無題

Twitterやりすぎてると文章書けなくなるんだな、というのを実感する3年間でした(私の場合はうつ病の悪化もありますが)。

以下、駄文。LGBTの話題ですので、苦手な人はお逃げください。

妥協と、まずは小さなことから

トランスジェンダー問題、トイレに関しては妥協するしかないと思いつつ、小さくとも打てる手はあって、例えば「小便器の間に互いから、また斜め後ろから性器が見えなくなるサイズの衝立を設置する」だけでも大きな効果がある。個室に関してはそもそも見えないし、個室は上下から覗き込む行為は男女どちらであっても犯罪だし(分かってるか小中学生、それは犯罪だ、今すぐやめろ。子供がやられたという親御さんは学校ではなく警察に通報しよう。物や水を投げ入れるのは論外だ)。

男性であっても「用を足している最中に女性(たいていはおばあちゃん)の従業員が清掃に来ると気まずい」という声はそれなり以上に聞こえてくるわけだし、衝立をちょっと追加する程度の手間とコストで、その辺もかなり解決出来ることを思えば、けして悪い方法ではないと思う。

「裸の付き合い」が苦手な人もいる

では銭湯や温泉はどうか。

これも割と簡単で、「水着着用のみでの入浴可能」な施設が増えていけばいいと思う。私自身、同性であっても裸を見せるのはおおいに抵抗がある人間なので、水着を着用した上で男女混浴という施設は正直言ってありがたいし、需要もたぶん、少なくはないはず。

「裸のつきあい」が好きな人はそういう施設に行けばいい。極論、「そういう行為あり」の混浴があったっていいと思う。風営法に関しては本題から外れるのでここには記さない。
水着を着用しての混浴なら、例えば犯罪防止用の監視カメラを、少なくとも浴場には設置出来るだろう。多くの場合「そういうトラブル」は浴場で起きる。

とはいえ、「窃盗」に関しては多くの場合、更衣室で起きるので、例えばの話、泊まりがけの温泉であれば、「館内では水着で歩き回るのはOK、ただし廊下の各所に監視カメラがありますので、着替えはそれぞれの借りた部屋で行ってください」という方式(明記するかはともかく)にすれば、かなりリスクは抑えられるはず。

問題は日帰り温泉や銭湯だけど、正直な話、トイレと同様にすべてをトランスジェンダーに合わせることは社会の仕組みとコストの問題から「不可能」だと思う。やるとしても小さなことからコツコツやっていくべきで、いきなり莫大なコストがかかる「結果(いや、「成果」むしろ「戦果」と呼ぶべきか)」を求めるのは、拙速以前に子供のようなわがままだろう。

何かを成すには、まずお金を集めよう

一時期話題になった「障害者のライターが当日にいきなり電話して障害者への応対設備がない駅に行き、断られたと騒ぎ立てる」という事件があったけど、あれと同じで「コスト面からとうてい設備の充実が出来ない」という場所はどうしたって存在する。

トイレも同様だ。すべてのトイレ(つまり整備・管理コストを捻出できない地方の、人の往来も少ないような場所のトイレ)まで手が回らないし、回ることもないだろう。温泉・銭湯もまた然り。
どうしてもやりたいと思うなら、人任せではなく自分たちでそういう団体や法人を作り、金を集め、営業をかけるべきだ。金を集める方法はもうあるはずだから。

思想運動・活動が「儲ける」のは正しい

よく言われる「活動家は金ほしさに活動している」というのは、基本暴論であり間違いであるが、正しい側面もある。
つまり「ある思想を長く継続していこうとするならば、長期に渡る利益になる構造を作る必要がある」ということ。
フローレンス・ナイチンゲールの例を繙くまでもなく。
私はLGBT活動家やフェミニズムの利益化に何も反対しないし、思想が過激でなければ消極的ではあれど賛成もするだろう。

思想の継続と実現には金が必要だ。これは間違いない。むしろ金を出さずに思想を通そうとすることこそが間違いだ。
「われわれの活動はあなたにも利益がある」。民権運動はそのようにして社会の権力者や資産家に営業をかけ、利益化し、人権の拡大に努めてきた。これは賞賛されるべきことだ。

現在、フェミニズムがバッシングを受け、軽蔑と忌避の対象に(甚だ残念ながら)なりつつあるのは、「自他・周囲の利益化」を怠ってきて(あるいは「身内だけの利益化」ばかりしてきたと言うべきか)、それどころかわざわざ「他者の不利益化」を行って敵を作ってきたからに他ならない(まあ、他にも原因はあるのだけど、それはまた別の機会に)。

話を戻す。

結局、「男女の性差」「性別としての区分け」は必要なもので、それは生物学的、身体的なものにならざるを得ない。心の中は誰にも分からないので。

うつ病や発達障害はだいぶ認知が進んだとはいえ、「障害者枠の募集」を行っている大きな企業ですら、それらに対して正しい認識と対応を行っているとは限らない。私自身も障害者枠で働いていた時分、アドバイザーを名乗る斡旋企業の人間から「ここが踏ん張りどころですから!」としか言ってもらえず、雇用側に何もアドバイスや提案をしてもらえなかった経験がある。

結局、どこかで妥協するしかない。それが不満なら、少しずつでも認知を変えていくしかない。

閑話休題

スペイン映画の「ミツバチと私」という映画の予告を見た。予告しか観ていないので、これは飽くまで現時点の感想。

内容は「8歳の、男の子の体を持って生まれた子供が、自分の性自認に悩む」という映画であるようだ。

正直こう思う。

「8歳の子供に性自認を悩ませているのだとしたら、それは社会以前に周囲の大人が悪い」

まあ、そういうところに言及する内容の映画なのだろうけど、予告を見た限りでは「家族の愛情が」みたいな内容になっているので、何だかすごくモヤッとしてしまった。それは「発達障害は親の愛情不足」というデマと何が違うのだろうか。本編を観ていないので(観るかどうかはともかく)これ以上は言及しない。

Twitterやめる時期が来たのかもしれない

頑なにTwitterと呼び続ける。Xなどと小賢しい名前を名乗るな、お前はTwitterだ。
しばらくTwitterを離れてみたのだけど、自分の内面がかなりTwitterの世界と癒着していたのを自覚した。離れることでかなりTwitterと自分を分けることに成功したと思う。
Twitter、そろそろやめてもいいかもしれない。本来注目されていた宣伝媒体としての機能もだいぶ怪しい雲行きだし。
たぶん、やめたほうが健康に良いですよ。
私はもう少し決定だとなる小さな変化が起きたら、やめるつもりです。友人たちとインターネットで話す方法や情報収集は他のサービスでも出来ますので。


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