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2022年03月13日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「バチは当たりません」

聖書:マルコによる福音書14章17-21節

先週の金曜日、3月11日は東日本大震災から11年の日でした。この月日を長く感じるか、短く感じるか、は人それぞれだと思いますし、その状況によっても違うと思いますから一概には言えません。そしてあの日、悲しみや困難で傷ついた心の癒やしも一人ひとり違いますから、未だに深く傷ついている人もいるでしょう。いろんな傷があるでしょう。これは阪神淡路大震災の時の事ですが、家族が皆亡くなられてしまって一人助かった方が「私だけが生き残ってしまった」と自分が生きている事を悔いておられる方があったと聞きました。また、東日本大震災で大きな津波が来た時に家族の手を離してしまって、その家族が流されてしまった事を後悔されたという話も聞きました。大きな傷だろうと思います。家族を失った悲しみも「自分も死ねば良かったのに」とか「あの時、手を離さなければ」という後悔もその人だけのものです。だから誰もその心に気軽に触れてはいけないし、誰もその心を癒やす事は出来ないだろうとも思います。大きな悲しみの前で私たちは無力です。私たちに出来るのは、イエス様がその人に寄り添い、その心を癒やし、生きる希望と力を与えられることを願うだけです。何故なら、イエス様だけはその人の悲しみも痛みもその後悔の思いさえも知って下さっているからです。

さて、今日の聖書の箇所なのですが、今日の聖書の箇所はイエス・キリストが十字架で死なれる、その前の晩の食事の場面、いわゆる「最後の晩餐」での話です。そこにはイエスと十二人の弟子がおりました。その時に、それが“最後”の晩餐になることを知っているのは二人だけでした。一人はイエス様ともう一人はイエス様を敵に売り渡そうとしているユダという弟子です。あとの弟子たちにとってはいつもの食事です。ユダが何でイエスを裏切ろうとしたかは書かれていません。ただ、後から大きな後悔をしたことが福音書のあちこちに書かれている事から、ユダの目当ては裏切ってお金を手に入れる事ではなかったとも言われています。例えば、イエス様が捕らえられそうになった時に、神がかりな力を発揮して敵を圧倒して、この国のリーダーになるきっかけを作りたかった。そのために敢えて悪役を買って出て、「これが私たちの主人であるイエス様にとって必要な事なのだ」と思っていたのかもしれません。ところが、先を読むと、イエス様はそのまま捕らえられ、不当な裁判にかけられ、十字架で死んで行くとこになってしまいます。だからユダは後悔した、とも考える事が出来ます。しかし、それは分りません。ユダが思い描くリーダー像とイエス様が違う事に気づき幻滅したから裏切った、とも考えられます。

さて、その最後の晩餐、食事の席でイエス様は「はっきり言っておくが、あなたがたのうちの一人で、私と一緒に食事をしている者が、私を裏切ろうとしている。」と衝撃的な発言をいきなりします。弟子たちはびっくりします、何故ならこれが「最後の晩餐」であることなど知らないからです。大きな動揺が走ります。そして弟子たちは「それってわたしの事ですか?」「わたしですか?」「もしかして私?」と代わる代わる言います。皆さんは車の運転をしますか?私は車の運転をします。で、運転をしているときに、後方にパトカーが見えたとき、不安になりませんか?パトカーが見えると快適なドライブが急に緊張感に包まれます。何も悪いことをしていないのですからそれまで通りに運転すれば良いのに、ドキドキしてぎこちなくなってしまいます。どうしてドキドキするか。それは、私が完全ではないからです。安全運転や交通規則を破ってしまう時もあるからです。そんな自分がいるからです。スピードがちょっと越えてしまった。一旦停止を見逃してしまった。シートベルトをし忘れた。なんてことはあると思うんですね。そんな自分がいるからドキドキするのです。何か自分の失敗や違反をジッと見られているようで、ドキドキするのです。弟子たちもそうだったと思います。イエス様に従いながらも、ちょっとズルしたり、面倒だなと思ったり、そういう事。「私を裏切る者」と言われて、不忠実で不信仰な自分を思い出してしまって「もしかして私がやっちゃうんじゃないだろうか」って不安になる。

しかしそんなふうに「まさか、わたしのことでは」とみんなが言うのに対してイエス様は「わたしと一緒に鉢に食べ物を浸している者がそれだ」と言われます。一つの器を共有するのですから、それは正確にはイエス様の右隣か左隣、もしくは正面、その左右ということになります。でも、そんな事を言っているのではないのです。近い者ということです。一番近くにいる者です。そして大きなものほど近くにいると逆に全体が見えないもの何ですよね。木を見て森を見ず、という言葉がありますが、木がたくさん茂っている森のなかの一本の木だけを見ている、そしてそれが全てだと思ってしまう。ユダは正にそんな感じだったのかもしれません。自分の主人のイエス様の一部分を見てきっと奇跡的な事を行う方だ、と思ったのか、それとも逆に幻滅して見限ったのか。

信仰において自分に自信がないって大事だと思うんですよね。信仰というのは自分の人生の土台を神様の愛に置くということであって、信じる自分に置くことじゃないんです。それじゃあ、自分を信じているようなものです。自分は弱い、自分は不確かだ、自分には愛がない、だからイエス様に従うのです。そして従い続けるというのは、その土台の上に弱い自分がいるということを思い続ける事なのです。

そしてイエス様は言われます。「人の子は聖書に書いてある通りに、去って行く。だが、人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」。このイエス様の言葉、前半は分ります。「自分が捕らえられ、殺される事は避けられない」って事です。ちなみに「人の子」というのはイエス様のことです。しかし後半の言葉は注意して考えなくてはならない言葉です。それは「人の子を裏切るその者は不幸だ」の「不幸だ」という言葉は厳密には「禍いあれ」という意味の言葉なんですね。だから下手をすると「私を裏切る者には禍いが降れ!そんな人は生まれない方が良かったのだ!」って読めちゃうんです。イエス様ってそんな方だったっけ?イエス様は悲しむ者、罪を犯した者、虐げられ追い出された者、希望を失った者に「神様はあなたと共におられるよ。私も一緒だよ」って言葉に於いても行いに於いても愛を示された方でした。その愛故に、人の罪を負ってこれから十字架の死をとげられる、というその前に「ユダよ、お前は呪われよ!」ってどういうことでしょう。

旧約聖書にヨブ記というところがあります。ここには神様に忠実なヨブという人が苦しみに遭う、ということが書かれています。信仰深いのに禍に遭う、それは信仰の深さや強さとこの世における幸福は必ずしも一致しないということを伝えています。それは因果応報の否定、「悪いことをしたら罰を受ける、報いを受ける」という事柄の否定です。ところがイエス様はイエス様を売り渡そうとする者に「禍あれ!」というのです。「私を十字架に付けようとする者にバチが当たれ」「犯した罪の罰を受けよ」というのです。イエス様らしくないし、旧約聖書のヨブ記の考え方とも正反対であり、それまでのイエス様の姿ともかけ離れています。むしろこの言葉は、こののち後悔するユダ自身にこそ相応しいのかもしれません。「人の子を裏切るその者は不幸だ。生まれなかった方が、その者のために良かった」と言われたイエス様の言葉は、ユダが裏切った後に後悔しながら「イエス様を裏切った私は禍だ。バチが当たればいい。私なんて生まれない方が良かったんだ」と自分を責めるユダの思いそのものです。

私たちも、悪いことをしてしまった時、大きな失敗をしてしまった時、大事なところで選択ミスをしてしまった時、私たちも後悔し、自分を責める事があります。「なんて事をしてしまったんだ。私には生きている価値はない」そんな風に自分を責めてしまいます。でもね、ヨブ記にある通り、残念ながらバチなんて当たらないのです。後悔する者にとっては、不幸が、罰が、バチが当たった方がきっと楽になれるだろうと思います。でも、因果応報などというものはないのです。でも、それではその後の人生、苦しいだけです。だからイエス様が語られたのではないでしょうか。ユダがやがて叫ぶ「イエス様を裏切った私は禍だ。バチが当たればいい。私なんて生まれない方が良かったんだ」という言葉も、そして私たちが「なんて事をしてしまったんだ。私には生きている価値はない」という叫びも、イエス様は先だって代弁して下さったのでは無いでしょうか。『あなたはきっと自らこう言うだろう「イエス様を裏切った私なんて禍が起こったら良いんだ。私なんて生まれなければ良かったんだ」って。確かにそうだね。バチが当たったら、自分に悪いことが起こったら少しは楽になれるかもしれない、って思うその気持ちは分るよ。でもね、バチなんてあたらない。神様はあなたにバチなんて当てない。だって神様はあなたを愛しておられるんだから。因果応報なんてないんだよ。第一その重荷、自分で負えるかい?自分で自分の罪を背負いきれるもんじゃない。その先にあるのは死だよ。だからね、私はこの道を進むのだよ。だからね、あなたたちの罪を背負って私は十字架の道を進むのだよ。』イエス様は、ユダがやがて後悔するその後悔の門口に立って待っておられるのです。呪いの言葉をユダの代わりに語り、そしてそれさえ引き受けて十字架の道へ進まれるのです。

私たちは何か辛いことがあったら、苦労があったら、悲しみがあったらその理由を考えてしまいます。それは「これは何かの罰だ」って思いたいのです。でも、誰かのせい、何かのせい、自分のせいにしてしまいたいのです。「これは呪いだ」って「罰だ」って。でも、イエス様はそんな事柄も、そんな思いもまるごと受けとめて、背負って十字架に向かわれるのです。

災害が起こる度に、そんな事を言う人や宗教が出てきます。「これは神様の裁きだ」って。キリスト教の一部にもそういう人たちがいます。神様は日本の罪を罰したのだ、って。そして人の悲しみ、人の苦労、人の後悔、そんなものにつけ込んで入信させようとする人たちがいました。私が東日本大震災の後、東北に行ったときに被災され、家族を失った方が、「私はキリスト教が嫌いだ」と言っておられました。それは震災後すぐに、片手に支援物資、片手に聖書を持ってやってきた人たちがあって、「これは神様の日本に対しての裁きだ。悔い改めましょう」と言って、支援物資と聖書を渡した、というのです。「私たち家族が何をした、というのだ。キリスト教は嫌いだ」と言われていました。とても残念で、罪深い事です。大事なのはその悲しみに寄り添い、その苦労をねぎらい、その後悔の重荷を一緒に負って下さる十字架のイエス様を指し示し、そのイエス様と共に寄り添い、ねぎらい、一緒に負って歩む事です。イエス様がまず「その重荷、私が負うよ」と言って下さっているのですから。ユダがまだ負っていない重荷を先だって負い、ユダがまだ叫んでいない叫びを先立って叫んで下さるイエス様がいるのですから。
人生に苦労は起こります。悲しみもあります。しかし、それはバチが当たったのではありません。自然災害だってあくまで不定期に起こる自然現象でしかありません。神様が起こしたのではありませんし、ましてやバチが当たったのでもありません。それでも、苦労や困難の中で、負い目があるでしょう。後悔もあるでしょう。でも、自らに裁きを求める必要はありません。バチが当たる事を望む事もありません。そしてバチは当たりません。そこには、ただ一緒に苦しみ叫んで下さる主がおられます。「私は共にいる、だから生きてゆこう。私が一緒に背負うから、それでも生きて行こう」そう命の主は言っておられます。

東日本大震災から11年、未だに悲しみや苦しみの中にある方がおられます。その重荷をイエス様は一緒に負われています。私たちに出来るのは、そのイエス様の姿を見ながら、一緒に歩もうとすることです。私たちには癒やせないその傷や痛みを主が癒やして下さると信じて伴い、共に生きようとすることです。

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