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Ligths for Gaza
※こちらの文章は、2023年11月5日に公開した以下の記事の、再掲です。
https://www.tumblr.com/itokawa-noe/733144699020427264/ligths-for-gaza?source=share
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昨日、パレスチナにゆかりのある方々の呼びかけで行われた「Ligths for Gaza」に参加しました。
一日経ち、感じたことを少しずつ言語化できるようになってきたので、あの時間の静けさを自分の言葉によって損なってしまわないか、恐れながら書きました。
パレスチナを自分とは縁遠く感じつつも、日々もたらされる報せに心を痛めている方、良かったら読んでください。
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11月4日の晩、広尾のパレスチナ大使館前に人だかりができました。「Ligths for Gaza」ーーろうそくに灯をともし、ガザ地区における虐殺で命を落とした犠牲者を悼みましょう、という呼びかけに応じて、国籍や年齢を越えた人々が集まったのです。
翌日の報道によると100名ほどとされるその人数に対して、場の空気は静かなものでした。周囲のゆらぎから(ざわつき、息を詰める気配、鼻を啜る音、肩のこわばり……)おそらくさまざまな感情がうごめいているのであろうことが感じとれましたが、集い自体は荒々しさや激しさとは無縁の、穏やかさに覆われていました。
おのおのがろうそくと花を捧げ、胸の内で亡くなった方たちを悼む時間をもった後、パレスチナ出身の方、今もなお家族や友人知人がガザにいる方の声に、耳を傾けました。
語りのなかでもたらされた「情報」は、私が本や講演から得てきた内容と重なるものばかりでした。でも、当事者の口から直に伝えられるそれは、重さが、深さが、まるで違った。
足りなかったのはこれだと、思い知りました。
私が、国際社会が、もっと早くかれらの語りを聴こうとしていたならば、こんなことにはなっていなかった。
少し前に、エジプトのジャーナリストがCNNのリポーターを糾弾する動画を見ました。彼女の口にした「あなたたちはナラティブを独占してきた」という言葉が、おのずと思い出されます。
ハリウッド映画では、ホロコーストの先で起きたことが描かれない。そのナラティブに無自覚に浸りきった私も、同じ罪を負っている。
私はこれまで生きてきたなかで、アジア・オセアニア・ヨーロッパ・北米・南米・アフリカにルーツをもつ人たちに出会ってきました。ですが、中東出身の人と知りあうことは、一度もなかった。そのせいもあって遠く感じられる彼の地の人たちのことを、なぜ交わる機会がないのかを考えることもなく、ろくに知ろうともしないまま「自分とは縁遠い人たち」と見做してきた。のみならず、雑に括った「中東」を、宗教問題が複雑で理解が難しい地、戦火が絶えずテロリストを多く産む地、などという差別に他ならない認識をもって自ら遠ざけようとするふしすらあったことを、深く恥じながら、打ち明けなければなりません。
なによりもまず自身の無知と無関心を、顧みなければならない。
ですが、それだけでは不十分です。
自ら選び取ったと思いこんでいる価値観の多くは、その実、環境や構造から影響を受けている。
どうして「中東」は、なかでもパレスチナは、こんなにも自分から遠いのか。積極的に目を向けなければ視界に入ってこないのか。視界に入れずとも生きてゆけるようになっているのか。その原因を突きとめ、抗う必要があります。
この「原因の所在」については、ここに書ききれることではないので、信頼できると判断した本のリストを紹介するに留めます。
私も現在、リストの本を読み進めているところです。何冊か読んだなかで最も読みやすく、またパレスチナに生きる人たちの顔が見えると感じたのが、岡真理さんの『ガザに地下鉄が走る日』でした。
本を読むのが難しければ、下記の講演を聞いてください。それだけでも、パレスチナを批判する文脈で飛び交う「『テロリスト』を擁護するのか」というフレーズの暴力性がわかるはずです。
パレスチナ大使館もまた、パレスチナを知ろうとする人に向けて、いつでも開かれているそうです。外務省のサイトに掲載されているこちらが、大使館の現在の所在地です。Google mapで検索すると旧所在地が出てくることがあります。ご注意ください。
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前述の「Ligths for Gaza」にて、参加者にA3サイズの紙が一枚ずつ配られました。“We are not numbers”という言葉とともに、虐殺された方の写真と名前が印刷されたものです。
私に手渡された紙のうえでは、鮮やかな水色のジャンパーとピンク色のスカート、それからスカートとおそろいの色の髪飾りをつけた三歳ぐらいの子どもが、なにか愉しいことでもたくらむような悪戯っぽい表情で、こちらを見ていました。
集いのあいだじゅう胸の前に掲げていたその紙を、帰路につく際、どう扱うべきかがわかりませんでした。折りたたんでカバンに仕舞うのも、筒状に丸めて手に持つのも、広げたまま掲げて歩くのも、違うと思った。
結局たたんで持ち帰った後も、どうすれば良いのかがわからずにいます。
ただの紙ではない、確かに生きていたひとの気配を宿したこの重さを、どうすれば良いのか。
わからないまま、殺された人数を数字として見る際に、なるべくこの重さを思い出そうと、それだけは決めました。苦しいし、難しい。けれど、必要なことです。
ご自身が苦しみのなかにありながら集いを企画してくださった皆様に、なんと申し上げたらよいのか……いまだに言葉がみつかりません。今はただ、場を設けてくださったことに対して感謝しています、とだけお伝えしたいです。
引きつづき学びながら、当事者の声を聞くことができる場に、また足を運びます。
一刻も早い攻撃の停止を、停戦を。
その後にパレスチナの解放を。
心より願っています。
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