飢餓の村で考えたこと 12.13

大工がバスを

バスから外の風景を見ていると木でバスの骨組みを作っているところを見てびっくり。バスのボディの骨組みは木で作られていた。それに鉄板をつけて絵を書くのがバングラ風だ。急に雨が降った時は運転手がむき出しの離れた線をねじってつないでワイパーを動かしていた。なんでもありがこの頃のバングラのバスで何回乗っても飽きない。

極貧のポイラ村

ポイラ村はダッカの西にあり、当時片道を行くのにほぼ1日を要した。私がポイラ村にいたのは1976~77年だった。バングラの歴史を書いた本を見るとこの頃が最もバングラ全体が飢えていた時代にあたるそうだ。

私の父にポイラ村の体験を話すと日本の戦後の飢えた時代もそうだったと言っていた。私は日本とバングラの戦後の飢えは状況が違うと思っている。

一番大きな違いは、日本の戦後は貧しかったが学校で教育を受けた人たちが殆どだったのに比べ、バングラの場合は人口の大半を占める貧しい人たちの殆どは学校に行けなかった非識字者(読み書きができない人)であったということが最も大きな違いだと思う。学校に行ってないことの意味についてはあとでまとめたい。


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