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3000本安打を見届けるロードムービー:日本未公開野球映画を観る(11)

Chasing 3000(2010)

LAからピッツバーグへの大陸横断

 ロベルト・クレメンテの生涯安打は3000本。1972年のシーズン最終盤に3000本目を打ち、その年の大晦日に飛行機事故で還らぬ人になったことはアメリカ野球史上最大の悲劇のひとつである。
 ピッツバーグで母と暮らす高校生ミッキーと、筋ジストロフィー症で車椅子に乗るロジャーの兄弟は熱狂的なパイレーツ・ファンだが、弟の療養のため72年シーズン途中に気候の良いロサンゼルスに引っ越す。しかしミッキーはLAに馴染めず、仲の良い祖父のいるピッツバーグに戻ってパイレーツの試合に行きたくてたまらない。シーズン終盤、3000本へのカウントダウンが始まると、母がサンフランシスコに出張した隙に二人は母の車でピッツバーグをめざす。
 大陸横断の道中、ロジャーの薬を忘れてきたり、車と車椅子とお金を失ったり、飛び乗った貨物列車の行き先が違っていたり、母が飛行機で追いかけてくるといった障害に遭いながらも、様々な人の助けもあってピッツバーグ郊外までたどり着くが、ロジャーの気管支炎が悪化して入院。球場行きを断念して病室のテレビで歴史的瞬間を見たと思いきや、この内野安打はエラーと訂正され、達成は翌日に持ち越される。そして9月30日、チケットを持って病院に迎えに来た祖父と球場に行った兄弟は3000本をこの目で見届ける。

 補足すると、9月28日のフィラデルフィアでの第2打席で2999本目を打ったクレメンテは、ホームで達成するために途中交代した。そして翌々日(30日)の第2打席の2塁打で達成したわけだが、次の打席で代打が出て退いている。また本作ではこの試合がシーズン最終戦とされているが、実際にはあと3試合ホームゲームがあり、クレメンテは最終戦の前の試合(10月2日)の9回に守備に就いた以外は欠場した。地区優勝したパイレーツはこの後レッズとのプレーオフに進み、2勝3敗で敗れたのが彼の生涯最後のプレーとなった。

数少ない「野球ロードムービー」

 ストーリーは、大人になったミッキーが2人の子どもとピッツバーグでの「ロベルト・クレメンテ・デー」の試合に向かう車中での回想として語られるが、大人のミッキーは『フィールド・オブ・ドリームス』(1989)のシューレス・ジョー・ジャクソン役のレイ・リオッタが演じている。
 ロードムービーはたいてい面白いもので、それが野球映画となるとつまらないわけはない。にもかかわらず「野球ロードムービー」と呼べる作品は少ないが、本作以外では『ウィニング・ボール』(Cooperstown:1993)というテレビ映画の佳作がある。殿堂の投票で落選が続いた元投手の老人が「勝手に殿堂入り」を果たすべく、ティーンエイジャーの男女とクーパースタウンをめざすというストーリー。

アメリカ野球におけるクレメンテとロビンソンの存在

 本作を観ると、アメリカ野球におけるクレメンテの存在の大きさ、特別さをあらためて感じる。それはジャッキー・ロビンソンと双璧を成すと言っていいだろう。彼の成し遂げたことについて、以前書いた原稿を載せておく。

ロベルト・クレメンテとその親友
(「アメリカ野球雑学概論」第203回、『週刊ベースボール』2006年11月6日号)

 今年のロベルト・クレメンテ賞の受賞者がワールド・シリーズ第3戦の前に発表された。メジャー・リーガーの社会貢献に対して贈られるこの賞は、MVPやサイ・ヤング賞に匹敵する名誉とも言われる。
 賞の選考は、まずメジャー30球団から1人ずつ地域受賞者が決まり、この30人の中から、クレメンテ夫人やコミッショナーなどから成る選考委員会が全国受賞者を決定する。他の賞と違って本人に贈られるのは記念のトロフィーのみで、賞金は受賞者が関わっている社会事業に寄付金として贈られる(地域受賞者は2500ドル、全国受賞者は25000ドル)。
 この賞に名前を残すロベルト・クレメンテは、言うまでもなくパイレーツ史上最高の、そしてラテンアメリカ出身のメジャー・リーガーの中で最高のスターだ。55年にデビューしてからちょうど3000本の安打を放ち、60年と71年のワールド・チャンピオンの原動力となったほか、首位打者を4回、ゴールド・グラブ賞を12回、リーグMVPに1回選ばれた。
 72年12月23日に起こったニカラグア大地震は6000人以上の死者を出したが、クレメンテは故郷プエルトリコで救援への協力の呼びかけなど精力的に動いた。しかし送られた食料や薬品などの救援物資が、政府の腐敗により正しく被災者に届いていないという情報があり、自分の目で確かめる必要があると考えた彼は、31日夜に首都サンファンから貨物機に同乗して現地に向け飛び立った。しかし貨物機は離陸後間もなく沖合に墜落した。出発が大幅に遅れており、機体にトラブルがあったと言われる。非業の死を遂げた彼は翌年特例で殿堂入りし、MLB機構が71年に制定していた人道賞(第1回受賞者はウィリー・メイズ)はロベルト・クレメンテ賞と改称されたのだ。
 ところで、年が明けて行われたクレメンテの葬儀にパイレーツのチームメイトや関係者が駆けつけたのは言うまでもないが、チームで彼と最も親しかった選手は参列しなかった。それは捕手のマニー・サンギーエンで、サンファンの海に潜って最後まで遺体の捜索にあたっていたのだ(ついに遺体は発見されなかった)。
 パナマ生まれの陽気なサンギーエンは、10歳上のクレメンテを兄のように慕っており、真面目なタイプのクレメンテを冗談で笑わせることのできる唯一のチームメイトだった。彼は運命の日に、クレメンテとともにニカラグアに来るよう誘われていたが、車のキーが見つからずに空港に行けず同乗しなかったと言われており、悲報に接してのショックは察するに余りある。
 翌年の開幕戦は当然クレメンテの追悼試合となったが、このときサンギーエンは、クレメンテがずっと守ってきたライトのポジションを任され、逆転勝ちにも貢献した。もともと足が速く、外野手として野球を始めた彼は、メジャー生活の中でこの年だけライトを守ることになる。77年にアスレチックスにトレードされながら1年でパイレーツに呼び戻された後、79年には8年ぶりのワールド・シリーズ制覇に3人目の捕手として貢献し、80年限りで引退したが、そのとき通算安打数は、クレメンテのちょうど半分の1500本に達していた。

アスリートの社会的発言、社会貢献

 クレメンテとロビンソンの意義は、野球を通じて社会を良くする、変えることへの多大な貢献にあると言えるだろう。アメリカではこうした役割もスポーツ選手に期待されており、その象徴が彼らである。そして、実績を上げたスポーツ選手はこれらを担うことを多かれ少なかれ意識するし、社会もそれを期待する。こうした役割を果たしたアスリートが「真のヒーロー」と見なされるのだ。
 一方、日本でも優れたスポーツ選手はヒーローとされる。しかし、彼らはただ人々(国民)を喜ばせ、偶像として消費される限りにおいて賞賛されるに過ぎない。ひとたびそれを越えて、人々の意見が分かれるようなことについて発言したり行動しようとすると、途端に批判や反発が向けられる。大坂なおみの競技における実績への賞賛と、社会的、政治的発言への反発や忌避(まさに「掌を返したような」)は端的にそれを表している。
 アメリカのアスリートも消費の対象として期待されるし、彼らの社会的な貢献や発言のすべてが支持されるわけではなく、批判も浴びる。しかし、批判は活動や発言の「内容」に対して行われ、そもそもアスリートが社会的な発言などすべきでない、と言われがちな日本とは異なる。
 正確に言えば、日本では発言の「内容」への反発が、発言の「有無」に対する忠告という形で、つまり別次元で表明される。社会的発言などアスリートの役割ではないとか、そんなことに時間を費やすより競技に集中すべきだとかいう形で、内容については中立を装いながら、である。
 これが「すり替え」に他ならないのは、「あなたの意見には賛成だが、アスリートはそういう発言をすべきでない」という批判がほぼ皆無であることが証明している。いずれにせよ、このように忠告を装った批判が横行することで、アスリートの多くは、自分の領域以外のことには沈黙や無関心を保った方が賢明だ、あるいは保つべきだと考えるようになるのではないか。芸能人についても同様である。
 この背景には、アスリートをはじめ一芸に秀でた者はその道のこと以外知らないはずだとか、知らないべきである、とすら考える前提があるように思う。一芸に秀でるまでのプロセスを「道」と表現すること自体がこうした発想の表れだろうが、実際には他の領域のことも知りつつ一芸に秀でた者も数多くいるのに、そうした事実を見ないどころか、それを価値的にも否定してしまうのだ。
 おそらくは武道に由来し「野球道」とすら言われる「道」の発想。これはアスリートと彼らを見る私たちの両方を縛り、スポーツやアスリートが社会と関わる可能性を閉ざしてしまっている。しかし実際はアスリートも私たちも、たった一本の真っ直ぐの「道」ではなく、もっと大きく広がる「世界」を歩いているのだ。

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