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とにかく石を投げる

FM802のDJ深町さんにお呼びいただき、Tempalayの藤本夏樹さんと3人で座談会的な収録をした。内容は「国際女性デー」に合わせて、自分達が持ってるジェンダー意識や、社会に対する目線、その中で自分らしく生きるということは如何にしてなし得るかという話。決して小難しい内容じゃなく、カジュアルに3人で思うことを話した。その時、気づいたことと、そこから考えたこと。

話は迂回しながら、男同士で喋ってる時の猥談のようなもの、例えば「〜(女性)を抱けるかどうか」みたいな話題が始まった時に、如何にして「NO」を示すのか、という話になった。自分自身、そういう話題が好きじゃない。それは勿論「抱ける」主体に自分をおいて話し始める仕草への嫌悪もあるけど、特段、自分が話すことがないと感じるのだ。品定め的な目線は気持ちが悪く、会話の中にいるのも居心地が悪く、そっと逃げ出したくなる。ただ、無視しているのもどうにも癪で、何か言ってやりたい。

自分がそういう時にとっている「サブリミナル的嫌悪」という方法について、ラジオで話した。名前は今つけた。それは会話の端々に「NO」を埋め込んでいくこと。「何でそんな話になんねん」とか「何をお前が選ぶ側におるねん」と言った「NO」を会話の間に忍ばせていく。皆が何かを言って笑ってる時に、「ちゃうけどな」だとか、「おもろないけどな」と言ったセリフを織り交ぜていく。大きな声じゃなくていい。ただ誰かには必ず届く言葉を発してみる。すると、会話そのものが円滑に進んだ後、薄明かりのような違和がぼんやりと残る。

真っ向から「NO」を言って、伝わる相手じゃないと思う時、またそうした労力を使うのを勿体無いと思う時、ただそのまま受け入れることも違うという言動に触れた時、「サブリミナル的嫌悪」はとても有効かもしれない。後で、あの時おかしかったよなと見直す仲間を見つけることもできるし、そうした言動をした人も帰ってシャワーを浴びる時、「あの時あいつが言ってたのは何だったんだ?」と、自分の言動について考えるかもしれない。


曲を作る時、また誰かと初めて会って話す時に、自分はよく、池に小石を投げ込むようだなと思う。得体の知れない、どこまで深く、広く、何が沈んでいるかも分からない池のような他者に向けて、自分は色んな小石を投げ込む。たまにそれは相手の元へ届くし、たまにそれはいつまでもプカプカ漂っている。いつまでも湖畔でオロオロしている時もある。

会話はいつまで経っても「しれない」続きで、言葉が寸分違わず正確に、相手に届くことなんて殆どない。自分はでかい池の前にいて、幾つか投げたはずの石が渦の最中、飲み込まれていくのを目撃するかもしれない。そして、何か途轍もない徒労を感じ、手一杯の小石を握りしめながら家に帰ったことが何度もある。他者は残酷なくらい変わらない。でもある意味、変わらないと信じていることも、他者に対する希望の一部だ。

自分の価値観では許容できない言動に出会った時に、ひとまず小石を投げてみる。でかい「NO」じゃなくていい。真っ向からの否定じゃなくていい。ただ、易々と頷かず、自分の違和をぶつけてみる。もしかしたら、今投げた小石が一年後に相手の頭にコツンと落ちてくるかもしれない。周りの誰かが聞いていて、後で話しかけてくるかもしれない。そうして出会った仲間が何人もいる。

考えてみれば、この座談会もそもそも、深町さんと話す機会があった時に、自分が抱えている社会への違和感を伝えたことがきっかけだった。それも1時間ほど話した後、迂回し続けた会話の途中にポロッと溢れたようなものだった気がする。それを深町さんがキャッチしてくれて、今回の話が生まれた。藤本夏樹さんは、初めて話すのに共有している問題が多くあり、とても話しやすく、ずっと前から知り合いだったような気がした。素敵な出会いだった。

あの時、小石を投げてみて本当に良かったなと思っている。

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