明確に覚えていて、どこかで恩返しをしてやろうと思っていたりもします。怒りがなくなったとしても、嫌なことをされた記憶だけは残ります。
しかし、報復しようと思うほど私は暇ではありませんし、そもそもそんな記憶は思い出したくもありません。それでもふとした弾みでスイッチが入ってしまうと、自分でも本当に何するかはわかりません。
そういった自分の性格の恐ろしさを知っているから、よほど我慢が必要な関係以外は自分から関わろうと思いません。私の人格がそもそも善良なら問題はないのですが、私は決してそうではないのです。徐々に積み上がった人間に対する嫌悪感が、人を好きになり難くさせたのかもしれません。

「悪に染まるな」

求められてもいないアドバイスを勝手にしたり、事あるごとに何にでもマウントを取ろうとしたり、不快に思えば自分を棚に上げ責め立てる、そういう人間にだけはなりたくありません。したくないと思っていても、自分がしていることに自覚はないのかもしれません。自分がもしされたら、それこそネチネチと執着しかねません。
そういった自分の暴力性というか、「捕食性」というべき欲望は、そのままにしていたらかなりまずいわけです。今まで、捕食性を発揮してたくさんの人に嫌われ、肩身が狭い思いもしてきました。だからその欲望は消したいと思って頑張りましたが、欲望は小さくすることはできても、根本から断つことはできませんでした。
ただ現象面としては表に出なければ良いわけで、欲望を理性で抑え込み、何とかうまくできるようにはなってきました。それでも自分の心の根底にある暴力性は大きすぎて、それを変えるために価値観の総入れ替えをしなければいけないほどです。この膨大なエネルギーは、私の想像を超えているというか、その規模の底知れなさに不安を覚えます。
私は自分の支配欲や捕食性が、いずれ身を滅ぼすことを自覚しています。私の我の強さと下手な立ち回りのせいで、さんざん煮湯を飲んできた経験があるからです。
私はその衝動を目標にしたり、原動力として使わないことを決めました。特に、人より優位に立ちたいとか、自分だけを正しく見せようとか、ヒエラルキーの上で権威を高めたい欲望は、我の強い私にとっては劇薬になり得ます。
その衝動から自分を守り他者を守るために、捕食性を帯びた欲望を目的とせず、霞を食って暮らすような生き方を目指すようになりました。
人と関わらず、競わず、己との比較だけに向き合う生き方は、諍いからは遠ざかりますが視野を著しく狭めます。しかし、悪意を消したいのなら、自分の視界に攻撃対象を視認しないのが最も手っ取り早いのです。
ある意味、心を閉ざす生き方かもしれません。けれど、もし目の前に見えるライバルがいて、彼を引き摺り下ろしたり蹴落とされるのを期待する心を持つくらいなら、徹底的に無関心でありたいのです。私は他人の成功全てに祝福を送れるような器の持ち主ではありません。大人になりたいと思い努力していますが、なかなかなることができません。


"怒れない人"になりたい

お笑い芸人の明石家さんまさんは、何かのインタビューで怒ることがない、という話をされていました。そういう失礼をする者に「可哀想なやつやな」と思うと話をされていたように記憶しています。
先日、私の家の前で立ちションをしている知的障害者がいたので、私はとっさに蹴り飛ばしてやりたくなりました。しかし、それをしたら私は人として終わると思ったので、頑張って忘れることにしました。
私がいくらものを言って諭したところで、障害者のケアをされている方のようにうまくはできないでしょう。怒れば良いというものでもなく、それなら私には何ができたのだろうかと考えてしまいます。
もし、若い頃に私を鬱病に追い込んだ元上司と鉢合わせることがあるとしたら、彼を締め殺さない保証は正直ありません。怒りは、理性や現実的認識を飛びこえて発露するため、この危険な感情とは距離を取る必要があります。
社会人ならアンガーマネジメントは必須科目です。人間が感情を抑制できる最大の手段は、リスクの認識です。そして感情の昂りを医学的な方法で回避したり、具体的な身の振り方を理論化したり、みんな感情を表に出さないように頑張っています。こんな私でも、以前よりはだいぶ感情をコントロールできるようになりました。深い認識の部分で、過度に人に期待をしないとか、人間はそれぞれ不完全な存在だと認め、いちいち他人の無礼に目くじらを立てないよう心がけています。
それは諦めに近いのかもしれません。しかし優しさは共感と理性で成り立つように、諦めには肯定の要素もあります。
最初からうまくいけば儲け物くらいの気持ちでいれば、他人の失敗にピリピリしないで済みます。人を嫌うより、好きでいられた方がやっぱり人生は生きやすいのです。
自分も含め、人間は思ったよりしがない生き物であること、そして自分もそんなしがない生物の1匹であり、だからこそ驕らずにいることなのだろうと思います。
人間嫌いを治すとか、人を信じられるようになるとか、今の私には難しいのかもしれません。それでも最低限、人を許せる人間になりたいと思っています。

私の強すぎる感情は、生来の白黒思考やHSP的気質と絡み合っています。ただ、その歪みが私を作家にさせているのかもしれません。
私のような尖るしか能のない人間は、牙が抜けたら終わりのような気がします。世の中には、コソコソ陰口を言って満足できる人がほとんどですが、私は明らかにダイナマイトを体に巻きつけて体当たりするタイプの人間です。そういう狂気があるからこそ、私は私自身を信用できません。けれどある意味、そういう人間が世の中にいるのは良し悪しは別として、何らかの役割を持つことがあるのかもしれません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?