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たべものや、食べるを考えてみる

さてさて。ひとりのお客さまがご来店されました。店内のご利用を考えているようです。並んだおかずを端から端まで、じいと眺めています。

ここは「たべものや」です。

ドアを開くと、まず目に飛び込んでくる大きな平台。その上にたくさんのおかずが並んでいます。お客さまはその日の気分に合わせておかずを選び、家に持って帰ることも、定食としてその場で食べることもできます。おかずは数日ごとにガラリと変わるので、来なれている人であっても迷う時はなかなか決まらないのです。

お客さまはまだ悩んでいます。眉間の皺が深まりつつも、どこか嬉しそうに見えます。これはどうしたことでしょう。目は間違いなくおかずを捕えているのに、頭に浮かんでいるのは全く違うシーンなのかも…。想像するにそれは、すこしだけ前の過去なのかもしれません。

昨日なに食べたっけ?
とか
運動したから今日はご褒美だ。
とか
これ昔お母さんがつくってくれたなあ。
とか。

これらの些細な記憶は、日々の生活のなかではまず思い出さない類のものでしょう。変な言い方をすれば、情報過多な現代にあって価値があまりない、もしくは思い出す優先順位の低い記憶と言えるかもしれません。

だって、それどころじゃないんだから。毎日忙しすぎるんだから。自分の利益に直接結びつかないそんな情報に、アクセスしてる暇なんかあるもんですか!

そう。無駄なんです。日々の生活に影響するかどうかという尺度で見たら…。でも、そんな記憶の欠片が意識にのぼってきた時、人は生きるのに不可欠なきっかけをもらえている気もするのです。

すこし先の未来だけを見つめて、つんのめるように走っていたけど、突然浮かんできた過去の記憶に腕を引っ張られて、「あ、そうか。ちょっと止まろう。いま私、こんな気持ちだったんだな」と改めて確認するみたいな。

食べるという行為はそもそも、今という時間の中にしかありません。外の世界から何かを体の中に取り入れる、その瞬間は過去にも未来にも託すことはできないからです。

しかも食べるタイミングはなかば強制的です。生物として定期的に栄養を摂ることは必須。だから私たちは空腹というサインを一日のうちに何度か感じますし、そのたびに過去でも未来でもなく、今と向き合わざるを得ないのです。

喫茶去、という禅の言葉を聞いたことがあります。いろいろあるかもしれないけど、まずお茶でもどうぞ。その温みや味を感じている今だけが本当で、それ以外の過去も未来も幻にすぎない。そんな意味合いだったように思います。

不思議ですね。食べた栄養は未来の自分をつくるものですが、今の自分を労わる心の栄養は過去からやってくるのかもしれません。その真ん中である今をただ慈しみなさいと禅師は言うのでしょう。

あ、申し遅れました。私はこの「たべものや」の店主です。

妻と一緒に店を開き、スタッフに支えられながら一歩一歩、気がつけば、はや10年が経とうしています。日々作っているおかずが、お客さまの今を労われていれば嬉しいですが、なかなかそう簡単にはいきません。でも、今に立ち返る瞬間をご一緒できているなら、今日も頑張って良かったなあと思えます。


これから、このnoteという場所で、毎日お店に立ちながら考えることを綴っていけたらと思います。ペースも月に一度あれば良いかなというくらいゆっくりで。お付き合いいただければ幸いです。またお会いできる日を、心より楽しみにしています。

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