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なぜぼくは教えるのか?

「もしドラ」が出てから5年。

その間、いろいろな仕事をしてきたが、ぼく自身、自分が最高のパフォーマンスを発揮できているなと感じたのが、人に何かを教えている瞬間――すなわち「教師」をしているときだった。

教師として、ぼくがどういう授業を行っているかは、先日、九州大学で特別講義をしたときの動画をYouTubeに上げているので、参照されたい。


教えるとき、ぼくに特徴的なのは、ほとんどアドリブで喋っていることだ。教えることは、ぼくにとってはインプルヴィゼーション(即興)なのである。

だから、自分でも何を喋ったか覚えていない。瞑想状態となって、無意識の領域にある言葉を吐き出しているからだ。

おかげで、後からVTRを見ると「こんなことを言っていたのか」と驚かされる。ときには「いいこと言うな」と感心させられることもある。自分が喋ったこととは思えないから、他人事のように感じるのだ。


そういう精神状態は、なぜか教えるときにだけ発揮される。

「なぜか?」と書いたが、理由は分かっている。それは、そこに「生徒」がいるからだ。生徒は、ぼくが無意識の領域に踏み込むためのトリガーだ。彼らがいなければ、ぼくは無意識の領域に踏み込めない。

ではなぜ生徒がいると無意識の領域に踏み込めるのか?

それは、生徒を前にすると「彼らの内に隠されている言葉を引き出さなければならない」と思うからだ。

生徒は、彼らの心の内に彼らが聞くべき「何か」を持っている。ただ、それにはまだ「言葉」が与えられていない。喩えていうなら、お腹の中に胎児がいるが、まだ名前がつけられていない状態だ。

それに対し、ぼくは産婦人科医兼名付け親だ。彼らの子供を取りあげ、名前を与えるのである。

そういうイメージで、ぼくは生徒に話している。そのため、彼らの心の声に耳を澄ます。話す際、目を閉じているのはそのためだ。目を閉じると、彼らの心の声によりアクセスしやすくなるのである。


そうやって生徒の心の声に耳を澄ますとき、ぼく自身の自我が消える。そうして瞑想状態になる。だから、無意識にアクセスできるのだ。

これが、講演で一般聴衆を前にして話すと、ここまで瞑想状態になれない。なぜなら、少なからず遠慮が生じてしまうからだ。

それは、「彼らはぼくの話を聞きたくないのでは?」という遠慮だ。言い換えるなら、「彼らは自らの内に聞くべき言葉を持っていないのでは?」という「疑い」である。そういう疑いを抱いてしまうと、もう瞑想状態には入れなくなる。

それが、生徒相手には信頼を抱ける。「彼らは言葉を待っているからここに来た」ということに確信を抱ける。

だから、集中して彼らの声に耳を澄ませられる。そうして瞑想状態に入ることができ、無意識にアクセスできるのだ。

ぼくのここ5年の営みは、ほとんどこの無意識の領域にアクセスする力を磨くことに充てられた。だから、教えることのパフォーマンスが次第に高まってきたというのは、自分でも感じるところだ。

そのパフォーマンスをもっと多くの人に届けたいという思いから、2014年7月、ぼくは「岩崎夏海クリエイター塾」を始めた。ここには、自らの内に隠された言葉を聞きたいと考えている20名の生徒たちが集った。だから、ぼくは遠慮なくその言葉を取りあげ、話すことができている。


そういう場を、これからも継続していきたい。その思いから、来年――2015年1月に、岩崎夏海クリエイター塾の第2期生を募集することとした。

自分の内に隠されている何かを聞きたいという方は、ぜひ参加していただけたらと思う。

また、それを実際に体験してみたいという方のために、11月8日(土曜日)午後に、渋谷でサロンを開催する。そこでは、集まった方々に、ぼくが無意識の領域にアクセスして話す言葉を聞いてもらおうと考えている。

詳細は、以下の動画、あるいはリンク先にあります。

よろしくお願いします。


岩崎夏海のエンタメサロン 2014年秋 - 源氏山楼

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