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いつかのタイランド②チェンマイとチェンライと山岳民族

バンコクからチェンマイに移動する手段は飛行機、電車、バスとあるけれど今だからLCCがあるものの、当時は飛行機なんて考えられずバックパッカーの選択はふたつ、電車かバスのどちらかだった。バスも安いのだけど折角だから寝台列車で移動したかったのである。バンコクのメインターミナルのフワランポーン駅は大きな駅だった。映画にでもできてきそうな雰囲気を感じながらチケットを予約した、その日の夜に食べ物を用意して列車に乗り込んだ。

フワランポーン駅は夜でも人が多かった。アジアで初めて乗る電車は楽しみだった。当時の写真は無いのだけれど今どきはネットでも見れるからありがたいね。このnoteは記憶をたどってるのだけどやっぱりネットの力はすごい、今どきはネットで映像も含む情報が沢山あるから初めていく人でも免疫ができるというか心構えが出来るのだろうな。

寝台列車は夜の8時頃出発して翌朝にチェンマイに到着したと思う、そこからはバスの乗り換えてチェンライに行き町はずれの小さな旅行代理店で山岳民族ツアーに参加したのだった。自分たちで行きたかったのだけれど当時それを見つけられなかったのと、時間も無かったためだ。今どきの情報があれば自力で行けていたのかもしれない

その小さな旅行代理店でツアーを予約して宿も教えてもらいゲストハウスに泊まった。そして翌年もアクシデントがあり、同じ宿に泊まることなどその時は思いもしなかった

翌朝四駆の車が迎えに来て山岳民族ツアーが始まった。案内するのは弁護士だという。ほんとかな?弁護士がツアーガイドするかと思いいつつも、この人はなかなか優秀な人だった。このツアーの良かったの1日目の山岳民族の家に泊まったことにある、高床式で竹のようなもので出来ていいる家の下には鶏がいて、食べ物をこぼすと下の鶏が食べるようになっているから掃除が楽だっとガイドが話していた

一日目のその日山岳民族の家に行くのに途中から山登りだった。当たり前なのだけど山岳民族だから山の上に住んでいるのだ、体力のない私は直ぐにバテてしまい、後から来る人に抜かれる山登りだった。こんな時に思い出すのは水戸黄門の歌「後から来たのに追い越され~泣くのがいやなら、さぁ歩け」このフレーズが頭の中をぐるぐる回った。そして本当に泣きそうになりながら山登りをした。そんな中アカ族のおばあさんに瞬く間に抜かされた。そのおばあさんのふくらはぎは凄くて、ギッシリ筋肉がついていてカッコ良かった。すごいなぁと思いつつも、おばあさんとの距離はどんどん離れていった。

しばらく水戸黄門の歌を歌いながら山を登っていた私もついに山岳民族の村に到着した。そこは竹で出来た家が10何件か並ぶ村だった。そこでお茶を飲んだり周りを散策したりして過ごした。ちょうど家を新築する工事をしている所だった。竹を組み立てて作っていくのは家を作るより大きな籠を作るような作業のように見えた。

数年後にフィリピンの島に行くのだけど、その島の家も竹で出来ていた、そのフィリピンの島の人は台風で壊れても又作れると言っていたけど、確かにアカ族の家も倒れても又作れるのだろうと今なら思う。あの逞しい人たちは自給自足でコロナも関係なく山岳でくらしているだろうか?観光客が来ないから外貨は稼げなくて困っているのかも知れない

その日の夕飯は内容は忘れてしまったど何種類もおかずが出てきて美味しかったと記憶している。トイレは綺麗とは言えなかったけど一番きつかったのは寝るときだった。ガイドが持ってきたという毛布を掛けて寝たのだけどこの毛布がかび臭いし、重いし湿度がこもったカーペットみたいな堅い代物でいや~きつかった。けれど山岳民族の村は夜は少し寒くなるので我慢してかけて寝た。こんな時でも寝ることができたのは幸いだった。ちなみに小屋を一棟私達の部屋にしてくれたのはありがたかった

翌日は別の山岳民族の村に行った。確かリス族の集落だったと思う。ここでは大きな家がゲストハウスになっていて、一つ一つの家が大きくてお土産屋さんや食べ物屋さんもあり賑やかな場所だった。こちらの方が快適で良かったけれど、私はアカ族の小さな村の方が印象に残った。あの小さな家で機織り体験をしたことや、小さなテーブルで食べたご飯の事。同じ山岳民族の村でも違うのだと不思議な気分になった。

そしてこの村では欧米系のバックパッカーも多く、なんだかみんな浮かれていた。そうなのだココはゴールデントライアングルという地区なのだ。今は違うだろうけれど、その当時はその名残があったように思う。ゲストハウスの人がゴッソリと何処かへ出かけて行った。私たちは甘ちゃんなのか感が鈍いのか、興味がなかったので後から気づいたのだけど宿でのんびりと過ごしていた。

山岳民族の村への旅では途中たくさんの茶畑も見れたしコーヒー畑もあった。山岳は美しくて体力のない私でも自然に魅了されながら歩くことができた。今ネットを見ると近代的な山岳民族の様子が見える。彼らは豊かになり家は竹でなくコンクリートや木の様式になったのだろう。

全部の村がそうなったのかもしれない。それは良い事なのだけれど。私の記憶はあの竹の家なのでネットをみて少し寂しいような気もした。もちろん文明が発達するのはいいことだし生活が向上することも素晴らしいので又の機会があれば今の山岳民族の村を訪ねてみたい


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