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ラジオの話

いつも聴いているラジオがある。お笑い芸人がコンビで送る生放送ラジオ。つい先日、そのコンビが生放送のラジオで喧嘩をした。ネットニュースにもなったので調べればすぐ出てくるが、今回はコンビ名は記載しない。別にこの話はそのコンビとは関係がないので。
 私はその日もラジオを生放送で聴いていた。フリートーク終盤、イライラしてるなとは思った。明らかに腹に据えかねていることを相手に伝えており、一度話し始めると歯止めが効かなくなっていく感じ。相手にも相手で言い分があり、納得できていない雰囲気のまま話は進み、明らかに2人の間でまとまってはないがとりあえず無理やり話をまとめて終わらせたのはぼんやり聴いていても伝わってきた。とはいえ、エピソードとして成立していたし、対話の形は崩れていなかったので正直私は「こういうこと(エピソードで語られたトラブル)よくあるよね」としか思わなかった。
 まあ、ニコイチでやりつづける仕事だし腹に据えかねることなんてなんぼでもあるよね、くらい。むしろラジオだからこういう話できたんだろうな、話さないまま変に煮詰まらなくてよかったとすら思っていた。そういう生っぽさを楽しめるのもラジオの特権だと認識していたので、Xのハッシュタグを覗くとシリアスな感想が溢れていて「え、そんなヤバいやつだった???」と正直かなり動揺した。
 ちなみにこの話は翌週のお便りがガッツリ目に見える形で減り、コンビが謝罪するというオチがついた。

 正直、コンビの喧嘩はどうでもいい。どうでもよくはないが、私が動揺したのはどちらかというとファンの受け止め方の方だった。お便りがガッツリ減ったように、コンビ間の小競り合いが電波にのることが今はこんな風に受け止められるのかと新鮮でもあった。
 派手な喧嘩ではなかった。派手ではないからこそ身近な人間のトラブルを急に見せつけられるような感覚だったのかもしれないとも思う。ハッシュタグをつけてラジオの実況をする人は熱意あるファンの方が多いので、コンビ間のトラブルに敏感な人が多い、というのもあったのかもしれない。
 ただ、私は「ラジオってそういうもの」と思っていた。そんなに多くの芸人のラジオを聴いてきたわけではないし、実際に聴いているラジオで急に喧嘩し始めた瞬間を聴いたのは初めてだった。でも、ラジオというのは「そういうもの」も届くメディアなのだと認識していた。
 テレビほどよそ行きではない、ほんの少し素に近い表情を見せてくれる場所。メディアに出るためのフィルターをテレビよりは少し剥がした状態で向かい合って話してくれるからこそ、コミュニケーションの衝突も起きてしまう時がある。望ましくはないかもしれないが、それだけ「生」の部分で向き合ってくれているのだ、というちょっとしたボーナストラックのような感覚だった。だからネガティヴな反応に「そこまで?」と私は思ったのだ。
 同時にもうラジオは以前のように閉じられたメディアではないのだなとも再認識した。かつてはradikoなんてなくてタイムフリーもエリアフリーもなく、ラジオは閉じられた届きすぎないメディアだった。今はリアルタイムでなくても、(課金さえすれば)放送地域を跨いで聴けるメディアだ。更にはpodcastやYouTube等でアーカイブを残す番組も少なくなくて、その「届かなさ」のコアさを楽しむって感覚は少しずつ薄れている。それはラジオがコンテンツとしての完成度の高さを求められ不愉快なイレギュラーに対しての忌避感と隣り合わせなのかもしれない。
 ファンであればアーカイブとして過去の放送を聴けることはこの上なくありがたい。閉ざされたメディアではなくなっていることの恩恵を私自身も受けている。今更「狭い地域でリアルタイムでしか聴けない媒体に戻って欲しい」とは口が裂けても言えない。コンテンツが多くの人に聴かれ、長く楽しまれるものである方が絶対にいい。
ただ、ほんの少しだけ寂しかった。こういうラジオはこの先減っていくのかもしれない、それはこのコンビに限らず全体的な流れとして。喧嘩なんて人に聴かせるものではないのは、百も承知でやっぱり少し寂しいなと思ってしまう気持ちは残しておきたい。

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