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アイドルタイムいとぶろ 虹

 滅入る。
 
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 滅入る。
 
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 滅入る。
 
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 滅入る。
 土曜日、五十嵐がやってきた。
「よお、相変わらずだらしない面だな」
 久しぶりの再会だというのに、五十嵐はといえばそんなことを平然と云い、こちらの気分をゲンナリさせる。
 土曜日の朝だった。
「寝不足なんですよ」
 ふぅん、と、五十嵐がけだるそうに首をひねった。
 骨張った腕が僕の肩に乗る。
「とりあえず、あげてくれよ」
 僕が許可するより先に、五十嵐は強引に部屋のなかへずかずかと入り込んでいった。部屋にあがるなり、五十嵐が眉をひそめる。
「なんだ、この音。工事でもしてんのか?」
 ぐおおおおおおお、と、地鳴りのような音が部屋全体を揺らしていた。
「パンダですよ」
「あの、ちっこいやつか?」
「いや、大きくなりました」
 はぁ?と五十嵐が不審げに僕を見つめる。
「まあ、信じてくれとは云わないですけど……」
 寝ぼけ眼を擦りながら答える。パンダのいびきのせいで、何を喋るにしても声を張り上げないとならないことが煩わしくて仕方ない。ただただ、眠たかった。パンダが帰ってきてからというもの、まともに眠れていなかった。昨日も結局うまく寝付けず、明け方まで『げんしけん』を読み返していたのだ。
「パンダが、ロフトの上にいるのか?」
 五十嵐が天井を指さす。
 言葉を発するのも億劫で、僕は口を閉じてただ頷いた。
「まじか、挨拶したいな」
「辞めといたほうがいいです。無理矢理起こすと部屋が壊れます、比喩でもなんでもなく」
「そりゃまた、」
 物騒だな、と五十嵐が愉快そうにつぶやく。それで諦めたのか、五十嵐はいつもの椅子に座り、持参の炭酸水に口をつけた。
「で、どうだった、大阪は」
 炭酸水を一瞬で半分ほど減らして五十嵐が尋ねる。
「どうもこうも、」
 やりました、だけど、何も変わりませんでした、と、僕は事実のみを簡潔に伝えた。
 五十嵐はだろうな、と人を小馬鹿にするような笑みを浮かべた。
「あんたの顔見ればわかるよ。満ち足りている人間は、何かしらの誇りを持った人間は、価値を稼いだ人間は、少なくとも、今のあんたみたいな、どろっとした瞳をしたりはしないからな。もっと魂がキラキラと輝いているものだからな。あんた、鏡は見てるか?自分は被害者です、って顔に書いてあるぜ。自分でそのことに気付いてるか?」
 んなわけ、と思い洗面台に立つと、おでこに大きく『負け犬』と書いてあった。ご丁寧に、下手くそな虹のラクガキつきで。
 あとで殺す、と思った。
 パンダのいびきで鏡が揺れた。
 顔を洗って戻ると、五十嵐がロフトの上をそーっと覗いていた。
「何やってんすか」
「事実確認」
「何の」
「いや、別に」
 と云って、五十嵐は案外あっさりと階下に降りてくる。
「案外可愛いもんだな、近づいたら鼓膜が破けそうにはなるけど」
 ああ、そう。
「で、あなたこそ、今までどこ行ってたんですか。僕が大阪に行ってる間に。僕が大阪から帰ってきて寂しさに打ち震えてる間に」
「え、なに、寂しかったの、あんた?」
「……間違えました」
「案外可愛いもんだな、気分の滅入る顔をしてるけど」
 ああ、そう。
「あの、遊びにきただけなら帰ってくれません?」
 我慢できず、僕はストレートに苛立ちを言葉にする。だというのに、五十嵐は詫びれる様子もなく、
「冷たいじゃないか」
 とこれまた愉快そうに笑うだけだ。
「寂しかったんじゃないのか?だったら、まずは喜んだらどうだ?俺が来て嬉しいんだろ?」
「だから、それは、間違えました」
 念を押すように僕は繰り返した。
 ああ、そう、と五十嵐はニタニタとしたままだ。
 妙に胸がざわざわする。
「なぁ、そこまでして自分の感情を恥ずかしがることないだろ。寂しい、苦しい、悲しい、嬉しい、楽しい、結構なことじゃないか。不感症の馬鹿よりよっぽどマシだ。不干渉の間抜けよりよっぽど人間的だ」
 パンダのいびきがうるさい。いい加減イライラしてきた。寝不足のせいで精神に余裕がないのだ、と自分に云い聞かせる。
「別に、あなたには関係ないでしょ」
「まあな。あんたがどれだけ感情表現が苦手だろうが、俺には何の関係もない。俺はただ思ったことをつらつら口にしてるだけだよ。だから、あんたも別に、馬鹿正直に全部真正面から受け止める必要はないんだぜ」
 と云って、五十嵐は残りの炭酸水をすべて飲み干した。よくそんなスピードで炭酸水を消費できるものだ。
 季節が変わっても五十嵐はいつもの、あの年季の入ったレザージャケットを羽織り、神経質そうに足を揺らしていた。
「僕の話はもういいでしょ。五十嵐さんの話ですよ。何やってたんですか。しばらく姿も見せずに、遊んでたわけじゃないですよね」
「俺を馬鹿にしてんのか?遊んでた?まさか!俺はあんたと違って仕事ができるんだよ。一つダメだったくらいで立ち止まっちまうような腑抜けじゃないんだ。だから、わかったぜ」
「はい?」
「いちごちゃんの居場所」
 
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 次の金曜日に新宿に来るよう一方的に命じて、五十嵐は去っていった。
 金曜日。
 2020年12月25日。
 クリスマス。
 
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 結局、その日の夜もうまく寝付けなかった。パンダのいびきもあるが、それよりなにより、いちごちゃんに会えるかもしれない、という可能性が頭のなかをぐるぐると巡り、眠るどころではなかった。
 いちごちゃん。
 名探偵。
 無謬の存在。
 唯一無二の指針。
 そのいちごちゃんが、現実に本当に存在した。僕の頭のなかだけのはずの人間を、五十嵐は見つけ出したと云った。
 そんなはずない、という当たり前の疑惑と、
 もしかしたら、という切実な願望が混ざり合い、僕の感情を掻き乱す。
 布団にくるまっているのに寒かった。乾燥するから暖房はつけたくない。布団を頭まで被せて、なんとか暖を取ろうとする。
 ぐおおおおおおお、とパンダが呼吸するたびに、身体中の血液が振動した。
 まわりの住人から苦情が入らないのが不思議だった。犬のときはあれだけ騒いでいた人たちが、なぜこのいびきには耐えられるのだろう?パンダのいびきに比べれば、犬の鳴き声のほうがよっぽどマシだ。
 滅入る。
 僕は怖い。
 いちごちゃんと対面するのが怖い。
 あれほど切望したいちごちゃんが、僕を大阪まで向かわせたいちごちゃんが、ここまできて、いざ目の前に現れるとなって、僕は怖くなってしまった。
 何かが決定してしまうような……回答が、もう目の前にある、というのに、僕は妙にそわそわしてしまって、その、落ち着かない。
 いちごちゃんと出会って、いちごちゃんは果たして僕に何を云うのだろう?拒絶されるのか。肯定されるのか。感動されるのか。淡々とされるのか。
 いや、それならまだいい。僕を僕として認識して、反応があるのであれば、僕は大丈夫だ。僕は立ち直れる。
 ……誰?
 僕の青春。
 いちごちゃんと出会うことで、その全てがやっぱりただの虚構でしかなかったと判明してしまうことが、僕は怖い。
 僕の頭のなかの出来事が、本当に僕の頭のなかの出来事でしかなかったと突きつけられてしまうことが、僕は怖い。
 今更ながら、僕は怖気づいてしまっていた。
 一度は覚悟したはずなのに。
 もし、全てを否定されて、
 それでも、僕は僕のなかにいちごちゃんの言葉がある、と云えるだろうか。
 それでも、僕は僕のなかにいちごちゃんの思想がある、と笑えるだろうか。
 自信がなかった。
 パンダのいびきがうるさい。僕はそっとロフトにのぼり、パンダの鼻にティッシュを詰めた。
 呼吸困難でパンダが死ぬことを祈りながら、僕はベッドに戻りいつまでも天井を眺めていた。
 
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 滅入る。
 仕事に行って、帰って酒も飲まずに寝た。
 
 滅入る。
 仕事に行って、帰って酒も飲まずに寝た。
 
 滅入る。
 仕事に行って、帰って酒も飲まずに寝た。
 
 滅入る。
 仕事に行って、スーパーでケーキを買って帰った。
「ケーキを食べよう」
 おかえり、と、ロフトから顔だけ覗かせるパンダに向けて、スーパーの袋を掲げる。
「なんのケーキ?」
「ショートケーキ」
「やるじゃねえか」
 のそのそとパンダが降りてきた。
 僕は部屋着に着替え、二人分のお茶を入れてケーキと一緒にテーブルに並べた。
「ワインは?」
「飲めないくせに」
 パンダは下戸なのだ。
 メリークリスマス、と形式的にマグカップをぶつけて、僕たちは早速ケーキにフォークを突き刺した。
「おい、お前のほうがいちご、でかくね?」
「気のせいでしょ」
「いや、お前のいちごのほうがでかい。不正だろ」
 嫌な予感がする。
 あろうことかパンダは僕のいちごを手掴みでひょいとつかむと、それをそのまま自分の口のなかへ放り投げてしまった。
「おい、」
 云い終わらないうちに、パンダが今度は自分のケーキに乗ったいちごを食べてしまう。
「ず、ずるだろ……」
「遅いやつが悪いんだよ」
 パンダは詫びれる様子もなく、残りのケーキも一口で食べてしまうと、ずずず、と呑気にお茶をすすった。
「はぁ〜、まじチルいわぁ」
 ゲップをしながら、パンダが云った。
 殺してやりたくなったが、いや、と改める。
 こんなことは、日常茶飯事なのだ。
 いちいち腹を立てていたら、とてもじゃないが身が持たない。
 それに、認めてしまうと、本当に心底悔しいが認めてしまうと、僕はこんな日々も悪くないかもな、と思ってしまっていた。
 パンダとワーワーやり合いながら、なんだかんだ楽しく暮らす日々。
 いびきのせいで寝付けず、苛つきながら小説や漫画や思考に浸る日々。
 たまに漫画家と飲み、週末になると五十嵐に無理矢理引きずられ、なんだかんだ面白く遊ぶ日々。
 最高ではないが、最悪でもない。
 退屈ではあるが、楽しくもある。
 寒いわけじゃない。
 暗いわけでもない。
 たまに暖かく、
 少しだけ明るい。
「パンダはさ、欲しいものとか、ある?」
「あん?」
「いやほら、クリスマスだし」
「あー、ね」
 パンダは大袈裟に首をぐりぐりと回して、そのたびに抜け毛がそこら中に散らばる。
 虹を吐けないパンダ。
 パンダは昔、きっともっと凄かったのだろう。偉かったのだろう。価値があったのだろう。青春汁に溢れ、世界の全てが敵で、魂を輝かせながらくる日もくる日も格闘したのだろう。
 世界vs自分。
 こんなに光栄なことはない。
 こんなに楽しいことはない。
 こんなに素敵なことはない。
 しかし、今のパンダはもう、虹を吐けない。
 パンダは天井を見上げ、
「俺は今のままで結構満足だなぁ」
 と洩らした。
 
     ✳︎
 
「来たな」
 金曜日。
 2020年12月25日。
 クリスマス。
 僕は仕事のあとスーツ姿のまま、五十嵐に指定された紀伊國屋書店へと向かった。約束の時間より15分も前に到着したにも関わらず、五十嵐はすでに到着していて、僕に気づくと手をあげて近づいてきた。
「スーツなんか着るんだな、あんた」
「まあ、所詮、サラリーマンなので」
 と、口にして、改めて自分が社会的にはただのサラリーマンでしかないという事実に驚く。もっとも自分と縁遠いと思っていた社会的地位が、今の僕の全てなのだ。しかも、そこから三年もの月日が流れているのだ。もう何度目かわからないが、過去の自分に無性に土下座して謝りたくなった。
 五十嵐はと云うと、いつもと同じように年季の入ったレザージャケット一枚で、真冬だというのに、クリスマスだというのに、マフラーの一つもしていなかった。少しは季節感というものを考慮してほしい、と思う。
「で、どこにいるんですか、いちごちゃんは」
 まわりを見渡すが、それらしき人影はどこにもなかった。金曜日だからか、それともクリスマスだからか、いや、その両方か、街は楽しげな空気を纏った人たちで溢れかえっていた。自粛、なんて野暮な単語は今、この瞬間にはどこにも存在していなかった。
「いちごちゃんはここにはいない。いちごちゃんの居場所を知っている人間と、今日、ここで待ち合わせることになっている」
「その、いちごちゃんは、どんな暮らしをしているんですか」
「美大生だとよ」
 ふぅん、と頷くが、僕はいちごちゃんが美術を嗜むなんて聞いたこともなかった。
「ここで待ち合わせる人ってのは、一体誰なんです」
「そのへんのことはそいつが来てからにしよう。直接聞いたほうが、多分、早い」
 それよりも、と五十嵐は紀伊國屋書店を指さした。
「少し店内を見ていかないか?実はまだ30分くらい時間があるんだ」
 
 僕は云われるがまま、紀伊國屋書店の2階、文芸コーナーの前に立っていた。
「しばらく見ないうちに、随分知らない名前が増えたな。宇佐見りん?なんだこの可愛い名前は、アイドルか?」
「アイドルを推す女の子の小説を書いてます」
「へえ、面白いのか?」
「……」
 尋ねられたものの、生憎僕も未読なので無視を決め込んだ。
「こっちは知ってるな。この前芥川賞獲ったやつだ」
 五十嵐が次に指さしたのは著者近影の載った帯が表紙の半分以上を隠した小説だった。ああ、それは面白かったですよ、と答える。
「へぇ、どのへんが?」
「……」
 また無視を決め込んでしまった。
「しかし、なんというか、あれだな、やっぱり、変わっていくものなんだな」
 平積みされている、おそらく今、旬の作家のものであろう小説群を前にして、五十嵐は目を細めた。
 その目は、よく知っている。
 その感慨を、僕は知っている。
「……好きだったんですか、小説」
 それは、僕が大阪で、蔦屋書店の一角でしたのと、まったく同じ表情だった。
 ああ、と五十嵐が自嘲気味に笑う。
「とりわけ、文学がな。現代文学がな。それこそ、ここの棚に並ぶような、そんな作家たちの小説を、来る日も来る日も読み漁ったよ」
「今は」
「ん?」
「今は、もう読まないんですか」
「ああ」
 五十嵐の返答はほとんどため息に近い。
「読まない。読めない。気力がなくなった。切実さが欠けた。誠実さを見失った」
 つまり、と、五十嵐が続ける。
「どうでもよくなってしまったんだな」
 それから、また自嘲気味に頬を吊り上げた。
「それって……」
 何か云おうとして、五十嵐に遮られる。
「実をいえば、小説家になりたかったんだ、俺は」
「初耳、ですね」
「誰にだって、打ち明けるのに勇気を必要とする事柄はあるんだよ」
「……」
「好きな作家、尊敬する作家、指針となるような作家だっていた。小説に、そのままの意味で人生を変えられたという自負もあった。いや、もっと云えば、俺には小説を書く資格がある、と、確かに実感した瞬間があった。書きたいことがあった。書くべきことがあった。書かなくてはいけないことがあった。それは小説でしか成せないし、小説でなければ意味がないし、小説だからこそ意義があるのだという確信すらあった」
 でも、
 続きを聞かなくても、僕にはその先がわかる。
 ダメだった。
「なんで、今になって、そんな話をするんですか」
「聞いておいてほしかった。知っておいてほしかった。わかっていてほしかった」
 それじゃダメか?と、五十嵐が僕を見つめる。
 その目はとても不安そうで、その姿が僕自身のものと重なる。
 なぜなら、
 なぜなら、それじゃまるで、
「だから、同じなんだよ」
 五十嵐が云う。
「俺も、あんたと同じなんだ」
 僕はそれですべてがわかる。
 五十嵐がなぜここにいるのか。
 五十嵐がなぜいちごちゃんを追うのか。
 五十嵐がなぜ僕の前に現れたのか。
 同じなのだ。
 僕と。
「いちごちゃんのため……」
 つい、そんな言葉が口からこぼれた。
「そうだ。俺の書きたいことはいちごちゃんだった。俺の書くべきことはいちごちゃんだった。俺の書かなくてはいけないことはいちごちゃんだった。俺は、隣じゃなくていい、近くなくてもいい、とにかく、いちごちゃんにここにいてほしかった」
 いちごちゃん。
 名探偵。
 無謬の存在。
 唯一無二の指針。
 そして、小説を書く理由。
 いちごちゃんにここにいてほしい。
 僕も、五十嵐も、きっと、ただ、それだけなのだ。
 だから、書いた。嘘を書いた。虚構を重ねた。ここには存在しないものが、いないものが、それでも、存在してほしくて、居てほしくて、だから、書いた。いちごちゃんが居たという痕跡を。いちごちゃんが存在するという嘘を。五十嵐は小説として書いたし、僕はアイドルタイムいとぶろとして書いた。僕はそれを、ブログであると云い張って、日記という体裁で誤魔化して、書いてきたのだ。
 なぜなら、
 なぜなら、
 なぜなら、
「愛、なんだ」
 だけど、しかし、なのに、いちごちゃんは、ここからいなくなってしまった。僕のもとからいなくなってしまった。
 一度は感じられたはずのそれを、僕は見失ってしまった。
 さようなら。すべてのアイドルタイムいとぶろ。
 アイドルタイムいとぶろは、もう、続けられません。
「俺はまだ続けたい」
 それでも、五十嵐が宣言した。
「俺はまだ書きたい。俺はまだ書いていたいんだ」
 だから、ここにいる。
 無くしたもの全部奪い返すために。
 あんたは違うのか?と、五十嵐が問う。
 僕はここにいる。
「俺はあんたにも書いてほしいと思ってる。俺はあんたのブログのファンなんだよ、何度も云ってるけどさ」
 だけれど、それでも、僕はまだ迷っていた。
 
     *
 
 時間だ、と五十嵐が云って紀伊國屋書店を出ると、店の前になんだかシャープでいかにもって感じの、赤い車が停められていた。生まれてこのかた、車に興味を持ったことなど一度もないけれど、それでもその車の値段の予想くらいはついた。
 きっと高い。
「待たせました?」
 車の運転席から出てきたのは二十代後半くらいの男だった。
「いや、別にいいぜ。待ってないよ」
「この人ですか?」
 五十嵐に訊くと、そうだよ、と簡潔な答えが返ってきた。
「井戸です」
 男が軽く会釈をするので、僕も形だけ頭を下げる。
 さわやかな青年、井戸に案内され、僕と五十嵐は後部座席に座らされた。
「もう一人いるなんてのは、聞いてないんですけどね」
 運転席に座った井戸が、バックミラー越しに僕を一瞥する。
「云ってないからな。云う必要もないだろ」
「いいや、困りますね。これは取引なんです。嘘や隠し事はよくない」
 井戸の語調が少しだけ強くなる。
 取引?
「細かいやつだな。一人も二人も変わらないだろ。俺たちはただ、いちごちゃんに会いたいだけなんだ。別に無理矢理連れ去ろうってわけじゃない」
「そういう問題じゃないです。嘘や隠し事はよくないという話です。まさか、本当に理解できないというわけじゃないでしょう、俺の話が」
「あー、もう、いいよ。すまなかった。情報を省略した俺の落ち度だ。謝るよ、これで満足か?いいから早く車をだせ。さもねぇと、」
「あの、」
 僕はたまらず、五十嵐と井戸のあいだに割ってはいった。
「なんだよ?」
「取引って、なんの話です」
「あー、それな」
 五十嵐がごにょごにょ口籠もっていると、
「監禁ですよ」
 と、今度は井戸が口を挟んできた。
「は?」
「うちの住人を一人取られました。立派な拉致監禁。あなたの隣にいる人間はね、犯罪者なんですよ」
 僕は井戸の云った言葉がすぐには理解できず、助けを求めるように五十嵐の顔を見た。
「あー、なぁ。こいつ、いちごちゃんを巻き込んで何やってたと思う?擬似家族ごっこ。今の時代に新しい共同体とかほざいてんだぜ?ウケるよな。今時流行んねぇんだよ。『サッド・ヴァケイション』観てねぇのか?」
「いや、じゃなくて、」
「だから、一人拉致った。大切な大切なこいつの家族をな」
 五十嵐は開き直ったのか、さらっとそんなことを云ってのけた。
「先生は、」
 ハンドルを握る井戸の腕に力が込もるのを見る。
「砂糖ノンシュガー先生は無事ですか」
 井戸の言葉は固く、僕は思わずきゅっと肛門に力が入った。
「危害を加える気なんかハナからねぇよ」
 しかし、五十嵐は意に介する様子もなく、はしゃぐように言葉を続ける。
「それより聞いてくれよ。拉致ったやつがすごいんだ。なんと、あの大作家……」
「もういいでしょう」
 五十嵐の言葉を、井戸が遮る。
「そこから先はただのゴシップだ。低俗です。そんなことを暴露して、何になる?」
「少なくとも、あんたが不快になる」
「最低だ」
 井戸がぼそりとつぶやくのと同時に、車がゆっくりと発進した。
 お腹が痛くなってきた。
 
 車は靖国通りをひたすらまっすぐ突き進んだ。流れゆく都会の景色をぼんやり眺めていると、井戸がバックミラー越しに語りかけてきた。
「もしかして、あなたですか。大阪まで行って何やら小細工したというのは」
「はぁ、まぁ」
「おい、シャキッとしろよ」
 隣から野次が飛ぶ。五十嵐は窮屈そうに身を縮めて、車の進む先をただじっと見つめていた。
「俺にはよくわからないですね。詳しいことは聞いてませんが、しかし、時系列がバラバラじゃないですか?あなたが大阪に行ったのはいちごちゃんが大阪に行ったあとだ。それじゃ、あまりにも雑、というか、つじつま合わせにしたところで無理がある」
「耳を貸すな。あいつは無知なんだ。俺たちは時間が規則正しく流れるだけじゃないことを知っているだろ」
 五十嵐が云う。
「未来で行った出来事が、過去に直接影響を及ぼすとでも?」
「ああ、そうだよ。そういうことが起こり得ることを、俺たちは知っている」
「狂ってる」
 井戸が吐き捨てる。
「やっぱり無茶苦茶ですよ。論理も世界観もあったもんじゃない。勢いだけで下手なラップを誤魔化そうとするラッパーみたいだ」
「じゃあ、お前はどうなんだよ」
「はい?」
「チマチマとお仲間を集めて、みんなで仲良くままごとしましょうねってか。虫酸が走るぞ。ウマの合うやつらだけで完結した世界に何の意味があるんだ?」
「あなたたちには関係ない」
「出た。これだから嫌なんだ。他人に難癖つけるだけつけて、いざ他人に何か云われたら『お前は関係ない』だもんな。それってすごく卑怯だぞ」
「別に、卑怯でも何でも構わないですよ。外の人間に何を云われても、何を思われても構わない。どうでもいい。知らない。本当は後ろの席にあなたたちを乗せているのだって、我慢ならないんだ」
「だったら下ろせよ、今すぐ」
「砂糖ノンシュガー先生のことがなければ、とっくにそうしている」
「難儀だな」
 五十嵐は腰を深く沈め、あろうことか助手席の背もたれに両足をかけた。
「行儀が悪いですね」
「狭苦しいんだよ、お前の車」
「あの、」
 車内の険悪なムードに堪らず口を挟む。
「なんです?」
「えっと、いちごちゃん、元気ですか?」
「ええ、とても」
 井戸の返答はあまりにも素っ気ない。
「美大生だって聞きましたけど」
「ええ、そうです」
「友達はいるんですか?」
「います」
「恋人は?」
「います」
「どうせその友達も恋人も、全部こいつのお仲間なんだ。反吐が出る」
 五十嵐が助手席のシートを蹴る。
「だから、行儀が悪いですよ」
「いちごちゃんは……その、今の生活に、満足してるんですか」
 暴れる五十嵐を無視して、僕は質問を続ける。
 どうしても聞いておきたい。
 どうしても知っておきたい。
 いちごちゃんは、今、幸せなのか、どうか。
「もちろんです。あのね、俺たちには俺たちの物語があるんです。俺がいて、柳くんがいて、砂糖ノンシュガー先生がいて、いちごちゃんがいて、屋敷くんがいる。これ以上、何も足す必要はないし、何も引く必要はない。充分なんだ。充分、俺たちは幸せなんですよ。あなたたちなんて、もとからお呼びじゃないんだ。正直云って、あなたたちがいちごちゃんに会ったところで、いちごちゃんは迷惑なだけだ」
 井戸が答える。
 車はいつの間にか靖国通りを抜け、東京ドームのまわりを走っていた。
 井戸の言葉を受けて、僕は、迷ってしまう。本当にこのままいちごちゃんに会ってもよいのだろうか、と。
 迷惑なだけだ、と井戸は云った。
 それでもなお、いちごちゃんと会おうとするのは、それは、誠実さに欠けた行いなのではないか?
 もう完結してしまっている物語を掘り起こすことが、果たして正しいと云えるのだろうか?
「惑わされるなよ。あんたはまずなによりも、あんたの幸せを考えるんだ」
 そんな僕の迷いをよそに、五十嵐がはっきりと断言する。
「他の誰でもない、あんた自身のことを考えろ。今、ここにいるあんただけが本当なんだ」
 五十嵐が、僕の目を見て語りかける。
 五十嵐は、ずっと、誠実で、切実で、きっと、本気なのだ。
 ずっと本気で、僕をここまで連れてきてくれたのだ。
 だから、僕は、
「自分勝手だ」
 口を開きかけた途端、井戸が吐き捨てるようにつぶやいた。
「やっぱり死ね」
 そして、
 車が、
 
 
 暗転。
 
     ✳︎
 
 滅入る。
 
     ✳︎
 
 どれだけのあいだ、気を失っていたのだろう。まわりがざわざわとしている。その感じがする。
 音が遠い。
 それでも、人の声らしきものが飛び交うのが、なんとなくわかる。
 力を入れることで、なんとか手足を思い通りに動かすことができた。左手を少しずらすと、生暖かい感触が手のひらに広がった。
 血?
 焦げ臭い。バチバチと小さく爆ぜる音がする。
「五十嵐?」
 目を開けているのに、何も見えなかった。
「五十嵐?」
 もう一度、繰り返す。
 返事はない。
 五十嵐がいたはずの場所に、おそるおそる左手を伸ばす。ぐちゃ、とした、何か、熱を持った何かにぶつかる。
「五十嵐?」
 目が見えない。
 左手が掴んだ何かが、五十嵐なのか、それとも別の何かなのか、判別がつかない。
 覚えている光景。
 バックミラーに映る井戸の血気迫る瞳。
 血管がはち切れんばかりにハンドルを強く握る両腕。
 声。
 ーーやっぱり死ね。
 ひび割れた窓。対向車線を走る、ドライバーの驚いた表情。
「自分勝手なのはどっちだよ……」
 右手をあちこち彷徨わせ試行錯誤し、なんとか車のドアを開けることに成功する。
 転がり落ちるように、車の外に出る。
 誰かの声がする。
 たくさん。遠巻きに。救急車、という単語だけがなぜかはっきりと聞き取れた。
 起きあがろうとして、背中に激痛が走る。
 何も見えない。
 ここはどこだ?
 僕はどんな状態なんだ?なんで目が見えないんだ?
 五十嵐はどうなった?井戸は?
「五十嵐?」
 車があった方向へ、声を振り絞って問いかける。
 返事はない。
 返事はない。
 額に嫌な汗がたまる。左手で拭う。汗以上に不快な何かが、僕の額を汚すのを、僕は感じる。
 滅入る。
 一人だった。
 誰でもいい、誰でもいいから、隣にいてほしかった。
 パンダ。
 漫画家。
 五十嵐。
 ジンドッグ。
 ジメサギ。
 ……いちごちゃん。
 足を踏み出す。今、自分がどちらを向いているのか、僕にはわからない。それでも、一歩、足を前に動かす。
 僕は正しい道を歩けているのだろうか?
 目的地はわからない。
 どれだけ歩けばいいのかもわからない。
 それでも、この先にはいちごちゃんがいるのだ。
 僕は正直、今でも迷っている。
 それでも、迷うことはもうやめたい、という意思だけは、あるのだ。
 だから、僕は、
 僕は最後に、五十嵐に宣言するつもりでいた。
 迷う日々は終わりにする。
 僕は正しい道を歩く。
 威風堂々と。
 正々堂々と。
 自信満々に。
 僕が本当だと思う道を、歩む。歩みたい、と。
 そして、ずっと、ずっと、ずっと、歩いていたい、と。
 救われたかと思っても、それはその場限りでしかなくて。
 その場ではなんだか救われたような、祈りが通じたような、何かが劇的に変化するような、何者かになれたような、そんな、一時的な全能感だけを与えられて、それが過ぎればまたいつもの生活が延長するだけで。
 ハッピーエンドなんてなく、それどころかエンドすらなく、ただ、だらだらと軽薄な意思で前にも後ろにも進まない日々が続くだけで。
 でも、それでも、この先に求めるものがあると信じるくらいは、いいだろう?
 誰にともなく、問う。答えは求めていない。回答なんてものはクソだ。そんなものははじめから僕には必要なかったのだ。
 足がもつれる。野次馬の誰かが僕の腕を掴む。力まかせに振り払う。
 邪魔しないでくれ、
 僕は、
 僕は、
 僕は!
 
 想像する未来はいつも暖かくて、明るい。
 
 いちごちゃんに会ったら、まず何を云おう?とりあえず、抱きしめたい。いちごちゃんの体温を感じたい。それから、お互いに見つめあって、照れ臭そうに「久しぶり」と声をかけあうのだ。その一言で、僕たちはこれまでの空白の時間を全部全部、一瞬で埋めてしまえるのだ。そのあとは、適当な居酒屋に入って、居酒屋は客の笑い声で声が通らないくらい賑やかなところがいい、そこで、二人してバカな話に花を咲かすのだ。これまで、どうだったか、なんて野暮な話はしない。かわりに、最近読んだつまらない小説を挙げあったり、反吐が出るようなコンテンツの悪口を云いあったり、何も分かっていない著名人の馬鹿みたいなツイートにクサクサしたり、近くで部下にあからさまな下心を出す中年男のことを大声で嘲笑うのだ。
 僕たちだけが無敵で、
 僕たちだけが正義で
 僕たちだけが生きる。
 他の誰も近づけない。
 それから、
 それから、
 それから、僕は家に帰って、小説を書きたい。
 前に進むための小説。
 後ろを完全に振り払ってしまえるような小説。
 全てを屈服させるような小説。
 そしてなりより、ただ、ただただ、ひたすらに面白い、それを読んだ人間が、この滅入る世界で、たった一秒か二秒だけでも、救われた気持ちになるような、そんな小説を。
 隣にはいちごちゃんがいて。
 ロフトの上でパンダが騒いで。たまに五十嵐が遊びに来て。漫画家と飲みに行ったりして。
 
 手足が痺れて、それでもまだ自由に動かせる喜びを噛み締める。自然と、ステップを踏むようにして歩く。
 両腕がリズムを刻む。
 
 目が見えない。血が流れすぎた。
 ここは暗い。そして、寒い。
 
 頭のなかで音楽が鳴る。
 真っ暗な世界で、それでも僕はまだ踊れるし、踊れるし、踊れるのだ。この先にはいちごちゃんがいて、家に帰るとパンダがいる。
 パンダは虹を吐く。
 空に綺麗な虹がかかる。
 
 ようやくわかった。
 
 今、この瞬間、この景色を見るためだけに、僕のこれまでの人生はあったのだと。
 
 ピース。
 ありがとう。
                            いとう

いとうくんのお洋服代になります。