マンガの中の少女マンガ/家:木内千鶴子「どこかで春が…」1969年

 木内千鶴子は1957年にデビューし、以降は若木書房などで少女向けの貸本マンガで活躍する。その後、1960年代中頃(昭和40年代)からは集英社の専属として同社の雑誌のために作品を多く執筆している。
 『週刊マーガレット』1969年16号に掲載された「どこかで春が…」は作者お得意の友情ものだ。そして、扉の煽り文句に「まんが家志願の少女とおかあさんとの、深い愛情と、苦しいかっとうとを、あざやかにえがきだした感動まんがです!!」(図1)とあるように親子の衝突と和解の物語でもある。
 主人公の朝美は中学3年生、親友の光子とともにマンガ家を目指し、出版社への投稿を目標に執筆に精を出している。しかし、女手ひとつで朝美を育てきた母は彼女の夢にまったく理解を示さず、マンガの執筆が高校受験の妨げになることを懸念している。さらに母は朝美の「まんが熱」は光子の悪影響であると考えていて、二人の友情を引き裂こうとするのだった。
 光子を辛辣になじる母の振る舞いもあって朝美と光子との間には距離が生まれてしまうが、光子のおじさんである盲目の音楽家の導きもあって朝美は受験勉強を装いつつ夜なべして執筆に邁進する。しかし、あと一枚で完成というところで母に見つかってしまいビリビリに破かれてしまう原稿!!あまりの仕打ちに家を飛び出した朝美は光子の家に駆け込む。友情を取り戻す二人。そのまま光子の家に泊まり込んだ朝美は彼女の協力も得て二日がかりであらためて原稿を描きあげる。
 原稿を仕上げが無理がたたって風邪から肺炎を起こして入院した朝美についてるところに母が訪ねてくる。朝美の本気の情熱を前に心を入れ替えた母は「たとえこれがみとめられず失敗におわるとしても…/ここまではやらさてあげるねきだったのね…」と朝美にかわって原稿を出版社に持ち込みに行くのであった。すると、なんとあっさりと採用!朗報を伝えようと病院へと駆ける母。そのころ、病室ではほどなく訪れる嬉しい報せをむかえる準備のようにおじさんの奏でるハーモニカの音色が鳴り響いているのだった。

 朝美の母の急激な心変わりぶりには驚いてしまうというか、家出して友人の家に転がり込んでマンガ描いていたら体を壊して入院なんてことになったらますます頑なな態度になりそうなものだが…などと思うが、母から突き放されたまま肺炎でそのまま主人公が亡くなってしまったりするのもそれはそれで美しきパターンという感じだろう。

 作中では1960代の作品の多くがそうであるように「少女マンガ」「少女マンガ家」といったことばは用いられていない。朝美の描いているのがどんな作品なのかも語られることはないし、出版社がどこか、どのような雑誌の編集部に持ち込んだかも名言はされないのいで、少女向け雑誌か否かは明らかにならないままである。ただし、コマ内に示される原稿を見る限り、投稿作の主人公は女の子であるようだ。
 ともあれ、厳密には「少女マンガ家もの」とは言えないだろう。

図:『週刊マーガレット』1969年16号、集英社、p.215


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