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マンガの中の少女マンガ/家(6):藤原栄子「まんが家志願」(1968)

 新年あけましておめでとうございます。
 すっかりほったらかしになっていたこのシリーズ。とはいえ読むのはぼちぼち読んでいたので、再開していきたいと思います。

 今回とりあげたいのは、藤原栄子「まんが家志願」。集英社『マーガレット』1968年19号〜23号まで連載されていた作品だ。
 今でも少女マンガ雑誌では新人育成に力を入れているが、『マーガレット』の場合、1966年から「まんが大学」なるマンガの描き方講座の連載があったりするし「マーガレットまんが賞」の募集も1967年には始まっている。そんな影響もあってか、同誌では、たとえば主人公の兄としてどこか石ノ森章太郎を彷彿とさせるプロのマンガ家が出てくる西谷祥子「レモンとサクランボ」(1966)など、マンガ家が登場する作品も60年代後半にはポツポツと見かける。その中でもマンガ家を目指す少女を主人公とした本格的なマンガ家ものという点で「まんが家志願」は注目に値するだろう。もっとも、メインの女性キャラクターがマンガ家志望の作品としては鈴原研一郎「それいけマリー」(1967)もあったりするのだが、こうした作品については、ひとまず別の機会に譲っておきたい。

 さて、1970年代に小学館の学年誌で人気を博した「うわさの姫子」で知られる藤原栄子による本作「まんが家志願」の主人公は静っぺこと静江。タイトル通りマンガ家を目指す中学生の少女だ。親友で病院のひとり娘のお春とともにマンガ家を目指して切磋琢磨しているのだが、第一話にして大きな不幸が静江の身を襲う。
 母を亡くして父と子供三人が暮らす静江の家は、裕福なお春の家とは対照的にその生活は厳しい。そんな一家の大黒柱たる父がいきなり死んでしまうのである。
 しかもその原因は親友・お春の父の不手際だ。
 体調不良を感じていた静江の父は、お春の実家の吉川病院で彼女の父の診察を受け、胃潰瘍との診断を受ける。服薬して安静にしておけば問題ないということでホッとしていた静江たちだが、その夜に父親の容態は急変、大慌てで吉川病院へ向かった静江だが、すでに営業時間は過ぎているからと診療を拒まれてしまう。そうこうしているうちに、父はそのままこの世を去ってしまうのだが、駆けつけた別の病院の医師によって明らかになったのは、そもそも胃潰瘍という診断が誤診であったという事実だった。
 というわけで、いきなりマンガ家を目指すのどうのと言っていられない重たい展開がやってくるし、このあと当然ながら親友・お春との友情に亀裂が入り、そしてそれがひと悶着をへと修復して(ちなみに仲直りの大きなきっっかけになるのは昔のマンガおなじみのカジュアル交通事故だ)…という青春ものらしいストーリーが展開していくことになる。要するに、全体としてはマンガ家の仕事を掘り下げて描くというよりも、青春ものの定番の枠組みの入れ替え可能な要素としてマンガという題材が組み込まれているといっていい。そのことを分かりやすく示しているのが、まんが研究部の部長・鈴井の描かれ方だ。第1話、鈴井の初登場シーンのハシラにはこんな文句が書かれている。

「鈴井くんは、まんが研究部の部長さん…ハンサムで秀才で、学校中の女の子のあこがれのまとなのです」(図1)


図1:集英社『マーガレット』1968年19号

 そんな漫研の部長がいてたまるか!!と強めの口調で言わざるを得ないではないか。むろん、この鈴井くんをめぐっては親友・お春との1960年代らしく控えめな恋の鞘当て未満の行き違いが描かれたりする。さらには、お春の父がまんが研究部をつぶそうとしてきたり(あんたいい加減にしなよほんと)といった紆余曲折を経て、静江がまんが賞に入選し飛躍の機会を掴むところで物語は希望のある結末を迎える。
 先にも述べたように基本的には本作の「マンガ家もの」要素は他のものと入れ替え可能なものなのだが、とはいえ注目するに足る細部はある。たとえば、「マンガの中の少女マンガ家」というテーマからすると、本作では「少女マンガ」および「少女マンガ家」ということばがまったく出てこないのは見過ごせないところだ。第1話で静江がカットを投稿するのも、その後に持ち込みに行くのもその掲載誌「マーガレット」だ。ちなみに、持ち込み場面での、本村三四子の影響を指摘するところから始まる編集者の容赦のないコメントは見どころである。ともあれ、静江が少女雑誌向けのマンガを描こうとしていることは確かで、第4話で「なにをかけばいいのかな」と悩む場面を見てみてもそれは明らかだ。(図2)にもかかわらず少女マンガというジャンルは作中で意識されることはない。

図2:集英社『マーガレット』1968年22号


 もっとも、これは別にかわったことではなく、この時期にはそれがふつうだったと捉えるべきだろう。実際、当時の誌面を見ても少女マンガということばは基本的に使われない。「少女マンガ」ということばは、主にジャンルの外部から、他のジャンルと比べられるときに用いられることばであり、少女向けメディアの内部においては、そこに掲載されるマンガは単にマンガだったのだ。網羅的に調査できているわけではないが、これは『マーガレット』誌ひとつに限らない当時の傾向と言えると思う。
 一方で、現在では少女マンガ雑誌の誌面に「少女マンガ」ということばが出てくるのはそれほど珍しいことではない。たとえば『りぼん』2023年2月号では、村田真優「ハニーレモンソーダ」に対して「少女まんがの到達点♡」という惹句が使われているのを見ることができる。(図3)こうした変化がいつどのように起きたのかも興味をそそるところだ。

図3:集英社『りぼん(電子版)』2023年2月号


 なお、「少女マンガ」というジャンルがあまり意識されないところは現代とは異なるものの、実人生での経験の反映といういくつかの少女マンガ家マンガで見られたパターンは本作にも描かれていることは確認しておきたい。静江は「なにをかけばいいのかな」と悩んでいたわけだが、鈴井に「ぜいたくだなきみは‥‥ 自分のまわりにありあまるほど素材があるじゃないか」と煽り気味に指摘され、実体験を織り込んだ作品を描くことで入選を勝ち取るのだ。実体験を活かすことを決意するときに静江は「主人公の気持ちがむりなくかけるかもしれないな」と考える。「等身大の心情」を描くことはこの頃から大事にされてきたと言えるだろう。ただし、それが少女マンガに限った話ではないのではないかと思う。 

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