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アイス・バケツ・チャレンジについてどう思うか?

今回は、「ALSアイス・バケツ・チャレンジ」(以下「IBC」)についての考えを書いてみたい。


IBCについて、ぼくは、よくあるボランティア活動の一つだと認識しているので、特にどうとも思わない。

ぼくは、おそらく「ボランティア活動」というものについて、世のほとんどの人よりも多く考えた経験を持っている。なぜなら、ぼくの父親は日本でも有数の国際ボランティア団体、日本国際ボランティアセンター(JVC)の会長を長らく務めていたからだ。よく海外に行ってボランティア活動をしていた。行ったのはアジア、アフリカなどの第三世界だった。

ぼくは、そういう父親の姿を見ていた。そしていろいろ考えた。
いろいろ考えたのは、父親の活動がいわゆる多くのボランティア活動家が活動の前提としている「善意」から発したものだとは思えなかったからだ。
父親は、善意をことさらにアピールするタイプではない。善意がないわけではないだろうが、江戸っ子なので、むしろ悪意の方を前面に押し出すタイプだ。始終人の悪口を言っている。

それでぼくは、最初、父親のしていることが偽善に見えた。高校生の頃だ。そのため何度も「ボランティア活動は偽善ではないのか?」と尋ねた。
すると、父親は「これは偽善ではない」と答えた。そして「ただし善でもない。善とか偽善とか、そんなことは関係ない。おれは好きでやっているんだ。JVCの他のみんなもそうだ」と言った。
そう言われると、こちらとしても咎め立てする筋合いはないので、それ以上何も言わなかった。

父親は、よく他のボランティア団体の悪口を言っていた。その文脈の一つに、「善意の押しつけ」というのがあった。
父親は、アジアやアフリカの人たちを「恵まれない」と考えるのが好きではなかった。それよりも、そこにトラブルがあるから解決したい――そう考えていた。
「解決したい」というより、「解決すべきだ」という強い信念を持っていた。それで、そういう信念がなく、いわゆる「善意」で活動している人が嫌いだった。

父は極端なので、そもそも人間の善意というものを信用していなかった。「みんな、それぞれ自分に利するところがあるからやっているのだろう」と考えていた。そしてもちろん、自分も利するところがあるからボランティア活動をしているのだと強く思っていた。

ぼくは、父親の考えにはあまり与しない。そのため、この父の考えもどこか違うと思っていた。
ぼくは、他者から利己的だと思われるケースが多かったが、自分ではそう思っていなかった。そのため、「人間とは純粋に利己的な生き物」という考えに疑問を思っていた。疑いようのない善意もまた、世の中にあると思っていた。

それで、「疑いようのない善意はこの世に存在するのか?」ということを考え始めた。本当のボランティア精神というか、完全なる自己犠牲と言い換えても良い。好きだからやるのではなく、あるいは偽善でもなく、純粋なる善意というものがこの世に存在するのか――そんな命題について考察した。

すると、それはあった。疑いようのない善というのは、いにしえよりさまざまな人たちが考えてきた命題なので、それについての答えは、だいたい出尽くしているといっても良かった。

では、「疑いようのない善」というのは一体どのようなものなのか?
それは、自らの信仰を裏切って、人を助ける行為である。そこに、疑いようのない善が生じる。

人には、信仰というものがある。それは、言い換えれば「信念」といってもいい。とにかく何かを信じて生きている。逆にいえば、何かを信じなければ生きていけない。
例えば、ぼくの父親は自分の「好き」という気持ちを信じている。自分の興味を信じている。だから、自分の好きなことをしようとする。父親は、自分が興味ないことはしないようにしている。それは彼の信念だ。

他の人もそうだろう。他の人も、自らの信念に反することは、なかなかできないはずである。

――と、ここで話をIBCに戻す。IBCを行った人は、一体どういう信念を持っているのか?
IBCを行ったほとんどの人は、「人を助ける」ことを信念としているだろう。あるいは、ノリや勢いで行った人も多いはずだ。
ただし、IBCを行った人の中には「IBCのような行為が大嫌い」という人はほとんどいないはずだ。「IBCのような行為はするべきではない」と思っている人は、おそらく皆無なのではないか。

しかし、もしかしたらいるかも知れない。IBCを良くないも、悪しきもの、軽蔑するものと思いながら、しかしそれでも「これで誰かが助かるのなら」とIBCをした人は、果たしてこの世に存在するのか?
――いたとしたら、それこそが疑いようのない善だ。善とは、そういう自分の信念に背いてまで行う人助けのことをいう。

この話は難しい。とても難しい。
そもそも、IBCのようなありふれた行為を完全な善だと信じて疑わない人には、この話は理解できない。あるいは、疑いようのない善の存在をイメージできない人(信じられない人)にも、この話は通じない。

疑いようのない善は、小説「レ・ミゼラブル」や「ハックルベリー・フィンの冒険」の中に描かれている。他の小説にも、きっと数多くあるだろう。
それというのも、すぐれた作家は、疑いようのない善を目の当たりにすると、それを美しいと思い、描かずにはいられないからだ。
もし、疑いようのない善に興味のある方は、これらを参照されるのが良いと思う。

ぼくは、「疑いようのない善」を知っている。そして、その価値や美しさを知っている。
だから、IBCのようなありふれた行為は、どうしてもそれと比較してしまう。そのため、あまり興味を持てないのというのが、本当のところなのだ。

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