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アイドルタイムいとぶろ②

 2020年10月11日(日)曇り、滅入る。
 
 *
 
 人と喋ると疲れる。
 それが、見ず知らずの他人であれば尚更だ。
「誰、あれ?」
 冷蔵庫のうえでウトウトと微睡んでいたパンダが僕に訊く。パンダの目線の先には2メートルはあろうかという大男の姿がある。大男は年季の入ったレザージャケットを羽織ったまま、こちらに背を向け、僕の部屋の本棚を眺めていた。
「知らない」
 男に聞こえないよう、小声で答える。冷蔵庫からお茶を取り出し扉を閉めると、衝撃に驚いたのか、パンダの身体がびくんと跳ねた。
「いきなりやって来た。素性は知らない。見覚えもない。僕も混乱してる」
 続けて小声で伝えると、パンダは怪訝な表情で、ふぅん、と首をひねった。
「なんでそんなの、部屋にあげちゃうんだよ」
 ごもっともだった。
 いくら早朝で寝ぼけていたとはいえ、インターホンも見ずにドアを開けるなんて不用心にもほどがある。ましてや、入れてくれ、と頼まれて、素直にそのまま部屋にあげてしまうなんて気が狂っているとしか思えない。
 せっかくの日曜日なのに。
「まあ、いいけど。いざとなったら俺がワンパンで倒してやるからよ」
 と云って、パンダが冷蔵庫のうえで1人、シャドーボクシングの真似事をはじめた。その心意気は頼もしいが、ペチペチという擬音の聞こえてきそうなパンダのパンチでは、猫すら倒せそうにない。
 お茶をコップに注ぎ持っていくと、男が振り返り、それ何茶?と訊いてきた。
「緑茶ですけど」
「カフェインが入ってるやつか」
「まあ、おそらく、少しは」
「カフェインはダメだ。カフェインは受け入れられない体質なんだ。悪いけど、他のにしてくれ。あと、コップもやめてくれ。いくら洗ってあっても、人が一度でも使ったコップは使いたくない」
「はぁ」
 なんだこいつ、と思った。
「なんだあいつ」
 冷蔵庫に戻ると、同じことをパンダが云ってきた。
「やっぱりいっぺん殴ってやらないとダメか」
 パンダは相変わらずシャドーボクシングの真似事を続けている。
 パンダを無視して冷蔵庫からまだ開けていない炭酸水をペットボトルのまま持っていくと、男は頷いてそれを受け取った。
 狭い部屋に大男を立たせたままにしておくのも居心地が悪いので、椅子のうえに積んだ本をどかして、どうぞ、と勧める。
「悪いな」
 男が腰を下ろすと、心なしか椅子が軋んだ気がした。
 僕も、男の向かい側に腰を下ろす。当たり前だけど、椅子が軋んだりはしない。
「で、一体、何の用ですか」
 男に尋ねると、
「五十嵐」
 と素っ気ない返答が返ってきた。
「はい?」
「俺の名前だ。五十嵐。まず自己紹介からだろう、こういうのは」
「はぁ。えっと、じゃあ、僕は」
「あんたの名前はいいよ。知ってるから」
 なんだこいつ。
 パンダじゃないが、殴りたくなってきた。
 殴らないけど。
 負けるから。
「あんたのブログ、読んでるよ」
 炭酸水を尋常じゃないスピードで飲み干しながら、五十嵐が云う。思わぬ角度からの発言に、僕は思わずたじろいでしまう。
「……あ、ありがとうござい、ます?」
「なんで疑問形なんだ」
「なんででしょう」
「俺に訊くなよ」
 その通りだ、と思った。
「あれは、どこまでが作り話なんだ?例えばあのロフトのうえには、本当にパンダがいるのか?」
 男……五十嵐が頭上を指差し、問いかけてくる。
「さぁ、どうでしょう」
「見てもいいか?」
「……まあ、いいですけど」
 僕の返答を待たずに、五十嵐はドカドカと梯子を登っていく。五十嵐が身体を動かすたびに、家全体が軋むような、そんな錯覚を覚える。妙に懐かしい感覚だった。パンダがまだ大きかったころの生活が戻ってきたみたいだ、と、少しだけ思った。
「汚いな」
 ロフトのうえから首だけ覗かせて、五十嵐が云う。
「パンダはいました?」
「いや、いない。本が雑多に積み上がってるだけだ」
「そうですか」
 視線を横に向けると、パンダは冷蔵庫のうえで大人しく座っていた。遠目からだと、本当にただのぬいぐるみにしか見えない。
「パンダの話は嘘だったか」
 ロフトから降りてきた五十嵐が、心底残念そうに呟いた。
 単純に嘘、と云い切ってしまうことに抵抗がある僕は、ただ曖昧に頬を吊り上げる。
 五十嵐はそんな僕を見つめ、はじめてニヤッと笑みを見せた。
「でも、全部が嘘なわけじゃない。なあ、いちごちゃんに会わせてくれないか」
 
「おい、トイレに貼ってあるあれはなんだ?」
 トイレから戻ってくるなり、怪訝な表情で五十嵐が訊いてきた。
「何って……青羽ここなさんとか、雪村あおいさんとか、jinmenusagiですけど」
「なんでそんなものをわざわざ貼ってるんだ」
「えっと、寂しかったから……?」
 コンビニで印刷してきました、と教えてあげると、気味が悪いな、と云われた。心外だった。
「それで、いちごちゃんとは連絡がついたか」
 椅子に座り直すなり、五十嵐がグイと身を乗り出して迫ってくる。
「だから、知らないですよ」
「嘘だ」
「嘘じゃないです」
「いや、そんなはずはない。現に、あんたはブログに書いている」
「だから、」
 何と説明すべきか迷い、もごもごと言葉を濁す。
「とにかく、知らないです」
 かろうじてそれだけ云って、重圧から逃れるように顔を伏せた。埃が層になって、床を白く染めていた。汚い、と思った。
「……いや、すまない。別に、とって食おうってわけじゃないんだ。ただ、俺は、いちごちゃんに会いたいだけなんだ」
 だから、と、さっきと同じことを云いかけて、やめた。
 馬鹿馬鹿しい。
 いちごちゃんなんて人間はこの世に存在しないのだ。
 存在しない人間に対して、あーだこーだやり合うなんて時間の無駄でしかない。
「あれはね、フィクションですよ。嘘っぱち。有り体に云えばイマジナリーフレンドってやつです」
 自分で云っていて悲しくなる。美少年名探偵。そんな如何にもな人間が、この世界に、現実に、存在して堪るものか。
「ロフトのうえのパンダと同じです。本当にはそんな人は存在しない」
 いや、パンダは本当にいる。ロフトのうえじゃなくて、冷蔵庫のうえに。嘘はついていないが、すべてを語る必要もない、と僕は自分に云い聞かせる。
「違うな」
 しかし、僕の返答を聞いても尚、五十嵐は食い下がってくる。
「何がですか」
「あんたが云っているのは、あんたのブログに書かれているいちごちゃんのことだろ。そうじゃない。俺が会いたいのは、あんたが参考にした、本当のいちごちゃんの方だ」
「は?」
 云っている意味がわからなかった。
「すぐピンときたよ。名探偵なんてとんでもない設定を足してキャラクターを過剰にしたつもりかもしれないが、しかし、それでも読む人間が読めばわかる。丁寧ではあるが、人を小馬鹿にしたような喋り方なんかそのままだ。なんてことない所作もよく観察している。いや、何より、他の追随を許さない、あの美しさこそが何よりの証明だろ」
 まだ理解の追いつかない僕を置いて、五十嵐がまくし立てる。
「えっと、」
「教えてくれ。あんたはどこでいちごちゃんに出会った。どこでいちごちゃんを見た。どこでいちごちゃんを知った」
 五十嵐の瞳はあくまで真っ直ぐで、嘘や誤魔化しを並べているようには、とてもじゃないけど見えなかった。
 ようやく僕の理解が追いついてくる。
「あの、」
「なんだ」
「あなたは、いちごちゃんに会ったことがあるんですか」
「もちろんだ」
 もう一度、いちごちゃんに会いたいんだと、五十嵐が云う。
 もう一度、と。
 
 *
 
 いつ、どこで、なんで、訊きたいことは山ほどあったが、しかし、五十嵐はそれきり何事かを考え込むように押し黙ってしまった。
 奇妙な間が流れる。
 冷蔵庫のうえでパンダがやるか?殴るか?と視線を投げかけてきたが、無視する。
「腹が減ったな」
 と、突然、五十嵐がそんなことを云い始めた。云われて、僕も自身の空腹に気がつく。時計を見ると、もうすぐ12時だった。朝から何も食べていない。
 飯にしよう、と五十嵐がたちあがった。俺は?という顔をするパンダを放って、僕たちは外に出た。
 
 近所の定食屋に入って、僕はニラ玉定食を、五十嵐はタンメンを、カウンター席に並んで、食べる。
「それ、いちごちゃんの影響か?」
「はい?」
「好きだったろ、ニラ玉」
 ああ、と僕も納得する。納得して、逆にモヤモヤする。
「本当に、会ったことがあるんですね、いちごちゃんに」
「だからそう云ってるだろ、ずっと」 
 今からでも、いちごちゃんの好物はニラ玉じゃなくてとんかつだったことにならないかな、と思った。本当なら、僕が思えば、そうなってもおかしくはないはずだった。いちごちゃんが僕の脳内だけの存在であれば。
 しかしいくら願っても、いちごちゃんの好物はとんかつではなく、ニラ玉だった。
 五十嵐が、ここに来る道中で購入したミネラルウォーターをゴクゴクと飲み干す。出された水には頑なに口をつけようとしない。それどころか、面倒くさがる店員にわざわざ割り箸を持ってこさせる横暴ぶりだった。
 しかしそうは云っても、食器は店のものをそのまま使っているし、どうにもちぐはぐな感じは拭えない。
 そのことをやんわりと指摘すると、
「いいんだ、徹底的にやる必要はない。すべてを徹底するなんて不可能なんだ。疲れてしまうんだ。だから、できる範囲で、自分を納得させるんだ。それでいいんだ」
 と云われてしまい何も返せなかった。
 五十嵐もそれ以上は何も云ってこなかった。
 しばらく無言のまま、食事だけ続いた。
 五十嵐がスープまで綺麗に飲み干し、僕が最後の米粒を口に運び終えると、ようやく五十嵐は口をひらいた。
「ブログ、最近、あまり更新してないな。なんでだ?」
「何ですか、突然。まあ、そりゃ、僕だって、忙しいですから」
「本当か?」
 僕を問い詰める五十嵐は、ニヤニヤと気味の悪い笑みを浮かべている。
「……何が云いたいんですか?」
 いや、と、案外あっさり五十嵐が引いた。
 五十嵐は自前のミネラルウォーターを口に含んでから、
「混んできたな。出ようか」
 そう云い、伝票を持って一人でさっさとレジへ行ってしまった。
 なんだかペースが狂う。人と喋るのは疲れる。この感じは嫌いだった。
 
「……ごちそうさまです。お礼と云っちゃなんですが、駅まで送りましょうか」
 一刻も早く五十嵐と別れてしまいたくて、僕は自ら提案した。僕は疲れていた。せっかくの日曜日なのに。冷蔵庫には昨日買ったサンドウィッチもあるのに。
 そして何より、僕以外の人間がいちごちゃんのことを認識して、気にかけ、会いたいとまで想っているこの状況が、僕には我慢ならなかった。
 本当に好きなものは僕だけが好きでいればいい。
「いや、大通りまででいい。そこまで案内してくれるか」
 云われたとおり大通りまで五十嵐を案内すると、五十嵐は迷う素振りなくタクシーを停め、後部座席に乗り込んだ。
 移動手段に躊躇なくタクシーを選べる人間だ、と思った。移動手段に躊躇なくタクシーを選べる人間はどちらかというと嫌いだった。
「家、近いんですか」
 窓ガラス越しに、声をかける。
「教えない」
 五十嵐の返答はあくまでも素っ気ない。
「僕の居場所は知っているのに、不公平だ」
「不公平が嫌だったら、自分で動くしかない。そういうふうにできてるんだ」
 五十嵐はそう云って、深く座席に身体をもたれかけた。それから、顔だけをこちらに向けた。
「思ったんだが、」
「なんです」
「俺たちは目的を共にする仲間なんじゃないか?」
 五十嵐の言葉に、思わず僕は息を呑む。
「あんたもまた、いちごちゃんに会いたいと思っている。違うか?」
「……」
 今度は意識的に沈黙した。
 何も云わない僕を見て、五十嵐がふっ、と笑う。
「まあ、いい。また来るよ」
 ブログ、更新しろよ。必ず読むから。
 そう云い残して、五十嵐の乗るタクシーは去っていった。
 
 コンビニでビーフジャーキーを買って帰った。
 部屋の扉を開けると、珍しくパンダが玄関先で待っていた。
「おお、無事か?殴られたか?殴ったか?殺したか?裂いた?埋めた?沈めた?」
 関一番、オロオロとパンダが矢継ぎ早に尋ねてくる。小さくなっても、パンダの頭の中は相変わらず物騒だった。
「ビーフジャーキー、買ってきたよ」
「お、俺、それ、好きだ」
 パンダの質問を全部無視してビーフジャーキーを一切れだけ渡すと、パンダは嬉しそうにそれに齧り付いた。
「う、うまい……」
 咀嚼するたびに、パンダが感動に打ち震える。パンダは何を食べても感動する。感受性が豊かなのだ。僕はここしばらく、何かを食べて感動したことがない。食事は億劫だ。それに退屈だ。いちごちゃんはどうだっただろう?と考えてみたけど、何も思い出せなかった。たくさんの、とてもとても長い時間を、確かに僕はいちごちゃんと生きてきたはずだったのに、何一つとしてうまく像を結ばなかった。
 ただ、何を感じたのかだけは、はっきりと覚えている。
 ビーフジャーキーを食べ終えたパンダが、もう一切れくれ、とねだる。かわりに軽くデコピンしてやると、パンダが大袈裟にゴロゴロと転がって、僕はそれを見てちょっとだけ笑った。

いとうくんのお洋服代になります。