2020年を締めるにあたって

2020年は何も、本当に何もない年だったけれど、これだけは書き起こしておきたくて、筆を取ることにした。

BUMPのチャマ不倫騒動。これが、何もなかった私の2020年に激震をもたらした、ただ一つの重大事件。

もはやこれに関して詳しく書く必要はなく、詳細を知っている人に関してはそれでいいし、初めて聞いたという人に関しては読んで字の如く「チャマの不倫がリークされた」という、その一言に尽きると申し上げたい。

初めてこのニュースがLINEニュースに上がった時、私はとてもショックを受けた。

とてもショックで、そして考えた。

一体どうして、私は他人の不倫にこんなに傷ついているんだろうか。

それを考え始めた頃、もう既にTwitterではたくさんのファンが心の中を吐露していたし、BUMPの公式Twitterには数多くの応援メッセージが寄せられていた。

私と同じようにショックを受けた人。「気にしてないよ!」とリプを送る人。アーティストの私生活がアーティストの音楽価値に絡むことに疑問を呈する人。私は、さまざまな反応のひとつひとつを読みながら、自分がどうして傷ついているのかの理由を紐解くことにした。

この行き場のない怒りと悲しみの拠り所を探そうと思ったのだ。探して、探し終わったら、きっと私はもう二度とBUMPのライブには行けないだろうな、と考えていた。

そう、この怒りと悲しみには行き場がない。

だって、私たちはただのファンであって当事者ではないからだ。

私たちは別に当事者たるチャマの何でもなく、不倫した相手でもなければ、不倫された人物でもないし、関係者の親族や友人でもなく、突き詰めていけば、ただの無関係の他人である。

突きつめていくと、ファンというのは他人だ。

その「全く無関係の」「赤の他人」が、勝手に傷つき怒っている。その時の私の状況を正しく整理すれば、ただそれに尽きた。だから、どれだけ傷ついても、どれだけ怒っても、それをどこかにぶつける権利はない。本来ならば、怒る必要も、傷つく必要もないものを、勝手にそうしているからだ。

ただひとつ、もし「一介のファン」で「不倫騒動とは無関係の」「赤の他人」である私が自由にできる権利を持っている感情があるとすれば、それは「失望」だと思った。

私が、私の抱いていた希望とか期待とか、信頼とか感謝とか、そういった「私からBUMPへ望んだ行動」から「チャマというBUMPのメンバーの一人が逸脱した」という、いうなれば私の「身勝手な失望」は、私が自由に抱いても構わない唯一の負の感情だと思えた。

この時、BUMPの公式ツイッターだったか、インスタだったかでチャマの謝罪文が発表された。その文面の中にたしか「皆様の期待を裏切ってしまい」みたいな表現があったと思う。

正直、モヤっとした。そういうことじゃないんだけど……という気持ち半分、ちゃんと言葉にすればそれが一番正しい気もして、謝罪文面に過不足はないと思ったが、それでも何かが決定的に違う。そんな感じ。

多分この違和感が、この騒動で私が抱いた「負の感情」の根幹を成している。

私はこの件で「チャマがファンの期待を裏切ったこと」によって「身勝手にBUMPを失望」できれば、きっと楽になれると思った。自分と違う他人が、自分の意に沿わないことなんて当然で、そういうことで「あー、はいはい。私が好きだったはずのバンドはこんなもん。」とか、他にも逆に「そんなこと気にしていないよ!BUMPはBUMPだよ!」とか清濁を呑んで叫べれば、きっと今よりも楽になれると思った。

でも、それはどうしてもできない。できないままで、数ヶ月経ってしまった。年の瀬になって少し時間ができたから、自分の中で何が「違う」のか、ちゃんと文字にしておこうと思う。


さて、BUMPのファンというのは、自他共に認めるほどに重い。

本当に、重い人が多い。そういう印象だ。他所様からはBUMPは信者が多いと言われるのも納得で、本当にライブの合間に「ありがとうー!」という叫び声が響く。隣の席の女の子が感極まって泣く。余談ではあるけれど、私はそれが案外嫌いじゃない。

多くのファンが、BUMPの楽曲に寄り添ってもらいながら、人生を歩いてきた。私だってそうだ。

BUMPは世代なので、長い間慣れ親しんできたし、休止期間が終わってからはライブにも行っているし、ちょこちょこ日常生活で助けられながら生きてきたけれど、一番救われたと感じた大切な記憶はつい最近になる。

仕事で酷く傷ついて、痛めつけられて、どうしようもない現実と理想の差に心が折れた後、2年間家に引きこもって、世界から膜一枚隔たような鈍い感情の中で生きていた時に、BUMPのライブDVDを見た瞬間に、突然突っ伏して泣き出した。本当に、突然、2年ぶりに感情が動いた。

あの日のことを、私は今でも忘れられない。大切な大切な宝物のような記憶だ。

多かれ少なかれ、BUMPのファンはBUMPの楽曲に救われていると思う。

きっと世間から言えば、私たちは無駄に傷つきやすい弱い人なのだろうと思う。何もないことで勝手にダメージを負って、自分の中で消化するのにも時間がかかって、些細なことが気になって、どうでもいいと流せない。馬力もないし、生きるために元気を使ってるから、それ以上はすごく疲れちゃう。

きっと私たちは、他と比べて柔らかくて脆い。

だから私たちはBUMPのファンに成り得た。些細な接触で再起不能の傷を負ってしまうような私たちに、BUMPは優しく寄り添ってくれた。BUMPは、藤くんは、そんな私たちを否定も肯定もせず、ただ自分たちはここにいるからと、歌い続けてくれた。

藤くんの結婚が発表された時、私は本当にとても嬉しかった。

きっと他のファンのみんなもそうだと思う。本当に、自分のことのように嬉しかった。

あんな風に歌っていた藤くんが、あんな風にこの世界の裏側の片隅の、物陰のすみっこを歌っていた藤くんが、大切にして大切にされながら一緒に生きていきたいと思える誰かと手を繋げただなんて、それはとても、こんなに辛い世界で生きていく私に与えられた何よりの希望だと思えた。

藤くんが結婚した。それだけで、この世界には希望があるのだと信じられた。

BUMPというのは、私にとって希望で、祈りである。

この広い世界に、こんな風に歌う人がいる。私がまだ知らない優しい誰かが、きっとこの世界に生きていて、私がまだ知らない柔らかくて脆い誰かの手を握っているかもしれない。世界には優しさと穏やかさが存在する。それを私は、BUMP OF CHICKENというバンドを通して、絶対的に信じることができる。

BUMPに救われた記憶も、BUMPという存在も、彼らが歌う楽曲も、その全てが私にとっては変え難い、きらきら光る綺麗で素敵なものだった。

それに、不意に傷がついた。

今回の不倫騒動というのは、言うなればそういう感じに近い。

ひとつ先に言っておかないといけないのは、私は「アーティストのプライベートは楽曲の評価に影響しない」という意見に対して、肯定的であるということだ。今回のことで言えば、チャマが不倫をしていたからと言って、BUMPというバンドの楽曲価値は下がらないし、好きだった歌をいきなり嫌いになることはないし、助けてもらったたくさんのキラキラとした記憶と感謝は、間違いなく存在し続ける。

そのうえで、私の希望と救いには、何かドロっとしたものが紛れ込んだ。

倫理的に、私は不倫行為を是とはできない。それをする人も、好きにはなれないし、ダメだと思う。だから、チャマの不倫行為を「気にしてないよ」とは到底言えないのだ。気にする。でも先述した通り、私は別に気にする立場にない。

そもそも、BUMPの核って藤くんだろう、という気もする。チャマはBUMPの一人だけれど、チャマがBUMPではなくないだろうか?失礼ながら、そんな気もする。

でもどれだけ切り分けて整理をしても、もう二度と不倫騒動を知らなかった頃には戻れない。

すごく身勝手な話で、すごく自己的な話だけれど、BUMPの曲を聞いていると、どうしても脳裏に「チャマの不倫」がよぎってしまう。心を真っ新にして、拠り所である曲に縋りながら、希望と祈りを心に満たしたい時に、どうしてもそこにチャマのことが紛れ込んでくる。

私の好きなバンドのメンバーは、倫理的に悪とされることをして、謝罪をした。

幸せなはずの物の中に、そんな負の感情が紛れ込んでくる。

それはとても苦しかった。大好きな人が、物が、グループが、良くないことをするのはつらい。それは、今までそれを好きだった私まで否定されたような気になるから。私の好きなものは、高潔で、清廉潔白だと思っていた。それが違った。それは私自身の価値観を否定されたように感じてしまう。

些細なことで無駄に傷ついて、柔らかくて脆くてすぐに腐る私は、「こちら」だと思っていたBUMPのメンバーである一人が「あちら」であったことに傷ついた。

それはいってみれば、確かにチャマの言う通り「期待を裏切った」という言葉になるのかもしれない。でも、やっぱり違う。

私は別に、期待を裏切られたから悲しみ、傷ついているのではない。

私の大切にしていたものを、チャマが汚した。それ以上でも、それ以下でもなく、しかもこれは私が勝手に大切にしていて、勝手に汚された気分になっているだけで、別にチャマに責任はない。

BUMPが好きだという気持ちは消えない。救われたのも本当だし、今もまだ救われ続けている。素晴らしいバンドだという評価も、私の中ではまだ覆らない。それでも、音楽を聞くたびに同時に不倫の話が思い出される。くっつき虫みたいにひっついてきて、ノイズのように邪魔をする。

「嫌いになりました。」とも言えない。

「気にしてないよ。」とも言えない。

ただ「私はやっぱりBUMPが好きだな。」と思うたびに、私の中の倫理観と正義感が、BUMPを好きだと思った私を責め立てる。幸せな気持ちを、幸せなままにしてくれない。

それで、どうしようもなくなってきたので、私は最近ひとつ決断をした。

2020年を締めるにあたって、私は今回のことを許すことにした。

それはチャマを、とかBUMPを、とかといった傲慢な話ではない。

そもそも私は赤の他人で、全くの無関係で、一介のファンであるからして、好きならファンで居続ければいいし、嫌いになれば離れればよくて、誰かを許すだとか許さないだとか、何かを裁くような分不相応な権利は与えられていない。

だから私が許せるのは、私自身だけだ。

私は、BUMPを好きで居続ける自分を許そうと思う。

これを考え始めた時に、答えに辿り着いたら二度とライブには行けないと思っていた。だって、絶対に、無心で楽しめたあの頃には戻れないから。ステージにいるチャマを見るたびに、きっと私はこのことを思い出す。思い出して、嫌な気持ちになる。

でも、三日かけてこの記事を書いて、今は少しだけ違うことを考えている。

今までのスタンスと変わらずBUMPのファンであり続ける。そうしたい自分を、私は許そうと思う。きっと度々、嫌な気持ちになる。チャマが不倫をしていてリークされたという事実を絶対に気にする。でも嫌いにはなれなかったし、曲を聞いて「素敵だな」と思うこともやめられない。

ライブがあるならライブにもいきたい。その時に、きっと、絶対、複雑な気持ちになると思うけれど、それでもそう思いながら今まで通りでいても良いことにする。

さて、2020年もじきに終わる。この場に長々と懺悔を書き留めて、来年に向かおうと思う。きっともう、見に戻ってくることはない。

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