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哲学と私


「I’ll NOTE」のこれから



I’llです。結論が出ました。
このnoteはこれまで、自分自身の状況や考え方に主軸を置いて続けてきました。主に世界や社会の中に置かれた、自分の生き方をアップデートするために半年以上更新してきました。
ところが最近、本当に全く悩みがなくなったというか、自分の生き方に対する疑問が霧散し、深く考え込む必要がなくなってしまいました。だから自分のためにモノを考えるという習慣がなくなり、それに伴いnoteに文章を書くのが難しくなりました。
それなら自分以外の人のために文章を書くべきではないか、とも考えましたが、必ずしも利他の精神が尊いわけではありません。生半可な気持ちで無償奉仕をするならば、変に見返りを求める歪な構図を作り出してしまうからです。中途半端に利他に走れば、下手に不満を募らせることになります。
ですから、利他に走るなら完全に他者本位であるべきだし、自分のためにやるならとことん我儘にやるべきだと私は思います。
全てにおいて中庸が優れているわけでもなく、どちらかに振り切らなければ意味のないこともたくさんあるはずです。だからこそ、他人のためにやるか自分のためにやるか、じっくり考える時間を作りました。
結論としては、「自分のためにやる」スタンスを貫くつもりです。しかし今までの人生に対する追求ではなく、思想や理論の専門性を高めるためにやりたいと思っています。
このnoteでは、包括的な文章にするためにかなり具体的事象を端折ってましたし、かなり抽象的で説得力に欠けるものでした。そこに目を瞑ってやってきたのは事実で、だからその部分を補って専門性を追究していこうと思います。
これから「地盤を固める」作業に集中した方がいいのかもしれない、と感じる機会も増えました。暗中模索が続いていましたが、光明が差しているならば、さらに明るい場所に向かえばいいだけなのだと思います。

哲学への反省から

私は常々、己の思想が思い込みであることを否定したり、批判や検証に耐えうるものにする必要性を感じていました。
ただ単にそう思っているだけでは人を説得することができないからです。自分の論理構造をはっきりさせることは、ロジックを可視化し検証が必要な部分を浮き彫りにさせるのに有効です。
私は自分の思考を当てにしてませんし、かなり不信感があります。自分にとっては整合性が取れているのに、周りから見たらバカにしか見えていないことばかりだったです。
若い頃、私は常に哲学書を持ち歩いているくらい哲学にハマっていました。しかし、10代の人生経験が浅い少年に哲学の世界は背伸びでした。哲学書を読めば読むほど頭でっかちになり、現実的な事象と理念の世界を同一のレベルで考えることができませんでした。
最初は中二病的な興味からでしたが、あまりに多感で悩みの多い時期、哲学に答えを求めました。学校での生活がうまくいかず、次第に引きこもるようになり、ますます本の虫になっていきました。
デカルトあたりから始まって、ハイデガー、ニーチェ、フーコーと読み進め、自分は10代なのにもうすでに世界の真髄に近づいている、と勝手に思い込んでいました。
19歳の頃、ウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」を読んで、その帰結が「神は存在する」というもので何となくガッカリしたのを覚えています。論理学は真実の証明ではなく、無謬性を強めるために使われるのかと、疑いを抱いたからです。
20歳を過ぎたあたりから、現代哲学の主体論争に何となく言葉遊びのようなものを感じ、バカバカしく感じるようになりました。その頃は私の素行もかなり荒れていて、自分でも支離滅裂な言動をどうすることもできなくなっていました。
目の前にある具体的な物事や感情の全てを抽象化し、経験則を深く考察する能力が当時の私には圧倒的に足りていませんでした。現実はいつも固有名詞の世界なのに、私はイデアの世界にいたせいで、そのズレを埋められなかったのです。
その失敗が私の思春期を暗いものにしてしまいました。だから大人になればなるほど表層的なことばかり考え、その方が気楽だと割り切るようになりました。
しかし、自分は本当は何がしたいのか、世の中や人間がどういうものかを知るためには、経験則だけでなく抽象的な認識や合理的計算を行わなくてはなりません。自分がより成長し高度な技術を身につけるには、物事を抽象的に捉えロジックを組み上げる能力を無視することができないのです。
だからこそ今になり、あらゆる経験と事象と概念を一つにして、再び世界や現実を見つめ直すことの意味がわかります。色々やってきたからこそ、それが可能でありそれが必要なことだと認識できるのです。

今、世界には「哲学」が必要である


現在、世界で混迷や紛争の原因になっているものは、権威主義体制からの「無謬思想」にあります。そこでは政治的正当性が全てを支配し、科学的反証性や経済的合理性を上書きしていまいます。事実や矛盾を認めず、権力や武力が唯一の真理となってしまうせいで物事が根本から歪められ、全く合理的ではない行動を選択し、あらゆる分野に悪影響を及ぼします。
おそらく「間違っていた」とはっきり言える人は、ごく一部だと思います。多くの人は、死ぬまで自分に誤りはなく正しい選択をしてきたと思いたがります。しかしあらゆる正義がある中で、互いに利益があり不利益が最小限になる道は限られています。だからこそ、力で相手を潰す方が手っ取り早く、譲歩したり負けを認めることはできるだけ避けるべきだと考えてしまいます。
日本も例外ではありません。あらゆる分野が飽和し、既得権者や権威が席の大半を占めています。特に政治やマスメディアは、クラスタの保身のために根拠のないデマや反証性の低いロジックを巧みに使い、支配を強めようとします。既成概念の枠の中で言葉を弄くり、権力者が喜ぶ結論に寄せるスキーマが言論や思想を骨抜きにし、日本人に停滞感をもたらしているのではないか、と私は思えてなりません。
特に日本人は、高い知性に反比例して抽象的な思考力に乏しいと私は感じます。歴史学や数学は学校で教わりますが、モノを見る目やバランス良くものを考える能力は、はっきり教えられるものでないのもあるのかもしれません。本当に頭が良くて有能なのに、価値観や根本認識に問題があるせいで、変に損している人もかなり多いと思います。
その中で、私はより思想を確立することによって人々に果たせる役割も大きくなると考えています。今のうちに言っておきますが、別に人々のために啓蒙したいと言っているのではありません。
既存の倫理が入れ替わろうとしている現在の国際情勢において、これから哲学が果たす役割は大きくなると私は予想しています。いかなる正義も疑わしく、無謬性のある言説が矛盾の根源となるのを目の当たりにした人々が、一体何が真実で、より正確であるかを求めるのは避けられないように思います。その希求が高まれば高まるほど、より合理的な現実の科学が必要になってきます。イデア論や現象学、構造主義そのものは役に立たないかもしれませんが、物事が何でありどうあるべきかを考える必要性は疑う余地がありません。
私は哲学は学ぶものでも読むものでもなく、考えるためにあるものだと思います。誰が何と言ったかではなく、自分がどう考えどう感じるかにあります。そこに権威が挟まない以上、私たちの自由意志は存在しうるはずです。
私が何かをやって発信することで、何かが生まれるかもしれませんし、私が仕掛けたことでうまくいくこともあるかもしれません。もしそれが黒く染まるのならば、私は潔く黙るつもりです。

長くなりましたが、結論として私はここで思索を綴っていこうと思います。私の本業や制作とは全く関係のないことも増えますが、自分の成長に関わるということは変わりません。
どうでもいいと思われても構いませんし、私は私のためにやります。その頑固さを貫くのも、私の思想だと思います。



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