飢餓の村で考えたこと 27.28

バシャトンさん

年齢は30歳位に見えた。彼女は非識字者で手工芸品の仕事を始めたころは日本人駐在員やショミティ役員になって全体の世話をしていた女性たちを全然信用していなかった。的外れな不信感むき出しの言動でいつもショミティ会議の雰囲気を乱していた。

私は彼女が作ったジュートマットを納品前に見てあげて返品数を少しでも減らせないかと原寸大のマットの図を紙に書いて彼女の家を訪問した。彼女が作った品物をその図に合わせると大きさが合わないものが半数位あり、それが返品になる可能性があったので彼女に指摘した。

彼女は我々日本人に対しても不信感が強く、サイズの違いを指摘した時は竹棒で私を追い払ったのだった。ある月のこと、彼女がダッカへ行く納品担当となった。それをきっかけとしてこれまでの不信感むき出しの態度は一変した。

ダッカでの納品現場で皆が作った製品1枚1枚の返品理由を目の前で聞かされたからだった。それまでは返品になるのは納品に行った人が悪巧みをしているのではとの不信感があったのだった。

それ以来会議で彼女は若い会員にちゃんと基準通りに作らないと返品されて骨折り損になるわよと優しくアドバイスをするようになった。私はそれまでの彼女の態度を思い出して苦笑した。

しかし彼女は皆と同じ目線なので他の会員たちに対しては誰よりも説得力があった。学校生活をしたことがない彼女が外の世界に初めて触れ成長する姿がうれしかった。あっ。いけない! 私は少し上から目線でものを言っているかも(?)。

コニカさん

会員の中で最も私の興味を引きつけたのがコニカさんだ。ご主人と小さな娘が一人いてコニカさんの年齢は推定16~20歳くらい。明るくて大きなとおる声をした人だ。

納品準備では製品を作った人の名前を書いた紙を一つ一つの製品に縫い付けなければならない。殆どの会員は自分では名前が書けないので字が書ける人に名前を書いてもらっていた。コニカさんは自分が作ったマットに付ける名前のタグを自分で書こうとしていた。

小さな黒板に手本を書いてもらってそれを見ながら何回も自分の名前を書く練習をした。「コニカ」という文字は三角形が2つある最も書きやすい文字だった。しかし最初はその三角形がうまく三角形にならない。私はその三角形になってない文字を見ながらまさにコニカさんが生まれて初めて自分の名前を書いた瞬間に立ち会っていることを実感して感動した。

彼女は家に帰ってからも何回も名前を書く練習をしてきた。自分の名前を書けるようになったことがよほどうれしかったにちがいない。自分のマットの分だけでは飽き足らず、友達数人の名前も「私に書かせて」と言って書いてやっていた。

そんな彼女を見て私はもし日本で生まれていたなら勉強好きな好奇心あふれる女性になったに違いないと思った。コニカさんを見ていて生まれる国が違うことで、人の可能性は大きくなったり小さな限界内に制限されたりするんだなぁという思いが強く湧き上がった。

ショミティ会議でギオールの銀行に行く人を決めている時だった。彼女が大きな声で「私が行く」と明るく元気な声で立候補した。他の会員が「あなたギオール(隣町)には行ったことあるの」と聞くと「行ったことないよ。生まれて初めてだよ。」と大声で返事し、それを聞いて皆ドッと笑った。そして彼女はギオールにいくことになった。彼女の好奇心は解放されつつあった。

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