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[歌詞考察]藤巻亮太/マスターキー

藤巻亮太の3枚目のアルバム「北極星」のTr. 5に収録されている楽曲、マスターキー。

全体的には、変わりゆく周りの状況に合わせて自分を変えて行こう、どんな扉もみんなが自分の中にマスターキーを持っているから開けられるという前向きな曲。

レミオロメン時代から含めて、藤巻さんの歌詞は分かりやすいものもあれば、初見だとよくわからないこともありつつ、この歌詞は「時間の流れ」をいろいろな形で表現している楽曲だなと思う。

例えば、

汚れたTシャツで駆け回った午前の宇宙
ピクルスが食べれるようになったいつかの午後

この部分は、午前=少年時代 / 午後=大人時代 をうまく表現しているなあという印象。

Tシャツが汚れるくらい(もしくは汚れてることも気にならないくらい)に駆け回った時代。「宇宙」は未知なるモノで何があるかわからないけど希望や夢に溢れる様。そんなイメージに「午前」という単語を組み合わせてるのではないかと思う。

それに対して、「ピクルスが食べれるようになったいつかの午後」は、ピクルスってコーヒーと似てて、なんとなく大人の食べ物のイメージで、それが食べれるようになる=大人というイメージなのではないかなと。
いつから食べれるようになったかって記憶にないんですよね。

それぞれ曖昧な表現なのに、なんとなくイメージできる少年時代と大人時代の対比。加えて曖昧だからこそ、聴く側が自分の中で「あの頃」をそれぞれがイメージしやすく、曲に入り込みやすい。

直後にくる

馬鹿のままでいたい僕のロバの耳の奥には念仏は届かない

という歌詞。
「ロバ」は新しい物事を嫌う動物で、周りに合わせるのが苦手。その耳の奥に念仏(馬の耳に念仏と掛けてるのだと思う)は届かない、というのは「いつからか大人」にはなったけど大人になりたくない自分という存在を表してるイメージ。

早口の中で進むこの短い歌詞だけで、少年時代〜大人時代への移り変わりと「大人」になった自分の気持ちが表現されている。

楽曲はこの主人公をベースに進行するので後半に同じようなフレーズは出てこないが、後半に向けても同様に時間の変化を上手く表現したフレーズが出てくる。

滝のように流れる青春の海の底

青春を「過ぎる」と表現することはあっても「滝のように流れる」と表現してさらに「海の底」=深くて暗い場所に向かう。
滝という川の最大の見せ場というような輝かしい時と経て、真っ暗な海の底。これを単に過ぎた青春、お先真っ暗な大人と表現してしまうとただの暗い曲になるのを、そうならないように上手く表現している。

結果として、「大人」という嫌な時代になってしまったけれど、自分の中にあるマスターキーで新しい扉をこれからも開けていこう!裏も表も含めて自分なんだっていう前向きな曲に仕上がっている。

アルバム「北極星」(ほっきょくせい)
2017年9月20日リリース。

* 狭い知識と偏見も含んだ解釈です。音楽の聴き方も歌詞の解釈も人それぞれだと思いますが、この文章が少しでもこの楽曲を聴く楽しさに繋がると良いなと思っています。

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