川に入ること

随分と文章を書くことが久しぶりになってしまったような気がする。強烈に書かなければいけないと思うようなことが少なかったからかな。もちろん、日々の生活の中で色んな事が巻き起こってはいるのだけれど、今書かなければいけないことなんてないような気がしてしまったり。ぼくが誰かに対して言えるようなことがないような気がしてしまったり。まあ、リハビリがてらにはなるけれど、大事なことがあったのでお暇があれば読んでいってくださいな。

川に入った。なんて言うと、すごく単純で、当然なことのように思えるけれど、ぼくにとっては今後の人生を全て左右するような出来事だった気がする。それ以上でもそれ以下でもないことだけれど、川に入ったのだ。

今年の春で26歳になった。もういい加減大人になってしまった、なんて自分でも思う。「その辺で川に入って遊ぶ」というなんでもない行動を一つ起こすために、色んな事が頭を過ってしまうようになった。雑菌が…とか、寄生虫が…、とか、このあと何かを食べた時にお腹を壊すんじゃないかとか、近くにいる釣り人に「邪魔するな」なんて気持ちで白い目で見られてしまうんじゃないか、とか。その全部が考えすぎと言い切る事が出来れば良かったのだけれど、残念ながらぼくはそこまで強い人間ではないし。

そんな状況と相反して、常日頃から子供でありたいと思っている。楽しいものを見つけたら飛び込んでいく気持ちを持っていたいと思っているし、きっと全て上手くいく、みたいな楽観性も持ち合わせていたい。子供でいた方が生きていく中で色んなことを楽しんでいられるし、新鮮に感じていられる。実際に、自分もそんな人が友達にいて欲しいと思う。純粋な心を持っていて、人にやさしく、そして全てを楽しめる。そんな人と一緒にいたいと思うからこそ、自分がそうありたいと思っている。

この、「大人になってしまった」という気持ちと、「子供でありたい」という気持ちが同居して、中途半端な大人になってしまっていた自分は、川を見た時に思わず立ち止まってしまった。綺麗だな、という感情と同時に、「ぼくはこんなに純粋な姿でいられているのだろうか」と考え込んでしまった。

川はどこまで行っても純粋だった。真っ直ぐに自然のまま、揺らめいていた。どんなものにも揺るがず、それでいて全てを受け入れていた。温度は冷たいけれど、とても暖かく流れていた。ぼくは、純粋でいたいと願っているけれど、本当に純粋でいられているのだろうか。子供の頃の自分に誇れるような人間になっているのだろうか。そんなことを考えたぼくは、「こんなんじゃダメだ」なんてことを言って、靴下を脱いで川に入っていった。

別にそれで何が変わる訳じゃなかった。アニメみたいに、何かが起こる訳じゃない。世界は全く変わらずそのまま動き続ける。川の水は気持ちがいいけれど、それ以上に何も起こりはしない。石にこびりついた砂が舞って、靴の中に入ってくる。「うわ〜!嫌だ!」なんて言いながら、頭の中では「良かったなあ」なんてことを考えていた。

ぼくはきっと、大人になりたくなかったんだ。ちゃんとしたくなかった。欠点だらけでいたかった。合理的じゃない行動をして、馬鹿なミスをして怒られる、そんな子供でいたかった。できないことを分かるやつでいたかった。ぼくもきみもダメなやつだなって、笑いあっていたかった。素晴らしい人間になんて、ならないで良かった。それよりも、きみの味方でいたかった。あいつの友達でいたかった。大義のために、戦争で死んだ人。立派な大人だ。他人を裏切ってお金を稼ぐこと。立派な大人だよ。でも、そんなのくそくらえだ。ぼくにとっては、どれだけ非効率的でも、意味がなくても、何もできなくても、大事な人の味方でいて友達でいることの方が大事だった。

あそこで自分の為に川に入らないで帰ったら?と思うと、ゾッとするよ。それこそが自分を大事にする、ということなのかもしれないとも思うけれど。でも、ぼくはあの時川に入って、「楽しい!ありがとう」なんて言える人間で良かった、なんて言うと泣いてしまいそうになるんだ。それは、ぼくのこと。どう生きていくか、なんてとっても難しい問いに対する、現時点でのとっても簡単な答え。自分のことも、周りの人のことも大切にしたい。本気で向き合っていたい。それで傷つく事があったとしても。

帰り道で、ちょっとだけ自分の中で覚悟をした。それは言葉にすると陳腐で、小学生の標語みたいな当たり前のこと。誰もが当たり前だと思っていること。でも、きっと色んな大人が諦めてしまっていること。

「どんな時にも、楽しんでまっとうに向かい合っていたい。」

もちろん怖い。どれだけ頑張ったって、誰かと向き合うことが怖くない訳がない。思想も生き方も違う、別の人だから。それでもぼくはみんなと向き合いたいなんて、理想的な話を未だに掲げている。どれだけ傷ついても全てが上手くいかないことを掲げるのは、自傷行為なのかもしれないね。それでもね、自分を傷つけることになったとしても、たとえ思想が真逆であったとしても、味方でいたいと願っている。

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