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『ミッドナイトスワン』感想

色々と物議を醸している『ミッドナイトスワン』。たぶん出産前だったら娯楽としてマジョリティに消費されるマイノリティの悲劇像に違和感を覚えただろう。しかし、母になった今、感じたのは母性という呪いだった。

トランスジェンダーが性自認と肉体的な性とギャップがあるが故に、シスジェンダーよりも強く「それらしさ」を求めるように、女性は妊娠した途端に周囲や自らが課す「母なる」に戸惑う。受精卵が子宮に着床した途端、自然とそうなるなら簡単だが、実際はそんなに単純じゃない。当然だ。「母なる」とは生物としての本能ではなく、社会的に作られたフィクションとしての物語を多分に含んでいるのだから。

「母」は酒を飲まない。「母」はタバコを吸わない。「母」は泣きじゃくる子供に苛立ったりしない。「母」は溢れんばかりに母乳が出る。「母」は仕事より育児にやりがいを感じる」「母」は、「母」は、「母」は...。無数の物語が、胎児を孕んだ途端に当然そうなるものとして私に語られてくる。「理想はそうであればいい」というゴールイメージとしてじゃない。「当然そうでしょう?」という論調で。自分自身さえ、そんな周囲の期待に辟易していうようでいて、「母とは」というイメージを内在させている。

冒頭でサオリ(水川あさみ)がつぶやいた「ちゃんとしたいけどどうにもならん...」というセリフ、大なり小なり子を持つ女性は同じことを思ったことがあると思う。母になるということは、子を孕んで産み育てるということだけではなく、「ちゃんと」しなければならないという呪いがある。さらに「ちゃんと」というのは条件があるわけではない。まさにパノプティコン的な構造がそこにはある。私たちは、何かに、そして自分自身に、追い立てられて母になっていく。

ナギサ(草彅剛)がイチカ(服部樹咲)の「母」になりたいと思った時、それまで躊躇っていた肉体的な性を変更することを選んだこともまた、「母なる」の呪いのひとつだ。「ちゃんと」した“母”は女性であるという物語。子供のためならば自己を犠牲にすることを厭わないという母性神話。彼女の男根はその神話への供物として捧げられた。母性神話の不可欠な要素である“自己犠牲”のグロテスクな象徴が、『ミッドナイトスワン』における“供物として”の男根であったように思う。

私たちは母となったときに、「男根」を切り落とされる。キャリアを犠牲にする場合もある。自由に飲み歩くことを制限される。社会的に去勢された姿こそ、「母なるもの」であるというかのように。

男根を切り落として「母」になった代わりに、ナギサは視力を失った。見えない目で、すでに金魚がいない水槽に大量の餌を入れるシーンもまた、母性神話の残酷な側面である。子供はすでに自分の世界を持ち、母子の蜜月が営まれた密室から出て行ってしまっているのに、せっせと食事を用意する様子は、家庭における孤独な母親のイメージを彷彿させる。食卓にすでに愛する我が子がいないことに、気がついていないわけではない。けれど、去勢され、「母なる」という楔で家庭に繋がれた者は、自らの目を覆わなければやってられないだろう。

「母になる」というのは、「母なる」というステレオタイプとのせめぎ合いだ。一方に振れれば自己犠牲に、もう一方に振れれば「女として」の名の下に子が犠牲になる(『Mother』がほぼ同時期に上映されていたことは偶然だろうが、とても興味深い)。
私はどんな母になるだろうか?どんな母になりたいだろうか?出産という不可逆なイベントの後に、どんな理想を実現したいだろうか?

サオリとナギサは子供であるイチカに対して相反する態度であったが、奇しくも「あなたの為に」という同じセリフ(そしてこのセリフが「母なる」の呪いを再生産する呪文である)を口にした。出来うるのであれば、私は子に「自ら望んで」を語りたい。私は子のために生まれてきたのではなく、子も私のために生まれてきたのではない。縁あって得た人生を消化しきるために、この世に生まれてきたのだから。