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2022年02月27日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「果実は命の広がり」

聖書:マルコによる福音書11章12-14節

おはようございます。もうすぐ3月、春です。春と言えば桜ですが、ソメイヨシノにはまだ早いですよね。福岡では3月の終りから4月にかけて咲きます。ですから、幼稚園の園長をしているときには、もうちょっとどっちかに寄って欲しい、と思っていました。もうちょっと早ければ卒園式の頃に満開。もうちょっと遅ければ入園式に満開。その間くらいに咲くんですよね。でも、きっと今頃から山桜は少しずつ咲き出します。山道を車で運転していると、ところどころに桜の花が咲いているのが見えます。あれって、本当に「ところどころ」なんですよね。一面に、とか一帯にではなく、ポツ、ポツ、と桜の木があるのです。「何でだろう?」って考えたこともあったのですが、多分こういうことなんだろうと思います。ソメイヨシノはきれいな花を咲かせますが実はなりませんよね。でも、山桜は熟すと黒っぽい実をつけます。その実には当然「種」があります。きっとその実を鳥が来て食べるんですね。そして種も一緒に飲み込む。そして尾籠な話で申し訳ないのですが、その鳥が飛んでいってどこかで糞をする。トイレなんてありませんから辺り構わず糞をする。その糞の中に種もあって、そこで発芽して大きくなって木になってそこでまた花を咲かす。だから山桜の木はあちらこちらにポツポツをあるわけです。つまりね、植物にとって実というのは動物に食べてもらって、それで新しい命を運んでもらうためにあるわけです。そして鳥って本当にそのタイミングをよく知っていますよね。植物と動物は本当に良いタッグで命を守り合っているわけです。動物は食べることで命を守り、植物は食べてもらうことで命をつなぐ。今日は「果実は命の広がり」という題ですが、そういう事です。そして今日の聖書の箇所もその「広がり」について語られています。

さて、それで今日の聖書の箇所ですが、この箇所は若かった頃、「イエス様って短気」と思い、「ちょっと理不尽じゃない?」って思っていた箇所です。だってです、朝に道を歩いていてお腹が空いていて、そこに無花果の木を見つけて実を探したけれど、実が無かったので「もうお前の実なんて誰も食べられんようにしてやるからな!」なんて捨て台詞を吐いた訳です。でも、聖書には「いちじくの季節ではなかった」と書いてあります。すると翌日(マタイによる福音書では即座に)、その無花果は枯れてしまった。これはもうイエス様が呪って枯らしてしまったと言って良いです。何か理不尽ですよね。今と違ってハウス栽培なんてありませんから、季節に合わせて果実はなるんです。食べたいときに食べられないから枯らしたとか、どれだけイエス様はお坊ちゃんか!とつっこみたくなります。

確かにイエス様は空腹でした、「イエスは空腹を覚えられた」と書いてありますから。しかし、そこでイエス様は短気だ、という話にするのも少々短絡的でもあります。ちょっと背景から考えて行きましょう。この箇所の最初に「翌日、一行がベタニアを出るとき」と書かれています。つまり、イエス様一行はベタニアという村で夜を過された、ということになります。その前の11節でも「こうして、イエスはエルサレムに着いて、神殿の境内に入り、辺りの様子を見て回った後、夕方になったので、十二人を連れてベタニアへ出て行かれた。」と書かれています。エルサレムはイスラエルの首都です。日本で言えば東京です。何でもあります。食べる所も、泊まる所もあったでしょう。しかし、夕方になった時にイエス様一行はベタニアに行ったのです。そしてベタニアというのは「貧しい者の家」という意味の村です。その名の通り貧しさの中で生きていた人たちがいる場所です。大都市の側にはダウンタウンがあるものです。都会から逃げ出した人たち、追い出された人たち、そこで隠れ住んだ人たちがいます。同じマルコによる福音書の14章3節にこんな事が書かれています「イエスがベタニアで重い皮膚病の人シモンの家にいて、食事の席に着いておられた」。何気ない言葉ですが、重い皮膚病の人って、当時律法で村から追い出されていました。他の人に移らないように、って。そういう人たちは一般の村から「汚れている」と言われて追い出されて、隔離されていました。ところがこのベタニアには「重い皮膚病の人」がいたのです。つまり、ベタニアとは追い出され、隔離され、汚れていると言われていた人たちが住んでいた村、ということになります。そしてイエス様は敢えて、その村で寝泊まりしていたのです。そもそもイエス様はガリラヤの出身です。イスラエルの端っこ、貧しい村々があり、イスラエルの中では馬鹿にされるような地域です。その中で更に貧しい者や痛んでいる者、悲しみの打ちひしがれた人たちのところを回っておられ、「しんどいなぁ、辛いなぁ、でも、神様は一緒だよ」って希望の福音を語り、イエス様自身もまたその福音になって共に生きられていました。だからこそ、イエス様はこのベタニアを選んで生きられた。眩しい都会にいるきらびやかな人たちの贅沢な暮らし、そんなエルサレムになんていられなかった、というのもあっただろうと思います。で、ベタニアです。ここで夜を過した。そして、朝エルサレムに行こうとしたがお腹が空いていた。これはつまり、ベタニアは貧しくて朝ご飯なんて出してあげられなかった、ということです。だからイエス様の空腹というのは、その人々の暮らしを身に受けていた、ということです。村の人たちと同じ気持ちになっていたのです。

じゃあ、それを無花果にあたって良いのか!というとそう事ではないのです。イエス様は実の無い無花果にエルサレムを見たのです。葉が生い茂る木は、着飾り、姿形、外聞ばかり大事にするエルサレムの姿です。どんどん蓄えて肥え太ってゆく町や町の人たちの姿です。

先日いつも給油しているガソリンスタンドが一リットル160円になりました。一年前は「ガソリン2,000円分お願いします」と行ったら店員から「満タンにしても2,000円までいきません」と言われていたのに、先日は2,000円入れてもメーターの目盛りはまだまだ余裕がありました。少し前に国がこの原油高について「支援します」と言っていましたが、全然安くなりません。支援してくれていないのでしょうか。そうではありません。石油会社は支援を受け取っても、それをそのまま利益にして、高いまま売っているのです。だから庶民には何の見返りもなく、高いガソリンを買わなくてはならないのです。つまり会社は利益のためこみをしているのです。社員の給料が上がらないのも、いろんな会社がどんどん蓄えて社員の給料を上げないからです。会社ばかりが肥え太って、人に利益を還元しない。

エルサレムとベタニアの関係と同じですよ。イエス様は今、ベタニアの人たちと同じ気持ち、空腹でいます。そして無花果に実を求めた。でも、そこに葉っぱは立派に茂っているけれど実は無かった。肥え太っていたけれど分かち合う実は無かった。命を活かし合う実は無かったのです。エルサレムの姿と同じです。

いや、時を待てば実はなる、と思うかも知れません。その季節を待ったら、その時を待ったら、きっと実がなるはずです、って言うかも知れません。でもね、それで今の時代の人たちは生きる事にも困っているんじゃないでしょうか。会社が潤って満たされた時には、社員にももたらされ、そして社会が潤い、景気がよくなりますよ。その時を待ちましょう。そう言われて一生懸命に頑張って生きてきても、ぜんぜんその時は来ない。来たのはコロナ。それで逆に景気が下がって、生活はもっと苦しくなってしまっている。そして出てくるのは「自粛」という言葉だけで後は自己責任です。会社も国も財布の口は開けない。季節が変わる、時代が変わる、でもそれはいつ?そんな季節、そんな時代はやって来ません。何故なら、経済的な豊かさはいつも何かを踏みつけにしています。そしてその豊かさを大切にする間は、ベタニアの人たちは貧しさの中に生きるしかないのです。イエス様の空腹が踏みつけられた者の貧しさを表しています。

だから、イエス様は怒るのです。それは空腹から来ているのは否めません。でも、その空腹はベタニアの人々の現実を身に受けた事によるのです。そしてわたしはこのイエス様の怒りに慰めを頂くのです。声の届かない小さな者の痛みを自分の痛みとされるイエス様は小さな者の命を決して見捨てず、その声を聞き逃さない、通り過ぎない方である事を思うからです。神様の愛は小さな者に向けられ、そして同じ高さ、いや低さに立たれ、そしてそこにこそ神様の伴いがあることをイエス様は示しておられるからです。

そしてこの実のない無花果への訴えは、私たちに生き方を示しています。命というものは分かち合って共に生きるものだよ、という事です。蓄え込んで自分ばかりを豊かにしようとする生き方は、滅びへと向かう生き方です。それはこの国の今向かっている道でもあります。

イエス様はベタニアの人たちと共に生きようとされました。それは重荷を負う者の重荷、悲しみの中にある者の悲しみ、罪の呵責に苦しむ者の罪、貧しさの中にある者の貧しさを一緒に負って歩もうとされた生き方でした。そして、それは十字架の死へとつながります。その際、イエス様は最後の晩餐でパンを取り「これはわたしの身体である」と言われ、弟子たちに与えました。イエス様は私たちに恵みを分かち合って生きよ、とその実を私たちに与えられています。また、イエス様は語っておられます。ヨハネによる福音書12章24節「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。」その種が地は落ちなければ新しい命を宿すことはないのです。地に落ちて、つまり悲しみも悩みも罪の呵責も弱さも抱えて生きられたイエス様の十字架の死は、神様の愛は、私たちの全てを抱え、赦し、活かすものであることを示し、そしてそれによってその命の種が私たちの内で新しい命を宿し、新しく生きる力となっているのです。

私たちは時をよく見なければなりません。時代をよく見なければなりません。その上で、今はこんな時代だから、と諦め、まだ妥協するのではなく、この時、この時代にあってイエス様の歩みに従って行く事が求められています。時代は自己責任です。富が全てです。蓄える事が豊かさです。でも、私たちはその中にあって、今は無花果の季節では無い、と諦めるのではなく、貧しさや悲しみ、虐げや踏みつけの中にある人々の声なき声に耳を傾けながら、歩んで行きたいと思います。何故ならイエス様はそこで神様の愛を語られ、そこに生きられたからです。命の広がりを信じ、信仰によって神様から与えられた恵み、その果実を分かち合ってゆきたいと

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