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先生ーッ!先生のお考えを聞かせてください!

はじめに


こちらのnoteは、梅津瑞樹さんと橋本祥平さんによる演劇ユニット、言式の旗揚げ公演『解なし』の感想をただひたすらに書き綴ったものです。
オムニバス形式のお話1編1編の感想のあと、物語全体を通して見たわたしなりの解釈を綴っています。冗長な文章になってしまいましたが、読んでいただけますと幸いです。

『解なし』という、様々な角度から感情を揺さぶってきて、噛めば噛むほどうま味が増すような作品と出会えたこと。そしてきっとこれからも、言式のお二人のご活躍を見守っていけることの喜びと感謝を込めて書きました。

SYNOPSIS.1 『一生を添い遂げる男と女』

序盤から圧倒的な実力でぶん殴られた。
「あ」の一言だけで人の人生って表現できるもんなんですか?!?!?!
2人とも、お互いに何か特別なアクションを起こす時には必ずちょっと悪戯っぽい表情を浮かべていたりして、表情だけでも伝わる情報の多いこと多いこと。
コミュニケーションの成立において言語情報が占める割合は7%とかいう法則を思い出した。まさか舞台でそれを分からせられるとは思いもよらなかったけれど…。
もう世界の共通言語「あ」で良くない?
ゆりかごから墓場まで十分だよ。(ただし類稀なる表現力を必要とされる)

同じ人が地続きの時間の中で発してるとは思えないくらい、2人の時間が交わって、不審者から恋人になって、家族になって、最期までずっと寄り添って…っていう人生のステージが明確に変化していくのが、表情と声の調子だけで表されたのが衝撃だった。
床に脱ぎ散らかされてる洗濯物(梅津さんボトムス3枚脱いでなかった?下にどんだけ履いてんの?)はずっと同じ場所にあったし、緊張で震える手で持っているリングの幅は一切ぶれなかったり、視線の動きで赤ちゃんが取り上げられたのが見えたり、そこに物質としては存在しないものが確かに見えた。これが役者さんのチカラか。これが“表現”か…。と感銘を受けました。

ちなみに、わたしの好きなポイントはケーキを箱ごと食う猟奇的な祥子ちゃん(勝手に命名)です。それを怒ることなく見守る男も、公演によっては食い荒らされた箱からちょっと摘んでたりして、2人のそういう気安い、飾らない空気感が表れているあのシーンがあったかくてすごく好きです。

このお話、わたしはてっきり「あ」以外の言葉がない世界線でのお話だと思っていたんですけど、よくよく考えたらお医者さん普通に話してますよね。
何らかの事情により“普通に話す”のとは違ったコミュニケーション手段を持つ1人と1人の人間が、お互いのコミュニケーション手段を唯一理解し合える2人として歩んでいくお話だったりしますか?
本当にお互いがお互いの唯一の人として出会い、一生を添い遂げたお話だとしたら、彼女を喪った彼の喪失感がまた一層重みを帯びてくる。

あの最後の絶望は視覚にも大胆に迫ってきて、ある程度の重みを持つ紙が降っては落ちる音が聴覚にも訴えかけてきて、大切な人を亡くして、世界の色も音も全てが濁っていってしまう様が見えた。
あの後、女が傘をさして迎えに来るまでの間にどれくらいの時間が流れたのかは分からない。けれど、その最期の時まで変われないまま、彼の人生にはずっと土砂降りの雨が降っていたのだと思うと胸が締め付けられますね。

ところで、「文字が降ってくる」という言葉を文学的な表現でも何でもなくマジのガチの現象として体験できることってそうそうないんじゃ無かろうか。
あの演出考えた人天才じゃない?誰が考えたの?梅津瑞樹(敬称略)か!!
わたしたちの推し天才だな!!!

SYNOPSIS.2『都会にやられて帰ってきた男と久しぶりに会った幼馴染』

そろりそろりと逃げていった祥ちゃんに動じることなく、楽しげなまんま連れ戻した挙句どんなに暴れてもガッチリ掴んで離さず話し続けるササキ、そういう妖怪みたいで超怖かった。可愛げな声のまんま急にキレるし。シバいた木に秒で撫でさすりながら謝るし。彼の情緒がとても心配。
どれだけ祥ちゃんが引っ張っても全くブレない体幹も人間離れして見えて余計に怖かった。オマエほんと木のセンスあるよ!!!
なんだか、幼稚園児くらいの時に見た悪夢を思い出した。ああいうニコニコしてる割に不気味な存在、みんな一度は夢に見ませんか?

でもあの無邪気で年齢不相応な程に幼い雰囲気がなんだか可愛くって憎めない、と思いきや言うてる言葉の節々が重くて病んでてやっぱり怖かった。
バナナムシが狂気を和らげる救世主(?)

ササキが木の皮を脱ぐところ、見れば見るほど蝉の羽化ですね…
祥ちゃんが大人になる過程で子供の頃の思い出を脱ぎ捨てて忘れてしまったから、それを思い出させるために蝉の抜け殻(比喩)を着せた挙句「忘れ物だよ」とバケツ一杯の蝉の抜け殻(ガチ)を一つ一つ付けていく様はいよいよ真夏の夜にふさわしい怪談話のようだった。
忘れないようにっていつかの祥ちゃんがやった通りにビッシリ付けてくんだもん怖いよォ…。

ところで、可愛く変化したように見えたナナちゃんが「見せたいもの」は結局バナナムシだったオチ面白すぎない?アンタもササキ側なんかい!!

このお話は、変化を求めたものの変われなかった男と、変化を恐れて過去にしがみついている男と、見た目は変わったけど中身は変化していない女が居て「なーんだ、結局みんな一緒なんじゃん♪」って妙な安心感というか、肩の力が抜けた感じがあったな。

SYNOPSIS.3 お金持ちのみっきーと貧乏な友人

このお話も大好きなんですけれど、一番衝撃的だったのは古墳クイズだった。
「庭の下から何がでてきたでしょーかっ!」で突如始まったクイズ、「ヒント!」と珍妙なポーズをとって何故かキメ顔をする男。それを真剣に見守って真面目に答えを考える友人、良い奴すぎる。
そんなポーズで何を表してるかなんて分かるわけあるか!と最初は思ってしまったのだけど、「正解は古墳でした!」と明かされた瞬間「あぁ~…!なるほど…!」って納得できちゃう絶妙なラインがまた面白い。なにそのセンス。ジェスチャーゲームの世界チャンピオンだったりしますか?
あのキメ顔の意味だけはずっと分からないままだけれど。
何だろう、文化遺産としての誇りの表れ?

1回目の観劇では、わたしはただただ2人の掛け合いが面白くて笑ってしまうばっかりで、みっきーが本当に欲しかったものとか、「”本物”とは」みたいなところに関しては「ふぅん」って感じでかなりライトにこのお話を流してしまっていた。ただ、鯉を釣り上げてビチビチやってたみっきーが、友人の「俺は本物しか要らねぇんだよ!」って叫びを聞いた瞬間脱力したように両手を降ろす仕草に少しの違和感を覚えただけだった。
けれど、何度か配信を観るうち、このお話はわたしの中で少しずつ大きな割合を占めていくようになった。

SYNOPSIS.4 食品工場の男たち

たんぽぽブームの生みの親。
あの癖になる「ぽぽ」の用法のせいで、ちょっとした語尾やら何かしらの単位やらに「ぽぽ」を付けたくなっちゃって困った人は多いのではないだろうか。
きっとわたしだけじゃない、はず!そうぽぽね?!みんなでSAY「ぽぽ」!!
もはやたんぽぽの呪いである。

たんぽぽに思考を乗っ取られてしまう危機と闘いながら、なんとかまとめた感想は以下の通り。

たんぽぽの正体が菊だと教えられてやる気喪失しちゃった男がフリーダムに嘆きながら静止する図と、そのしわ寄せを食らって反復横跳びみたいなスピード感でたんぽぽを乗せまくる男の動きのやかましさ。あの静と動の対比、とても美しくて好きです。爆笑しました。

工場が閉鎖する、その後のことに思いを馳せて工場長が溢した「なんにもなくなっちゃうなぁ…おれ」って言葉。最初は重く見せまいと繕うような声色だったのに、しんみりした声色を隠せなくなってるのが切なかった。バイト君早くたんぽぽ農家で月なんぽぽも儲けて!!工場を救って!!おじさんを救ってあげて!!あぁでもこれを機に娘さんに胸張って言えるお仕事に就けるほうがいいか!!やっぱりたんぽぽ農家とかどうかな!?「パパ、お花育ててるの?すごぉ~い!」って幼女の声が容易に想像できたよ!みんなでこの空前のたんぽぽインフレの波に乗るぽぽ~!!

ちなみに、アルバイター梅津くんが工場長のおこレベルを「87ぽぽ」と表わした後、アルバイター橋本くんが「89ぽぽ」と言っていたことに初見では気づくことができませんでした。ほんの2ぽぽの違い。数字にすこぶる弱いわたしにとっては誤差だった。無念。

SYNOPSIS.5 役者と演出家

いや、もう…このお話は、もう…。思い出すだけで苦しい。
鬼みたいに厳しい演出家に「ヒェ~!!」なんて呑気に思ってられるのも最初だけだった。そのあとの演出家の動線、あまりにも型破りで度肝を抜かれました。どうしてそこを通ろうと思った?!?!ドドド客席ぞ?!?!

演出家梅津さん、動きもそうだけどめちゃくちゃ発言も自由やん。
役者橋本さんの言葉全然聞いてないし構わず遮るやん。
と思っていたわたしが愚かでした。
聞いていないのではなく聞こえていなかったのですね。
橋本さんはご自身が亡くなった自覚がないまま劇場でお芝居を続けていた地縛霊だったのですね。
もう感情も思考もぐちゃぐちゃだった。

梅津さんが台詞とは異なる、実際に祥ちゃんに言われた言葉を諳んじて、それを聞いた橋本さんの様子がおかしくなっていって、そして劇場が取り壊される現実の音と同時に全てを思い出したあの瞬間、息をするのも忘れて舞台に見入ってしまった。
そこからは演出家梅津さんに必死で食らいつく役者橋本さんではなくて、大切な友人を喪って悲嘆に暮れるみっきーにそっと寄り添い励ます友人の祥ちゃんで。
「俺が中にいるの分かってて始めたってことは、もう全部おしまいなんだな」
ってその”全部”ってもしかして、梅津さんの人生とか命とかそういうのもまるっと入ってます…?とドキドキハラハラ見守っていたら、橋本さんがちゃんと「お前はまだ終わりなんかじゃねぇよ!」「お前まだ生きてんだから」
って掬い上げてて泣いてしまった。そうだよね、まだ終わりじゃないよね。変わらないものなんてないものね。

まるで祥ちゃんの言葉が、必死の激励が伝わったみたいに、祥ちゃんに合わせて「どぉん!」ってジャンプを始めたみっきーの、いやほんとは祥ちゃんに合わせたんじゃなくて劇場を取り壊す音に対抗する気持ちだったのかもしれないけれどあの瞬間二人の気持ちはシンクロしてたと思うの!わたしは!
しっかり立ち上がったみっきーと祥ちゃんの動きが次第にシンクロして、タイミングも位置も完全にピッタリ合わさったあの瞬間に劇場が取り壊された、あの演出がわたしの中で末代まで語り継ぎたい伝説になっている。
まさか壁までどぉん!って倒れてくるとは思わなかった。
大迫力の演出。大迫力なのに風圧で舞う諸々が儚くて綺麗で、なんて美しい絵なんだろうと見惚れてしまった。実際配信では何回もその瞬間を繰り返して再生した。あの瞬間を切り取った舞台写真とか欲しい。

初見時はただただ、「橋本さん、一歩でも間違えたら大惨事になるやん?!梅津さんもめっちゃ怖い場所におるやん?!えぇ?!どえらいことしはりますなぁ!!」とスリルある演出に恐れ慄くばかりだった。
けれど配信を何回も観返すうち、わたしなりに意味を見出してしまった。

倒壊する建物の内側にいる橋本さん。外側にいる梅津さん。
明確に死者と生者の境界線が引かれている。
壊れた劇場の外で静かに佇む梅津さんに、「大丈夫だよ」って言うみたいな笑顔を向けて橋本さんは消えてしまった。
梅津さんは再び、本来は橋本さんが演じるはずだった役を演じ始めた。

こんな意味深ビューティフォーな演出思いついた人、天才じゃない?!
誰が考えたの?梅津瑞樹(敬称略)か!!わたしたちの以下略。

けだま流解釈まとめ

つまり、つまりこのお話は、大親友の舞台仲間祥ちゃんによって演出家ソウルに火を着けられたみっきーが、祥ちゃんのお芝居を観たくて祥ちゃんのためだけに書いた一人芝居用の脚本だったってワケですか?!?!
なのに祥ちゃんがみっきーを置いて逝っちまったもんだから、仕方なしにみっきーが自分で演じてみるんだけれどもやっぱり違って、頭の中には自分が思い描いていた祥ちゃんのお芝居があるから”本物”にはなれなくて、それで「違う」「もう一回」って繰り返してたの?!
それに気づかずに地縛霊祥ちゃんがみっきーのお芝居に合わせてたとかそういう感じだったりするんですか?!工場長の2ぽぽの違いもそういう関係で生まれた?!

また、そもそもこの脚本は、祥ちゃんの死後に書かれたものだったりしたのかな、とも考えた。
SYNOPSIS.5の最初に地縛霊橋本さんが舞台上で言っていた台詞こそが、橋本さんの一人芝居のために書かれた脚本で、それを梅津さんが代わりに演じてみるものの「違う」「全部違う」ってなっていたのかもしれない。

わたしたちが一番最初に観た『一生を添い遂げる男と女』は、実は橋本さんの死後にそのまんま祥ちゃんとみっきーを描いたもので、舞台仲間として一生一緒にやっていくつもりだったのに、一人芝居を打てるほどには役者として演出家として成熟したタイミングで相棒に先立たれてしまって、梅津さんはそこからずっと前に進めなくて、相棒が迎えに来てくれるのを心待ちにしていたのではないかと。

相棒との死別をきっかけに、2人の思い出をたどるような脚本を書きおろしたのではないか…?
だから舞台にはずっと2人の人間が必要で、一人芝居にしてはもう1人分の情報量があまりにも多い内容だったのか?
『一生を添い遂げる男と女』も、『都会にやられて帰ってきた男と久しぶりに会った幼馴染』も、置いて行かれて変われないままなのはいつだって梅津さんだった。
ただ脚本と違うのは、相棒はあの「女」のようにおとなしく迎えに来てくれたりなんかはしなくて、「ほら立て!!」って1人でも前を向いて歩いていけるように喝を入れてくれたところ。
取り壊し作業が始まった大切な場所で何度も何度も演じては違う、これじゃないってなってた梅津さんだけど、あのシンクロした「どぉん!」で漸く、ずっと受け入れられなかった「祥ちゃんを亡くしたみっきー」という自分に変化することができた。その表れがあの、一歩一歩を堂々と踏みしめる「女」の演技なのかもしれない。
でもみっきーが寿命を全うしたときにはきっと、ちゃんと迎えに来てくれたりするんだろうな。
などと妄想を大爆発させてみたりもした。

しかしどれだけ考えてもこの物語に解はなく、真相は梅津大先生のみぞ知る。
そしてこのnoteのタイトルに行きつくわけである。

この舞台を観た後は、もういいかってお二人が引っ込んでも、これでもかってくらい拍手を送りたくなった。

追記
ところでこの作品、円盤化されないって本当の本当に本当なんですか?
時間が経って、それでもなおわたしたちの記憶に色濃く残ってこそ、この『解なし』という作品が”本物”として完成するとかいう、そういう意図ですか?既に替えが利かない宝物なんですけれど!!!
それはそれ、これはこれ、よそはよそ、うちはうちで円盤化してもらえませんか?
なんなら我々は手元で観れなくてもいいので、せめて梅津大先生のお手元には長く残るデータとして届けて差し上げてくれませんか?
これは空前の『解なし』不足の到来ぽぽ!!円盤出したら一体月なんぽぽのの稼ぎになるやら!!!黒字になるように懐ふり絞ってみせるからお願いぽぽ~~~~!!!!


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