見出し画像

2020年 高知よさこい祭り      史上初の中止…「おびや一郎の昔話」

2020年4月高知よさこい祭りが史上初めて「開催中止」になりました。
中止理由は「新型コロナウイルス感染症(COVID-19)が世界規模で広がり、今年3月以降国内のイベントや経済活動等の自粛&制限が行われ・・・更に外出自粛(ホームステイ)も推進される事態」に配慮しての中止が4/27決定したのです。

2020年4月27日 高知新聞掲載
「今夏の第67回よさこい祭り(8月9~12日)について、主催団体の「よさこい祭振興会」(会長=青木章泰・高知商工会議所会頭)は27日、中止すると発表した。新型コロナウイルスの感染拡大に伴い、振興会の役員58人向けに書面で諮っていた中止案に、全員が賛成した。土佐路の夏を彩ってきた祭りが中止となるのは1954年に始まって以来、初めて。8月13日に予定されていた高知市納涼花火大会なども中止となる。」
 
その為・・・自宅で過ごす「よさこい踊り」関係の皆さんに「暇つぶしに・・・」と思いつき、2006年3月から始めたブログ記事から「よさこいの投稿記事」をピックアップ編集して再投稿しました。(2020年4月23日~)

「2006年ライブドアブログに投稿した内容を一部修正して記載」

2006年3月19日投稿から始めたブログです。

「まずは手始めに祭りと自分の関係を書きますネ。」

私は土佐の高知の「帯屋町商店街」に生まれ…今日まで育った時間の中「よさこい祭り」と関わり、多くの事を学び経験をしました。
今では、私自身の大きな財産となっています。
現在は全国各地に出向き、祭りづくりや企画・運営、そして司会や煽りをさせて頂いています。
今回、ブログに書き出すにあたり、今まで…祭りから知り得た全国の人間ネットワーク(人脈・金脈)等を必要としている人がいるなら!と考え挑戦しました。
但し、完ぺきな事は絶対に出来ませんので宜しく!
まずは、今日はココまで。次回は今までの祭りを案内します。

同日再投稿

「祭りだ!ワッショイ!」

さっき始めたばかりで上手くいっているか????心配で…困ったものです!
まあーこれも祭りの始まりと同じで…続けていると上手くいくだろうね?
さて祭りを始めるきっかけは、現状改善・現実回避など…いろいろな動機が多いね!
商店街とか市町村の活性化によく祭りが企画されますね。
どうすれば街に人を集められるか?
市町村の現祭りを盛り上げる方法など!
数多い私の経験から、祭りを興す源動力は地元に住む人達の愛!…「地域愛!」が無ければ絶対にイベントは出来ても祭りは育たない!
祭りには地元民の力が必要なのだ。(なかなか言いますね)また・・・

「ブログ2日目で~ぇす。」

本日は私が何故まつりに興味を持ったのか?
そもそも、よさこい鳴子踊りは商店街の活性化と戦後復興のために、1954年高知商工会議所青年団の企画で始めたイベントでした。この祭りの元になったのは徳島の阿波踊りで…8月の真夏(お盆)に沢山の人が街中に集まり、誰もが「阿波よし」を踊る…まさに街がテーマパークに変化するのです。
この阿波踊りを参考にし、ただ祭りを物マネするのでなく、高知らしさを加えることを考え、登場したのが「鳴子」でした。その当時、土佐の高知は年に二度米が取れる…「米どころ」その田んぼで使っていた「雀追い」の道具(鳴子)を利用することを決め、後は鳴子を「どの色で…」と、話し合いが行われ、「全体の基本色は朱赤で、鳴る木3本の両サイドを黒に、そしてセンターを黄色に…」と、その当時「あき家具屋」の大将が提案した話を思い出しました。私には琉球の色使いを感じます。そして次は曲作りに入っていきます。
この続きはまたの機会に・・・・!

「よさこい鳴子踊りと私 その二・・・」

それではよさこい鳴子踊りの曲がどのようにして誕生したのかを話します。踊りには当然曲が必要で誰に曲を書いていただくか?ちょうどその時に運命的な人物が高知にいたのです。その方は武政英策先生で元々NHKの京都交響楽団初代指揮者…1945年大阪の自宅を空襲で焼失、高知に疎開後、高知の童謡や土地の歌など集めたり作曲なども沢山作られたりと…最適な人物が「よさこいの踊る曲」を書くことになったのです。ここで武政英策先生の代表的な作品が、ペーギー葉山さんが歌った『南国土佐を後にして』です。
この時代のエピソードに興味ある方は調べてください。
よさこいの曲は土佐の昔から歌われている「よさこい節」をベースにアレンジをし、歌詞に「じんばもばんばも」「よちょれよちょれ」と…あまり関心できっる言葉ではないのですが、先生は言葉の意味するモノより、この「言葉の音感」が素晴らしい…と採用したことで、高知の人達も「昔から歌われていた歌だ」と、錯覚するぐらいに高知市民に溶け込んでいったのです。これがよさこい鳴子踊りの曲が誕生したのです。
この後はいよいよ踊りの振り付けとなりますが・・・・・また次に

「さあ!今日も書くぞ」

楽曲は武政英策先生によって完成し、いよいよ踊りの振り付けを誰に頼むのか?
当時の詳細な話を全て聞き覚えてはいませんが、よさこい祭りを立ち上げた中心人物の一人「料亭濱長」の大将(浜口八郎氏)から昔話しを聞いたことを思い出すと、「その当時、日舞の流派がいくつかある中で、何処かの流派に振り付けを頼むと、後で遺恨因縁が出来るし、その流派一門は踊っても、他の門下は参加しないのではないか?…」そこで、当時勢いのある五流派が合同で振付を作ってもらうことになり、五流派が参加して「阿波踊り」とお座敷で踊られていた「よさこい節」などをアレンジし、誰でもが踊れる「よさこい鳴子踊り」が完成させたのです。
ただ、この「よさこい鳴子踊り」の振り付けに一人だけ納得してない人物がいたのです。
その人とは…武政英策先生でした!続きは次回に・・・

「よさこい鳴子踊り ミニ知識」
よさこい鳴子踊りの始まりは、昭和29年からで祭り参加チームは地元の商店街や企業そして役所などが参加して第1回が始まっています。踊る参加者は、地元の人がほとんどで企業・役所からは職場の人たちが参加したようです。
「まあ~ぁ、土佐の高知の祭りです、踊るが目的ではなく朝から酒が飲める、二日間休める、男と女が出会えるなど、さすが土佐!」酒力の勢いをつかって、一年で一番暑い気候で、しかも炎天下の中で踊り騒ぐ…土佐の風土・気質がよさこい祭りには今も熱く・熱く流れています。(当時…祭りの夜は男も女もすごいことしていたと!聞いたことです。今は無くなったけど…)
明日と明後日は出張するので・・・続きを

「そうです!」

やっと完成したよさこい鳴子踊りでしたが、武政英策先生は気に入っていなかったのです。このことは先生の奥様(後妻)から聞いた話しです。
何処が気に入らなかったか…
それは「あまりにも日本的な感覚が強く、盆踊りと変わりが無い」と激怒!
「新しく生まれた祭りなら、次の世代・時代に求められる元気で自由で有るべき」と言っていたそうです。
この先生の言葉が十数年後よさこい祭りを大きく変えることになる!
祭り始まった時代は…戦後の復興の為に人々は我武者羅に働き、生きる事や稼ぐ事に皆が夢中で、その為…楽しむ「コト」が、ほとんど無い時代に参加型のよさこい祭りが誕生したとあって、一気によさこい祭りは高知市民に受け入れられたのです。
そして祭り本番は高知市内(商店街・町内)の各演舞競演場に多くの連(チーム)が駆けつけ、祭りの期間は老いも若きもが思い切り楽しむ祭りとなったのです。(第1回開催…当時、私は二歳で父親に祭り姿で連れられて泣きべそ顔の写真が残っています。)

ここで突然にその頃の商店街を思い出したので書いときます。
『当時、我が家は靴屋をしていました。』
「八坪しかない店舗に毎日多くのお客さんが買いに来られ、「客が怖い」記憶が残っています。私は豆粒みたいな存在で店頭が遊び場でした。真向かいに友達の店があるのですが…一人で道路を渡る事が出来ないくらいの人の流れがあり、わずか道幅8メートルを渡る為に店員を付けてもらったことがありました。」

脱線してしまいました、祭りに戻ります。

「私の記憶では昭和35~6年頃…追手前小学校4~5年生のよさこい祭り」
人とは飽きっぽいもので、どんなに楽しい祭りでも、毎年同じ踊りを5年6年と繰り返すごとに飽きて来るのか…よさこい祭りの参加者も参加連(チーム)もどんどん少なくなり、遂には参加した人に日当が出る始末。よさこい祭り振興会も祭りを止めるに止められない…
その当時、人々の関心事はテレビや映画など新しい娯楽の登場に関心が移り、よさこい祭りの存在が薄れていったのです。
そこにサプライズを仕掛けた人達がいました。それは祭りの主催者の一企業「高知新聞社・高知放送」が時代の変化を読み、新たな仕掛け(流行)を祭り取り入れた事で、よさこい祭りが蘇ることになったのです!
その仕掛けとは・・・・今日は疲れたのでこれまで!!!!

時代の変化と共に…人気が落ちてきたよさこい祭り、昭和36年頃だったかな…?
どんどん参加者が減り、私も踊りに参加したら日当代わりにプラモデル模型の商品券を貰った記憶があります。
「よさこい」人気急落の事態を打破する為、高知新聞社・高知放送の高新企業は当時の人気を集めていたテレビに注目し、「よさこい鳴子踊りのテレビ生中継(昭和34年)」を始めたのです。現在はテレビに映ることは珍しく無く日常の出来事ですが、当時は、特別な出来事でテレビに映るだけで世間が大騒ぎする時代でした。そのテレビに「祭りに参加するだけで映り出され」一躍街のスターになれるのです。この仕掛け事で再びよさこい祭りに火がつき、親達は自分の子供をテレビに映したい…親達の思いが参加者を増やし、各町内会のよさこい連は子供達の参加により活気を取り戻したのです。・・今から出張にでます!

よさこい祭りは生き「モノ」です。

時間と共に・時代と共に新しい力を加えて、少し変化する事が必要かも知れませんね。
蘇ったテレビ人気も10年ほど時間が経つと生中継も当たり前(常識)になり、テレビ放送により自宅でよさこい祭りを見ることが出来ることで(高知の真夏の気温は30度を軽く越す猛烈な暑さ…見物人も大変でした)会場の観客が少なくなったのです。
さらに問題だったのは、各連が同じ音楽と踊りを踊っているため、見る方が飽きてしまい盛り上がらないよさこい祭りだったのです。
この時代の私は思春期ど真ん中の高知商業の学生です。
よさこい祭りにはまったく興味が無かった時代で…「商店街で生まれ育った」事で、仕方なく参加していたと思います。

そんな時期(昭和47年)に…再び新しい風が吹くのです。

1972年フランスのニースで日本の文化を紹介する『ジャパンウィーク』が開催され…日本の歴史ある各地の踊り祭りに、高知よさこい鳴子踊りが参加することになったのです。
高知よさこい鳴子踊り始めての海外遠征、関係者たちは不安と期待で盛り上がっていた頃、よさこいの産みの親、武政英策先生が『不満の声を上げた』のです。

その瞬間にまたよさこいに新たな変化が始まる事になる)

武政英策先生は「イメージした曲と踊りが地味で合わない」と最初から思っていたようです。
「果たして、このよさこい鳴子踊りでニースの人達に、他の日本の踊りと比べ、違いや・楽しさを、伝える事が出来るか…?」を疑問に思い、武政先生が作った正調よさこい曲を、ニースの人達に解りやすく・感じてもらえる「サンバ」のリズムでアレンジしたのです。
そして「サンバ」リズムのよさこい曲を作り、先生自ら踊りを演出したのです。その時…サンバよさこい踊りを振り付けした人が、若柳流荒谷先生でした。

当時、荒谷先生は若く元気いっぱいの娘踊り子!…「日本舞踊の師範が洋風のサンバを振り付けし、しかも自ら踊る」ことで、荒谷先生は日舞の世界からは大変なバッシングがある中、流石…土佐の女は強い!!「受けた仕事は、誰に何を言われてもやりきるきぃ…!」と破門も覚悟でニースに乗り込み、そしてよさこい鳴子踊りがニース・ジャパンウィークで主役座を取る事になったのです。

「嬉しいね!このブログを見てくれた人がいてコメント頂きました。文章がまとまらず、さらに話しをしている書き方なので読み辛いと思いますが、ご容赦ください、しかも時々高知弁の文章にもなります?」

「さて、よさこいに話しは戻り」

ニースで開催した『ジャパンウィーク』で大人気になった訳は、日本のリズムでなくニースの人達にも解かるサウンド…『サンバ』のリズムがよさこいの曲と合体し踊りも見せる踊りから楽しむ踊りの振り付けに変化した事で、踊りを見ている人たちも自然と踊りだしたのです。(現地ニースはよさこい躍りで大盛況)
これこそが武政英策先生の作りたかった新しい祭りだったのです。
「じんばも、ばんばも、よう踊る」(誰もが皆が踊る)の思いが、この時、日本の高知から遥か彼方フランスのニースの地に…そして、今(現在)につながる祭りに変化したのです。
(各々の土地には、それぞれ異なる文化や歴史があり、土地に馴染まない他の文化でも、「異なる文化と文化が融合・合体する」事で…新たな独自文化として誕生する)
このニースでの大成功は…いち早く高知の地元新聞に大きく報道され、テレビも大々的にニュースに取り上げられ、高知中が「ニースのよさこい鳴子踊り話」で何日間も盛り上がったのです。

そしてフランス・ニースから踊り子隊が凱旋!まさに高知の大スター扱いになったのです。
この成功を本当に喜んだのは、若柳流荒谷先生だったかも?・・・成功すれば全てが上手く!

私が一番凄いと思ったのは、武政英策先生です。
よさこい祭りが誕生して18年が経過し、高知市民に広く知られていた「よさこい鳴子踊り」楽曲を、演舞場所(地域文化)に合わせ…先生自らが編曲したことに驚き・感動しました。

これ以降、高知のよさこい鳴子踊りは曲のアレンジが始まり、各連(チーム)はサンバやロックといろいろなリズムのよさこいが登場するのです。

よさこい豆知識:1972年~当時のよさこい各連は、連の先頭が地方車(音源車:生バンドやブラスバンド等の鳴りモノを搭載)で音楽を流し、その車の後を…踊り子が踊りついて行く。
その当時は拡声器としてトランペットスピーカーを使用していました。

ニースでの「サンバ」がきっかけになり、自由に楽曲や振りを変化できることが広まり、「よさこい」に新たな歴史のページを作り出す事になるのです…!!!!!

この頃の私は大学生で、よさこい祭りに興味が沸いてきた時期でも有ります。
夏休みになると直ぐに高知に戻り地元商店街で遊ぶ毎日でしたが、町内の先輩から「今年のよさこい祭りは神輿を出すので若者は担ぎ手を担当する」との指示があったのです。

「よさこい」≠「神輿」…マッチしない!

「今日はここまで!ご意見お待ちしています!また知り合いにもこのブログを紹介してね!元気な人・町・地域を日本中に創りたいから!」

これまでの記事が、よさこい祭りが誕生して20年ぐらい…経過した内容で、私の体験と先輩や長老の方々から聞かされた話しも含め書き上げた歴史です。

これから先は…「私の人生の歴史であり・よさこいの歴史でもあります」

今日は今現在のよさこい事情について書きます!
YOSAKOIソーランが1992年に誕生して今年で14年が経ち、日本国内はもちろんアジア・ヨーロッパ・アメリカなどに…「よさこい踊り」の楽しさ・躍動感が知られ広がっています。

私は…今から25年ほど前(1981年頃)に、よさこい祭りの楽しさや迫力を伝えに東京のテレビ局に売り込みに行ったのですが、…まったく相手にされず、よさこい祭りの魅力を言葉や写真で説明する難しさを感じた事でした。
当時の東京では「よさこい祭り」認知度は、ほぼゼロ…かなり低いと実感しました。

ところが今では、どうでしょう・・・!

全国何処でも「よさこい」の一言で話しが弾む。「凄いことだなあ」と思います。
YOSAKOIソーランを立ち上げた大学生(長谷川岳君)のドキュメント番組がTV番組(奇跡体験!アンビリバボー)で放送された事で各マスコミに注目され、日本中によさこいを知られるキッカケになったのです。

ところで、話は変わりますが・・・

「よさこいにっぽん」の名称のチームや祭りを、全国各地で見たり聞いたりした事はありますか?
よさこいを踊っている人なら、ほとんどの人が知っている・・・であろう。国友須賀先生と私の二人で1999年に立ち上げた組織です。

ここで「よさこいにっぽん」とは・・・を話しますと、

「よさこい祭りの主役は踊り子であり、祭り運営組織が主役ではなく裏方に徹するべき!」・・・と考え高知のよさこいの源にある『自由に、楽しく、元気に踊る』をスローガンに、踊り子一人一人に応援ができる事を目的に作った組織です。
当然祭りは踊り子だけで出来る訳はなく、多くの地域の人達の協力と資金、そして行政・警察等の理解が必要です。
だからこそ、今・・・、
よさこいの祭りの原点に戻り何のために各地で祭りを開催するのか?
祭りの目的を思い出して欲しい!
祭りで自分たちの町や村を元気にしたい!
祭りに若者達のエネルギーを弾けさす自由さ!
祭りで子供からお爺ちゃんお婆ちゃんまでが楽しく踊り多くの人と知り合う!

祭りは地域民が共に支え合い平等に行われる事が・・・祭りと私は思っています。
組織や誰かが作る祭りはイベントです。

何時しか・・・「よさこい」は全国的に有名になり、高知では過去に実績も評価も無い『にわか・よさこい達人』が次々現れたのです。
私はその人達に聞きたい・・・「過去何年間『よさこい』と関って、何かの実績(改革)を残したの?・・・ゴメン!何を偉そうに話しているの・・・?!」ですね。
恐らくですが・・・『にわか・よさこい達人』の皆さんは、私の名前(岩目)は知っていると思います。例えば「よさこいの件」で直接話をする場合、会議などで面会した場合、少なくても私に対しては一歩下がる人達です。
「自信がある」ならよさこい議論や祭りの運営、そして観客に感動を!更に、よさこいの次世代の計画など、話したい、考えを聞きたい・・?てコトです。
何時でもいいですから!

「なぜ、こんな事を書いたか?」

何も知らない全国の地域や人達に、自称よさこいの達人が高知のよさこい祭りは「こうだ」と言って、いかにもよさこいに決り事があるが如く、独自の解釈や考えを伝えることで『変異よさこい祭り』を誕生させています。
高知の「よさこい鳴子踊り」・・・「時代に・風土に合わせ自由に変化させる」市民参加の祭りを作った武政英策先生の魂に対して、まさに逆さま「高知よさこいの決り事(ルール)」の伝達していることに、私は、大変腹が立つのです。
ちなみに、私は武政英策先生が亡くなられて10年の節目(2002年)に、高知のよさこい祭り関連団体や関係者など協力要望したのですが・・・応援がもらえなかった、「メモリアルイベント」を自費で開催し、ステージ上では武政栄策先生の思い出話しなどを奥様に話していただき、生前の映像と多くのよさこい連に踊っていたたいたことです!
チョット自慢
(会場は高知カルポート大会場で高知のよさこい本番8/10・11の二日間開催しました。)

ここでよさこい事情その2は終わり、よさこい伝説にもどろうか!

よさこい楽曲を自由にアレンジ出来る!「凄い!」と思いました。
今までは、各連が決められた曲を生バンドやブラスバンド(高校の倶楽部)を使って個性を出すのが精一杯でしたが、それがよさこい祭りの楽曲や踊りを自由に変えることが出来る・・・!若者達に火がついたね。
各連は、こぞってアイデアを出し合い、各々の特色を出してきたのです。
この当時の私は、帯屋町筋商店街で「祭り男」と言われるほど…「よさこい祭りで一年が始まり、祭りの本番が終わった翌日から、また新たな祭り人生の一年が始まる生活をしていました」
よさこい祭りと共に生きる祭りバカだったのです。

当時の私は・・・自由にアレンジできる「よさこい」に夢中になり、「今年はこれだ!」といろいろなカタチのよさこい踊り思考しては、帯屋町筋商店街の役員(理事)に提案し実現化していきました。
その当時、帯屋町筋踊り子隊は高知で№1のチーム(連)で・・・資金力もあり、踊り子は300人以上と大規模。地方車に20t大型トレーラーを使用するなど、他を圧倒する巨人チームでした。(当時は規制があまり無かったから)

ほんとに楽しかったです。
よさこい祭りは、自分の為の祭りと思っていた頃でした!

そんな有頂天な時に、私を強烈に驚かすチームが、1973年のよさこい祭りに登場するのです。
それは・・・よさこいが始まり20年が経過した頃でした。
よさこい祭り本番の事でした・・・帯屋町筋よさこい踊り子隊が追手筋本部競演場(テレビ中継地)で演舞の出番待ちをしていた時、帯筋の前で待機していたチームから強烈なサウンドとリズムが流れ出したのです。
何事?と思い前のチームを見ると!・・・踊り子数は60名くらいの小さな連!ところがその踊り子たちは飛んだり、跳ねたり、ファンキーなダンス・・・実に楽しそうに踊っているのです!
私は目が点・・・・????!
私たちの出番時間も忘れ・・・踊りを眺めていたのです。
そして帯筋の出番になり・・・さらに私は驚いたのです!!!
帯屋町筋の300名の踊り子が半分ぐらい待機場所に居ない?
何処に行ったのか・・・?
帯筋の踊り子達は、前チームの尾列に飛び入り参加して一緒に踊っていたのです。
私自身、強烈なショックを受けた事を今も覚えて居ます。
そのチームの名は『堀田青果チーム』チームの代表は堀田イク、音楽は中内(通称ジュリアン)の若者だけのチーム、この二人とは同年齢で「イク」とは小学校も同じ町っ子です。
次回は堀田青果のチーム誕生を私の知るとこで、書きますね!

そうです!
よさこい鳴子踊りを現代形に進化させた「青果の堀田・よさこいチーム」だったのです。

昨日紹介した堀田イクとは中内は私と同級生、まさに「よさこい青春グラフィティ!」
その頃、二人は燃える恋をしていました。(その後、結婚しました)
余計な事かも知れませんが二人の出会いは、1972年ニース遠征以後にヨーロッパで開催したジャパンウィークに二人は参加していたのです。
イクは若手№1の日舞の踊り手、しかも美人!・・・そして中内は通称ジュリアンと呼ばれミュージシャン(アプサラス・バンド高知ではこちらも№1!)それぞれアーティストで若い、しかも異国の地・・・恋に落ちるには時間はかからない。
おそらく二人は・・・非日常の感覚の中で一人は踊り、一人は演奏し・・更に観客からは日本で味わえない「生の反応」に自分の何かが変わったのでは!

追手筋本部会場「青果の堀田」の演舞に周囲は唖然!!
街中で踊る興奮!
観客との一体感!
踊った後に来る満足感!
言葉では表現出来ない体感を忘れる事が出来なかったのでは?

ただ自由踊るのでなく、テーマを決め長い時間各自が同じレベルになるまで、チームの踊り子と練習をし、サウンドは楽しく・元気に弾ける曲に独創的アレンジし、しかも地方車は大爆音のスピーカーを備え付け、スピーカーのわずかな隙間から中内は演奏しながら踊り子と向き合い、狂った様なパフォーマンスを見せる!とにかく二人がかっこよかった!
このチームの登場でよさこいに異文化との融合や、若者にトランス状態で踊る楽しさを知らせたのです。(その後、堀田イクは中内と結婚し子宝にも恵まれ30歳になるかならないうちに、この世を去ってしまいました。そしてイクの凄さを実感したのは、告別式に参列した若者達の数。お別れの列は永遠に続くのではと・・・思うくらいでした。)

青果の堀田チームのサプライズ的登場以後、よさこい祭りに対して若者や参加企業の価値観が、ガラリと変わりましたね。

当然・・・私もですが!

翌年から若者をターゲットにしている、ブティックや居酒屋がよさこい祭りに次々参戦!

この時期からよさこい祭りを舞台に「おしゃれ&イメージ」合戦がはじまります。

その幾つかを紹介しますと、この頃(1980年頃)の若者はDCブランドファッション(ビギ・ニコル・ロペなど)に注目が集まりだした頃で、ブランド商品を扱ったブティックの若いオーナーが、ショップのPRとお得意さんに対し遊びサービスを兼ねてよさこいに参加!・・しかも、ただ祭りに参加したのではなく、「お洒落で・ステキで・ファンキーな」オリジナルな世界観をチームに表現したのです。

例えば、「グッドライフカンパニー」は踊り子の衣装(当時は法被か浴衣がほとんど)を白と黒の二色で左右対称の浴衣を作り、地方車は突然の雨や暑さ対策に屋根をつけるのが常識ところ、このチームは20tトレーラー車に屋根などまったく無いオープンステージを作ったのです。まさに、屋外のライブ会場が、そのまま移動するものでした。更に、その頃高知で人気のあった学生バンドに「よさこい楽曲をロックにアレンジ」させ、祭り当日は生演奏をさせたのです。
学生バンドとっても、会場や資金不足などでライブが出来ない事が多く、この祭り参加することで共通の利益を得る事が出来たのです。

この後居酒屋の紹介といよいよ国友須賀が登場しますよ!

次に紹介するチームは、居酒屋「いろは」です。
このチーム特長は曲も和調ロックで仕上げ、若くて元気なだけでなく「土佐の粋」でまとめたチームです。
評価が高い一番は、踊り子の衣装…実にカッコ良かったです。
まず驚きは男と女の衣装が違い、腹掛けの男性と法被風着物の女性、衣装布地に、高知で昔から5月の節句に飾る「フラフ」(解説:大旗のことで絵柄は武者など強い・勢いある絵が描かれる)を使い、高知の青い空・まぶしい太陽の光にぴったりの衣装でした。
しかも踊り子200人ほどが列になると鮮やかで、さらに踊りだすと、芸術的にキレイで美しい!チームでした。
ここに紹介した2チームは、後に、よさこい祭りが大きく変わるターニングポイントになったのです。
この頃から、踊り子達がよさこい祭り参加チームを評価し出したのです。年々人気チームには参加者(踊り子)殺到!チームの差別化が始まり、それぞれのチームはテーマ・曲・衣装など企画性(トレンド)が求められる事になるのです。

この続きは・・・近日、投稿します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?