お返事 ー教養のエチュード賞ー
ある真夜中に、お手紙が届きました。
差出人のお名前に、驚きと嬉しさが渦まきました。しかし、封を開けようとした指がひた、と止まりました。
私はその方に不釣り合いな文章を届けていました。
これはそのお返事のようでした。
自分の半生を書き出しただけでも、過ち、欲望、打算にまみれたそれは、彼に不快感を与えたかもしれません。
なぜなら、画面から滲み出る彼の生き様や人柄は、まるで一筋の光のように凛としていましたし、私のものとは明らかに真逆の色をしていました。
私は、彼の拒否や拒絶を脳内に浮かべながら、恐る恐る封を開けたのです。
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昔、観たドラマのヒロインの口癖を思い出します。
「人生で一番大事なのは義理。」
愛でも希望でもなく、義理よ。そう言い切る彼女には、ヒロインが持つべき華が見当たらず、多少戸惑ったのを覚えています。
代わりに彼女の中に見たのは、地に根を深く張り、そこから天に向かって伸びる一本の竹のような強さでした。
そう、私が画面越しの彼に見た一筋の光のような強さ。
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身勝手な人生を、生きてきました。
自分本位に、強欲に。
けれど大人しく物分りの良い薄皮をまとって。
緻密に編まれたレースのような棲み家に、朝露を乗せてきらきらと演出し、その奥で息を潜めていると、感じるのです。
誰かの気配を。微かな振動を。
すると私はあの薄皮をまといます。
とびきり無垢な笑顔を浮かべて、こんにちは、と笑うのです。
それが、私の生きる術でした。
その笑顔の真下、体の内側に私は深く黒い穴を抱えていました。暗く、深く、黒い穴です。
はじめの頃は、その闇に、食べ物や飲み物を注いだり、音楽や童話を注いだりしましたが、それらは吸い込まれていくばかりで、私の期待する音すらくれませんでした。底の気配すら感じさせてくれませんでした。
ある時、だれかと向き合う恋愛をして、その穴が満ちていくのを感じました。
初めて、底が見えた気がしました。
もうこれで大丈夫だと思いました。
解放されたと思いました。
しかし、穴はゆっくりとそれを呑み込んでゆくのです。愛情や信頼や自信をも、ゆっくりと。
やがて穴はまたあの黒々しい色を取り戻し、今度は鳴くようになりました。
味を知ってしまった穴は、もっと、もっとと鳴くのです。
疲れ果て、干からびてしまった人を置いて、私は次を必死に探し回りました。
もっと、もっと。もうひとり。
腹を空かせたうめき声は太さを増しながら、深い闇から這い上がってきます。
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ある時、目にしたのは『教養のエチュード』というフレーズでした。
私はみぞおちが軋むのを感じました。
そのみぞおちから直結しているあの穴の存在を思い出しました。
長年、被せていた重く分厚い蓋をぐっと持ち上げ、覗いてみたのです。
中には、あの人やあの人がいました。
涙やため息や怒りや虚しさが転がっていました。
ひとつひとつを、ひとりひとりを直視して、あの日の自分を直視しました。ひんやりとした空間を直視しました。
悔やむことから始めました。
少しずつ言葉にして、何度も読み返して、悔やみました。
軋むみぞおちを押さえると、しこりのようなものが手の平に触れました。
あのヒロインの言葉が私に付きまとうのは何故でしょう。
闇に閉じ込めた過去を今、掘り起こすのは何故でしょう。
みぞおちの痛みを押さえながらも、書き起こすのは何故でしょう。
真夜中のカーテンに包まれながら、私は手紙を読み干しました。
手紙の中には、人生も愛も何も何ひとつ解っていなかった幼い私に寄り添う人が見えました。
他人を傷つけた事実が刻み込まれたこのみぞおち。
その軋みや疼きを抱え続ける覚悟に、寄り添う人の体温を感じました。
『教養のエチュード』というフレーズに引き付けられたのは何故でしょう。
もしかすると、『教養』とは人格で、『エチュード』とは人生だからなのかもしれません。
だから、私は書いたのかもしれません。
嶋津さん、お忙しい中、お手紙を下さり本当にありがとうございました。
ぇえ…! 最後まで読んでくれたんですか! あれまぁ! ありがとうございます!