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好きな曲をスピリチュアルな視点で味わう④[Special編]

Janet Jackson が1997年にリリースした6枚目のスタジオアルバム、
“The Velvet Rope“。
アルバムタイトルの”ベルベット・ロープ“について、ジャネット・ジャクソンは、
「映画のプレミア試写会やナイトクラブの横を通り過ぎると、入場できる人と入場できない人を遮断するロープが見えるでしょ。ああいうベルベットのロープは人間の心の中にもあって、他の人を遮って自分の気持ちを隠してる。私はそういう気持ちをさらけ出して、深く掘り下げようとしてるの。自分のベルベットのロープの内側に人を招き入れてるというわけ」と言います。
外側の世界から内側に入っていく。内側の世界の探求無くしてスピリチュアルは語れません。これは、彼女の内面を深掘りしながら出来上がったとてもスピリチュアルなアルバムです。

この中から”Special“という曲にスポットを当ててみたいと思います。

We’re all born with specialness inside of us
I have the need
To feel real special too
You see you can’t run away from you will be
You have to learn to water your spiritual garden

“私達は  皆私達の中にある固有性を持って生まれている
私は義務がある
それは現実的な固有性を感じるためのものでもある
あなたはあなたであるということから逃げられないとわかる
あなたはあなたの精神の庭に水やりをすることを学ばなくてはいけない“

これを訳しながら、なんと深い歌詞なのだろうと暫し感慨に耽りたくなってしまいます。また、The need、specialness 、 spiritual gardenなどは、どのような言葉で表現したらいいのか難しく、少し悩みました。
"The need”は単なる要求ではなく、ワタシ達が生まれる前から魂が決めてきたという意味を込めて敢えて”義務”と書きました。specialnessは、"特別性"と書こうとしましたが、それだとエゴを連想させてしまう感じがしたので”固有性”にしました。"本当の自分"と解釈したらしっくりくるかもしれません。
ワタシ達はこの固有性(本当の自分)を探求するために生まれていて、それはまた、魂の意思でもあるとワタシは思っています。

"あなたはあなたであるということから逃げられない"
これはスピリチュアルを語るときによく聞くフレーズですね。
何かのあるいは誰かの真似ではなく、自分の内面性を探求していくことでしか本当の自分を満たすことは出来ないということをワタシもなんとなくですが最近分かり始めた気がします。それが自分の精神の庭(spiritual garden)を整えることにも繋がるのです。
ここで、『インナー・ジャーニー』 OSHO 講話録の話と関連付けたく以下に引用します。
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知識は既に内在している。どこか他から獲得する必要はない。その泉は内側に隠れている。中間にある障害物、つまり石や土を掘って取り除けばいいだけだ。するとその知識の泉は、姿を現しはじめるだろう。
  しかし、ある人は井戸をつくり、ある人は池をつくる。池をつくるのはまた話が別だ。池をつくるのに天然の水源を探す必要はない。池のつくり方は、井戸のつくり方とはまったく反対だ。池をつくるには、石や土を掘り起こさなくてもいい。他の場所からそれを持ってきて、それで壁をつくればいい。しかし壁が築かれても、水がひとりでにやって来るわけではない。他の人の井戸から水を引き、池に入れる必要がある。表面的には池は井戸という幻想を与える。それは井戸のように見える。池にも水が見えるし、井戸にも水が見える。しかし池と井戸には、天と地ほどの違いがある。第一の違いは、池には自分自身の水がないという点だ。
 ----(中略)----
井戸には大海につながる水脈がある。井戸は小さく見えるが、内側の深いところでは無限なるものとつながっている。そして、どれほど大きく見えようとも、池は誰とも関わり合いがないーーー池はそれ自体で完結しており、閉ざされている。水脈を持たず、無限なるものとつながるすべを持っていない。
意識の人はよそから水をもらわない。水は彼の内側からやって来る。水は存在からやって来るから、彼はヒンドゥー教徒でも、イスラム教徒でも、キリスト教徒でもない。意識の人は、どの宗教にも属さない。しかし学者は、宗派なしではいられない。学者は、常にある宗派に属している。
 ----(中略)----
 そこで、まず理解すべき基本的な点はーーー知識とあなたが行っている思考の蓄積は、ふたつの異なるものであるということだ。他人から得たり借りたりした思考は、知識ではない。別の源泉から取ってきた思考によって、真理や自己に導かれることはない。この知識は偽りであり、見せかけの知識だ。それは、知識に到達したという幻想を生み出す。しかし実際には、何もわかっておらず、あなたは無知のままだ。
 この状況は、こんなことと同じだーーーある人が泳ぎに関する本を何冊も読んで学習し、泳ぎについて講義をし、あるいは本を書けるぐらいになった。しかし彼が押されて川に落ちると、泳げないことが判明する。彼は本を読み、泳ぎのすべてを学び、あらゆる理論を知っているが、実際には泳げない。
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自分の庭に、池を作るか、井戸を作るかの違いが、上記の講話録で分かりますでしょうか。
”Special”の歌詞で言うなら、自分の庭(spiritual garden)を潤し、草木が枯れることがないよう壮大な叡智の大海から水を引くために井戸を作る必要がある。池を作って他人のところから水を持ってくるのではなく、自分で井戸を掘り(本当の自分を追及する)、自分自身の水(specialness)によって庭を潤し、実際に体験する(feel real special)ことが、各自に生まれ持った義務(the need)でもあるということでしょうか。

We need to remember
The love lies deep within ourselves

”私達は、私達の奥深く横たわっている愛を
思い出す必要がある”

ワタシ達はまた、自分の精神の庭に水やりをすることを学びながら、愛を思い出す必要があると。
愛については、ワタシ達はすでにこの世界に生まれる前に知っていたことで、学ぶものではなく、思い出す(remember)ということなのかもしれません。この世界に生まれる前に魂が約束してきたことを。

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