アイドルタイムいとぶろ①
2020年9月26日(土)雨、滅入る。
✳︎
永遠かと思われた夏が終わった。やがて冬が来るだなんてとても信じられなかったけど、そんな僕の不安を他所に、世界はきちんと時間を進めた。正しく季節は移ろった。
色々な物事が恐ろしい速度で進んでいく。
気がつけばもう一年が経とうとしていた。
もちろん、世界は勝手にその速度を速めたり緩めたりしない。全部が全部、はじめからここまできちんと正しい速度で進んでいる。間違えているのは僕のほうだ。何を書いても、何をやっても、何を考えても、なぜかなんの進歩も成長も飛躍もない。
半袖がちょっと寒かった。
「神保町なんて、久しぶりに来ました」
焼き鳥をかじりながら、なんとなしにそう漏らす。
「そうなんですか?」
「古本屋なんて、もう数年行ってないですし、当たり前ですけど、この辺にアホみたいに乱立する出版社にも用なんてないですから」
「すいません、私の都合でこんなところまで呼び出してしまって」
漫画家が、申し訳なさそうに頭を下げる。
「いや、いいです、全然、暇なんで」
悲しいことに、事実だった。
チェーンの焼き鳥屋で、一本百円もしない鳥の死骸を咀嚼しながら炭酸の抜けたジンジャーエールを流し込む。口のなかでガリッと音がした。骨かなにかが混ざっていたらしい。ささやかな出来事ではあるが、今の僕の気分を滅入らせるには十分だった。
「しかし、元気そうで安心しましたよ」
「私ですか?」
「前に上野で飲んだときは、今にも死にそうな顔をしていたので」
「ああ、あれは」
恥ずかしいですね、と漫画家が笑う。つられて、僕も一緒に笑った。
「あれから、漫画のほうはどうですか」
「書いてます。実は、今日もさっきまでネームを見てもらっていて。うまくいけば、今度の連載会議にかけてもらえそうです」
「おお、それは」
一拍おいてようやく、おめでとうございます、という言葉を吐き出すことができた。
「いや、まだ、連載が決まったわけじゃないので。これからです」
あ、そうだ、と、漫画家がバックパックから紙袋を取り出した。
「実はこの前、ちょっと大阪に行ってきまして、今日はそのお土産を渡そうと」
手渡された紙袋のなかには、通天閣を模したチョコレートが入っていた。駅の構内で買えるようなやつだ。
「大阪は、旅行ですか?」
「はあ、まあ、そんな感じですね」
あまり深くは触れられたくないのか、漫画家の返答はどうも煮えきらない。僕もそれ以上は追求する気にはならず、素直にお礼だけ述べた。
漫画家が嬉しそうに、串カツって、あれ、美味しいんですねぇ、と頷いた。ちょうど店員が新しい焼き鳥を運んできた。
それから、漫画家とはたわいもない話をして時間を潰した。最近面白かった漫画や映画の話。才能を信じない編集者への愚痴。Twitterで嫌いな人間の悪口。いつか書きたい物語のこと。最近調子が悪い家電について。いつか旅行したい街。学生時代の話。学生時代に入っていた部活。好きなアイスの種類……。
二人ともずっとシラフのままそんな話を延々と繰り広げた。漫画家は珍しく饒舌だった。それに反して、僕は漫画家の言葉に頷くだけで、自分から何か言葉を発することはほとんどしなかった。なんでそんなに楽しそうに喋ることができるのだろう、と、そのことが不思議だった。
僕も楽しそうに喋ってみたい、と思った。
「あ、この曲、知ってます?ヒプノシスマイクっていう、今度アニメにもなるらしいんですけど」
「いや、すいません。僕、あんまり知らないんですよ」
話題が店内でかかっている音楽の話に移ったところで、そろそろ、という空気が充満して、僕たちはどちらが云うでもなく、席を立った。
外は寒い。そして、もうすっかり暗かった。
JRでしたっけ?と訊かれて、頷くと、それでは駅まで一緒に行こうということになって、僕たちはだらだらと歩いた。とぼとぼと歩いた。シラフなはずなのに、僕の足取りはなぜかふらふらとしていた。
僕は少し前を歩く漫画家の姿を見失わないように、それだけを意識して、足を動かした。
漫画家が背中越しに、そういえば、と思い出したように話しかけてくる。
「私、引っ越すことにしました。あの家はもう、売ります。日当たりのいいアパートに住みます」
僕はあの、人工的なまでに薄暗い平屋を思い出し、それがいいですよ、と云った。
「暗くて寒いところは居心地はいいですけど、でも、そんなところで暮らすのは不健康ですから」
「本当にその通りですね」漫画家が振り返り、それから、恥ずかしそうに笑う。
駅について、僕たちは別々のホームへ降り立った。別れ際、漫画家は「ブログ、更新してくださいね。必ず読みますから」と云った。僕は軽く会釈で返した。
*
家に帰ると、冷蔵庫の上でパンダが寝ていた。
横っ腹を指でつつくと、目を擦りながら、億劫そうに顔をこちらに向ける。
「なに?」
不機嫌そうなあくびをする。
「ただいま」
「おう、おかえり」
それだけ云うと、パンダはまたゴロンと転がって、すぅすぅと気持ちよさそうに寝息を立て始めた。
こんなところで寝たら風邪を引くと思い、起こさないよう慎重にパンダを掴んでパンダが寝床にしているカラーボックスに運んだ。うえに正月にエンダースキーマで買い物したときに貰った手拭いをかぶせる。パンダは相変わらず、すぅすぅと寝息を立てている。
昔は僕の二倍以上大きかったパンダも、今では両手で隠れるほどに小さくなってしまっていた。
理由はわからない。ゴールデンウィークを超えたあたりから、パンダは少しずつ、だけど確実に、その身体を縮ませていったのだ。
ロフトを占拠し、いつか怒りのあまり壁に穴をあけるんじゃないかと怯えていた日々がもうずいぶん遠い昔の出来事のようだった。代わりに、床をうろちょろ駆けずり回るパンダを誤って踏んづけてしまわないか、そのことばかりを心配するようになった。パンダは「踏んだってかまわねぇよ?俺、それくらいじゃ潰されないし」と嘯いているが、しかし、その身体はやっぱり、僕からすればひどく頼りない。
カラーボックスで眠るパンダ眺めながら、冷蔵庫の緑茶を飲む。なぜだか、妙に切なかった。不思議と情けなかった。
次にあの漫画家と会うのはいつになるのだろう?そのとき、漫画家はどうなっているだろう?僕はどうなっているだろう?、とそんなことをぼんやりと考える。電球がばちばちと点滅した。クーラーをつけてもいないのに、室内は肌寒くて、思わず腕をさする。
パンダの鼻を指でつまむと、苦しそうにパンダがううんと唸った。なんて儚い命なんだ、と僕は改めて驚愕する。指を離すとパンダの胸が大きく膨らみ、それからまたすぅすぅとおだやかな寝息を立てはじめた。
その音は耳を澄まさないと、とてもじゃないけど聞こえやしない。
いちごちゃんに会いたかった。
いとうくんのお洋服代になります。