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たべるのがおそい

 もくもくとのぼる煙を眺めながらコーラを口に含むと、のどがシュワシュワした。炭酸は骨すらも溶かすと、昔お母さんが云っていたけど、あれは本当なのだろうか?燃え残ったおじいちゃんの骨にコーラをかけてみたい、なんて不謹慎でどうでもいいことを考えてしまう。大事な大事なおじいちゃんの骨。シュワシュワ。
 お父さんやお母さんに黙って、控室をこっそり抜け出してきた。行きの車内で「しゃきっとしなさい。しゃきっとして、ちゃんとおじいちゃんを送ってあげなきゃ」とお母さんに云われていたのにもかかわらずだ。大人たちの喧騒に嫌気がさしてしまった。大人たちは揃ってわたしを可愛い可愛い愛玩動物みたいに扱って、それがとにかくめんどくさかった。
 殺人的な日差しがわたしの真白な肌を容赦なく突き刺す。帽子も日焼け止めもここにはない。どっちもお母さんが準備しているはずだ。今からでも控室に戻って、帽子だけでももらってこようか?とほんの数秒間だけ逡巡する。親の庇護下にないとわたしはどうしようもなくショボい。
 わたしの膝に蚊が止まる。自分で動くより先に、隣に座る柳くんがそれを手で潰した。
「いた」
「嫌?」
「痛い、っつたの」
「あ、すまん」
 柳くんが掌についた真っ赤な点を借り物のスーツの袖で拭う。うげ。あとでお母さんにチクッてやろう、と、ポケットティッシュで膝についた汚れを落としながらわたしは思う。柳くんは今でもわたしのお母さんが怖い。
 そういう意味では、わたしたちはとてもよく似ている。ただ、わたしはまだ小学6年生なのに対して、柳くんは30を超えた立派な大人ではあるけど。
 そういう、大人だから、みたいなのって大人にしてみればやっぱり窮屈なものなのだろうか?
「人間、死んだら煙か土か食い物だなぁ」
 柳くんが呟く。柳くんの左手には缶コーヒーが握り締められていて、もう全部飲み終わったのか柳くんはそれをくるくると回して遊ばせている。
「なにそれ」
「なんだっけな。たしか、昔借りた小説に書いてあった」
「ふぅん」
 柳くんでも本を読んだりするのか、とわたしはそっちのほうが気になる。
「ま、でも、こうしてみんなに看取られながら煙になれただけマシだよな。ウシジマくん読んだことある?樹海に食い物として放置されるやつ」
「コンビニでちょっとだけ読んだことあるよ」
「全巻読んだほうがいいよ。おもしろいぜ」
「へぇ。じゃあ、明日お母さんに買ってもらおうかな」
「や、それはやめて。俺が姉貴に怒られるわ」
 お母さんはわたしに綺麗なものだけを見せようとする。わたしの想像力を低く見積もっているからだ。わたしの感性を舐めているのだ。
 大抵の大人が、子どもには物語を立体的に感受することなんか出来やしないと見下している。
 そんなわけあるか。
 わたしだって12年間いろいろな物語を摂取してきたし、それなりに心を動かされたりもしてきた。だから、物語は時に、切実で誠実であるが故に、到底許されないような、残酷で、汚らしく恐ろしい表現を内包してしまうことだってあるのだということをわたしはきちんと理解しているつもりなのだ。それなのに、わたしのまだ小さなこの肉体が、大人たちの認識を著しく歪めてしまう。
 わたしははやく大人になりたい。
「お、終わったみたいだ」
 スマートフォンを見つめながら、柳くんが立ち上がる。コーヒーの缶がゴミ箱へ放り投げられる。
 わたしの手にあるコーラはまだ半分以上残っていて、それをわたしは持て余している。



 おじいちゃんは昨年の冬くらいからずっと入院していて、半年後の夏に死んだ。死因は知らない。想像もつかない。人は死ぬ、ということを小学生のわたしは頭では理解した気になっているけど、それはあくまでも知識でしかなくて、じゃあ、実際に死ぬってどういうふうなのか、そのディテールをわたしは知らない。それは苦しいのだろうか?切ないのだろうか?悲しいのだろうか?それとも、そういう、人が一般的に抱くような感情なんて超越した境地に、人は死ぬ間際に到達したりするのだろうか?なんてことをつらつら考えてみたりするけど、結局答えは出ない。
 おじいちゃんが死んで、大人はなんだか忙しそうだけど、わたしはまだ子供でその忙しなさのなかには入っていけない。
 死んだ、ということだけをわたしは聞かされる。
 柳くんが帰ってきたのは、おじいちゃんが死んだ次の日だった。
 柳くんはわたしのお母さんの弟で、だからわたしにとって柳くんは叔父にあたるわけだけど、わたしは柳くんのことを叔父さんなんてダッサイ呼び方で呼んだりはしない。柳くんは柳くんだ。お母さんは、叔父さんに失礼でしょ、というけど、嫌なものは嫌なのだ。お母さんだって柳くんのことを下の名前で呼んでいるくせに、と思う。そこになんだかとても不公平なものをわたしは感じてしまう。ていうか、本当はわたしはお母さんやお父さんのことも君付けやちゃん付けで呼びたい。そういう、家族の役割みたいなものがわたしはウザったくて仕方ない。でも、お母さんやお父さんのことをそんなふうに呼んだら悲しい顔をされちゃうので、わたしはお母さんのことはお母さんと、お父さんのことはお父さんと呼んであげる。柳くんはわたしが柳くんと呼んでも何一つ嫌な顔をしないので、わたしは安心して柳くん、と呼べるのだ。柳くんはきっと年下に慕われるタイプだ。
「大きくなったなぁ」
 交通費がないからと知り合いの車を借りて遥々東京から大阪まで帰ってきた柳くんは、おじいちゃんの家でわたしの顔を見るなり、そんなことを云って頭を撫でつけてきた。
 てきとーなこと云いやがって、とわたしは思った。わたしが最後に柳くんと会ったのは去年の春で、わたしの身長はそのときから一ミリも伸びていないのだ。
 でもそのことを一々指摘するのはわたし的にも悲しいので、わたしは何も云わず、ただ柳くんの腕を払いのけるだけにする。
「前髪崩れるからやめて」
「あ、すまん、つい」
 ついってなんだよ、とわたしは思うが、いい。聞かなかったことにする。こんなことに一々目くじら立てていたらとても子供なんてやっていけない。
 早かったね、と、お母さんが奥から顔を出す。お母さんは朝から忙しなく動いていて、だからか口調もどことなくぶっきらぼうだ。服装だって、いつもはもっとパリッとした感じなのに、今はくたびれたエプロンなんかつけている。
 車、邪魔だから、家の前からどけといて、とお母さんが云う。柳くんはうぃ、と頷いて車のキーを手にまた外へ出て行く。
「わたし、案内する」
 誰のものかもわからないぶかぶかのサンダルを履いて外に出ると、家の前にはなんだかシャープでいかにもって感じの、赤い車が停められていた。
「なにこれ、なんか、高そう。なんて車?」
「知らね。でも、たぶん高いと思うわ」
 と、柳くんは自分の車でもないのに、なぜか得意げだ。
「誰に借りたの?」
「同居人」
 ふぅん、とわたしは思う。嘘じゃないかな、とわたしは感じる。柳くんは今、東京のどこかでシェアハウスをしているらしい。同居人、とは、たぶん一緒にシェアハウスをしている人のことなのだろう。自分が住む家をわざわざ他人とシェアするなんて、よっぽどお金に困っていないと、普通そんなことはしない、とわたしは考えている。実際、柳くんは30を超えていまだに定職につかず(つけず?)ふらふらしていて、だから、お金がない。
 わたしのまわりにシェアハウスなんかしている人間は柳くんしかいないからか、わたしはその同居人たちにもお金がなくてふらふらした人たちという印象を抱いてしまう。
 本当のところはわからない。知らない。わたしから見える世界は狭いのだ、まだ。
「お母さんたちは田んぼの横んとこに車停めてるよ」
「山のほう?」
「ううん。コンビニのほう」
 ああ、あっちね、と頷いて、柳くんが運転席に乗り込むのでわたしも急いで助手席に座る。
「うげ、タバコくさ」
「俺じゃないよ。この車の持ち主に云ってくれ」
「車で東京から大阪来るのって、遠い?」
「まあまあ遠いかな。疲れたよ。眠たい」
「今日は通夜?ってのやるって、お母さん云ってた」
「どうせ兄貴たちがなんとかするだろ」
 たしかに。
 葬儀に関するあれやこれやはほとんど、お母さんたちの兄(つまりわたしにとっては叔父さんだ。叔父さんばかりで本当に嫌になる)が取り仕切っているし、親戚への挨拶や家のあれこれは大体おばあちゃんやお母さんがこなしている。ずっとわたしたちとは距離をとって暮らしてきた柳くんにできることなんて、きっとほんとうに何もないのだろう。
 奥に停められている、わたしたちが乗ってきた緑色の大きな車の横に、柳くんがぴったりと車をくっつけた。
「ねえ、そこのコンビニ寄ってこうよ、アイス食べたい」
「ダメ。俺が姉貴に怒られる」
「バレないようにコンビニの前で食べちゃうから」
「ああん?しゃーねーな」
「やった」
 わざわざ柳くんについてきた甲斐があったってものだ。
 コンビニは大きな道路沿いにある。道路の向こうはやっぱり田んぼ。おじいちゃんの家に遊びにいくと、わたしは必ずこのコンビニに連れられてお菓子を買ってもらっていた。まだわたしが小さかったころの話だ。
 コンビニでわたしはアイスクリームを、柳くんはスイカバーを買う。日差しを避けるようにコンビニの屋根の下にしゃがみこんで、わたしたちはそれぞれのアイスを頬張る。お母さんに見つかったら行儀が悪いと怒られそうでどきどきする。小さな蛾の死骸が目に入ってちょっとげんなりした。
「親父、どんな感じだった?」
 柳くんがボソリと呟く。
「何が?」
「死ぬとき」
「知らない。わたし、学校だったし」
 そのときは午後で、わたしは二学期はじめての家庭科の授業を受けていて、クーラーもない教室は暑くて、頭がぼーっとしていて、だから、教室に教頭先生が入ってきて、わたしの名前を呼んでもわたしはしばらく自分が呼ばれているんだと気づかなかった。
 それからすぐ、お父さんがわたしを迎えに学校までやってきた。
 車のなかで、お父さんはあまり喋らなかった。
「柳くん、おじいちゃん死んで、悲しい?」
「何、急に」
「いや、なんとなく」
「うーん。まあ、悲しい、かなぁ」
「なにそれ。ふんわりしてる」
「あんま実感湧かないんだよな。何年も会ってなかったし」
「ふーん」
 そんなもんか。
 そんなもんなのかもしれない。
「さ。そんなことより、早くアイス食べてくれよ。あんま遅いと、姉貴にバレる」
 柳くんが急かす。いつの間にか柳くんはスイカバーをきれいに食べ終えている。三十にもなって、お母さんに怒られることを本気で恐れている柳くんがおかしくて、わたしはあえてペースを落として、ゆっくりとアイスクリームを舐めた。
 
 通夜はすこぶる順調に終わった。まだ頭のなかでポクポクポクが鳴ってる感じがする。した。
「わたし、何か手伝うことある?」
 お坊さんが帰ったあともお母さんは親戚のおばさんたちと一緒に食事を並べたりお酒を配ったり、相変わらず忙しそうだった。
「ん、大丈夫。あっちでお父さんとご飯食べてなさい」
 はーい、と返事して、わたしは素直にお父さんの隣に腰を下ろした。お父さんは居心地悪そうにビールを飲んでいた。
「ビール、つぐ?」
「いや、いいよ。ありがとう」
「そ」
 わたしは空いたコップにオレンジジュースを入れて、ちびちびと飲む。食事の席でジュースが出ることなんか稀だから、なんだか不思議な感じだ。
 かまぼこが美味しくてそればかり食べていたら、
「お、お嬢ちゃん。大きくなったなぁ」
 と、わたしの前に座るおじさんが声をかけてきた。
 わたしが困ってお父さんを見つめると、ほら、香川のおじさんだよ、挨拶しな、と助け舟を出してくれた。それでわたしは少しだけ思い出す。まだわたしが低学年のころ家族で香川に旅行に行ったとき、お世話になったおじさんだ。
「もうおじちゃんのこと覚えてないかな、何歳になったの」
 香川のおじさんがわたしに尋ねる。香川のおじさんの顔はうっすら赤い。ニコニコしながらビールを飲んでいる。
「12歳、です」
「中学生?」
「来年、中学生になります」
「おお、そりゃ楽しみだ。そうだ」
 おい、財布あるか?と、香川のおじさんは隣のおばさんの肩を叩いた。そのおばさんは覚えていた。香川を車で移動したとき、わたしの横に座っていたおばさんだ。窓の向こうを指差しながら、色々とわたしに教えてくれた。
「早めの入学祝いだ。とっときな」
 おじさんの手には1万円札が握られている。お父さんが慌てていやそんな、と手を振るが、遠慮しないでいいから、ほら、とおじさんもひかない。こういうとき、一度表にでたお金が元の持ち主の財布に戻ることがありえないことくらいはわたしも経験上、知っている。お父さんも親戚相手に強く出れないタイプだから、その1万円はやはりというか、少しの問答の末、きちんとわたしの手元に収まった。
 お礼を云いなさい、とお父さんが云って、わたしはありがとうございますと呟いて、お母さんの姿を探した。お母さんは柳くんの隣に座っていた。その隣にはお母さんのお兄さんが座っていた。
 わたしの隣に座っているお父さんは、香川のおじさんにビールを注いでいる。
 わたしは一人でオレンジジュースを飲む。2リットルのペットボトルにはまだ半分以上液体が残っている。オレンジジュースを飲んでいるのはわたしだけだ。

 *

 目が覚めるとわたしは車に乗せられていた。緑色の大きな車。お父さんが運転している、タバコの匂いがしない、清潔な車内。
 隣に座るお母さんが云う。
「おはよう。おじいちゃんにちゃんと挨拶できた?」
「うん」
 目を擦る。頭がくらくらする。何をしたってわけでもないけど、わたしは疲れているみたいだった。膝のうえに、結局全部は飲みきれなかったコーラが置かれていた。すっかりぬるくなったそれに、もう口をつけることは一生ないのだろう、とわたしは思った。
「お母さん」
「なに?」
「まだ、眠いかも」
「じゃあ、寝てなさい。着いたら起こしてあげるから」
「これ、どこに向かってるの?」
「家」
「おじいちゃんの?」
「ううん。我が家」
「今日は帰れるんだ」
「明日また行かなきゃだけどね」
「柳くんは?」
「今日はおじいちゃん家に泊まって、明日帰るって」
「ふうん」
「あ、帰り、スーパー寄るけど、食べたいものある?」
「じゃあ、ラーメン」
 またそんな身体に悪いものを、とかブツブツ呟きながら、でも、お母さんは結局、味噌でいい?とかもやしとネギはいれるからねとか云って、なんだかんだ優しい。わたしは全部にうん、うん、と頷きながら、まだぼんやりとしている。

 次の日はわたしとお母さんだけでおじいちゃんの家に行った。お父さんは仕事があるから、と云って朝早くに一人で出て行ってしまったのだ。だから今日、緑色の大きな車を運転するのはお母さんだ。お母さんの運転はお父さんの数倍、荒い。でも、その荒々しさが、わたしは好きだったりする。いつもより早いスピードで流れる風景。
 おじいちゃんの家に着くと、柳くんが一人でお茶を飲んでいた。柳くんはわたしたちを一瞥すると、兄貴たちなら二階だよ、と素っ気なく云った。
 わたしたちはまず仏壇に手を合わせて、それからお母さんだけ二階へあがっていった。ついていく気にならず、わたしは柳くんの正面に腰掛ける。
 で、柳くんを見ると左瞼が真っ赤に腫れていることに気づく。
「わ、なにそれ。痛そう」
「兄貴に殴られた。こっち帰ってこいって」
「え、うそ。やば、漫画みたい」
「事実は小説より奇……ってほどでもないか。まあ、現実にしろ、フィクションにしろ、何かを伝えるためには時として暴力が必要とされるってことだ」
「うん」
 わたしはその説明だけでちゃんと頷くことができる。柳くんはその説明だけできちんとわたしに伝わるのだとわかっている。
「帰ってくるの?」
 わたしが訊くと、柳くんは
「まさか」
 と笑った。
 それから立ち上がって、コンビニ行くけど、ついてくる?と柳くんが訊くので、わたしはまた頷く。

「お、あるじゃん。買う?」
 柳くんが急にコンビニの漫画コーナーで立ち止まるので、何かと思えばコンビニ版のウシジマくんを手にしていた。
「いらない」
「えー、じゃあ自分で読むよ」
 不貞腐れた感じで、柳くんはカゴにウシジマくんを放り込んだ。わたしもスイカバーをそこに放り込む。
 柳くんはアイスクリームを手にする。
 この前と同じように、わたしたちはコンビニの前にしゃがみ込んで、それぞれのアイスの封をあけた。
「ちょっと涼しくなってきたね」
「だな」
 スイカバーをかじると歯がキーンとした。
 歯をキーンとさせながら、わたしたちは田んぼのどこかでのぼる煙を眺める。どこまでも広がった田んぼを見つめる。
 広大なはずの風景なのに、いざ目の前にすると息が詰まってしまうのはなぜなんだろう?
 田んぼのどこかでのぼる煙を見ると胸が苦しくなるのはなぜなんだろう?
 この道路の先に並ぶスシローやオートバックスやブックオフやユニクロを通り過ぎるたび、ためいきが漏れるのはなぜなんだろう?
 おじいちゃんは何を思い、この風景のなかで一生を過ごしたのだろう?
 わたしはようやく、はじめて、もうここにはいないおじいちゃんのことを想う。
「柳くんはさ、」
「うん?」
「なんで東京なの?」
「なんでって、」
「ここより豊かな文化があるから?ここよりたくさんの人がいるから?ここより多くの夢で煌めいているから?」
 柳くんは少し考えて、それから、
「たぶん、どっちが凄いとかじゃないんだ。ただ、大事だと思えるものをたまたま東京で見つけられたって、それだけなんだと思う」
 と、云って。
「それって、」
 わたしが口を開こうとするのと同時に、着信音が鳴り響いた。柳くんが慌てた様子でスマートフォンを取り出す。
「あ、屋敷?ああ。これから。そっちは?そうか。うん。わかった。いや、うん。ああ。ていうか、それ、お前ら、どうやってこっちまできたの?……は?なんだそれ、アホすぎるだろ……。ああ、わかったよ。うん。じゃあ、また」
 スマートフォンを耳から離し、柳くんはスーッと深く息を吐き出した。
「誰?」
「同居人」
「車の?」
「いや、それとは別」
「ふうん」
 続きの言葉を待つけど、柳くんはそれ以上を語ろうとはしなかった。かわりに、さて、と立ち上がる。いつの間にか、柳くんの手からアイスクリームはきれいさっぱり消えてなくなっている。
 右手にウシジマくんとアイスのゴミが入っただけのレジ袋を握り締めて。
「じゃあ、俺、このまま東京帰るから」
「は?」
「その同居人、なんかこっち来てるみたいなんだ。拾って帰る」
「え、いやいや。お母さんは?叔父さんは?いいの?」
「よくない、けど、まあ、あとで電話で怒られるよ」
「でも、荷物は?」
「朝のうちに車にうつしといた」
 なんじゃそりゃ、とわたしは思うしそのまま口にする。はじめからそうするつもりでわたしをコンビニに連れてきたのか、と思うと腹が立つ。でも、それと同時に、この柳くんの行動こそが、さっきわたしが柳くんに聞きそびれた質問の回答なのだとわたしにはわかる。わたしはきちんと柳くんの言葉を理解できる。
 柳くんが東京で暮らすことと、おじいちゃんがここで暮らしたことに、たぶん、大した違いはないのだ。
 どちらが凄いとかじゃなくて、そこを比べることには価値も意味もなくて、ただ、わたしたちはそれぞれが正しいと思えるものを信じて、誠実に、切実にそれに向き合っていくことしかできないのだ。
 わたしは思いだす。このコンビニに、おじいちゃんに連れられてやってきた日のことを。そのときのおじいちゃんの視線の先を。おじいちゃんはこの広大な、どこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでもどこまでも続く風景に、はたして一度でも視線をむけたことがあっただろうか?どこかでのぼる煙に、一度でも気づいたことがあっただろうか?
 わたしは思いだす。
「じゃあ、姉貴たちによろしくな。しばらく電話はでないから、かけてきても無駄だって伝えといて。あと、ちゃんと東京についたら電話するからってことも」
「はぁ。わかった」
「あ。アイス、早く食べないと溶けちゃうぜ」
「うっさい。はよ行け」
 そして死ね、と思うけどもちろんわたしだって本当には柳くんに死んでほしくないのでそんなことは口にはしない。思っただけのそれは願いですらない。
 赤い車のまえで、柳くんがおどけてバハハーイと大きく手を振っているのを見て、柄にもなく中指を立ててしまったけど、これにだって本当に深い意味があったりはしないのだ。

 柳くんの乗る車がまっすぐ道路を突き進んでいく。
 車は田んぼには見向きもしないで、どこかでのぼる煙を振り切って、スシローもオートバックスもブックオフもユニクロも全部突き抜けて、それをわたしは眺める。
 わずか数秒間だけ景色が意味を変える。そのあいだに、スイカバーが溶けて地面に落ちる。
 どうも、わたしはたべるのがおそいらしい。

いとうくんのお洋服代になります。