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すべてを包むクリスマス

キリスト教の信者、いわゆるクリスチャンという人々(勿論、私も含めて)は決して判で押したような同じ考えを持っている訳ではありません。いろんな考え方の人がいます。キリスト教の正典である聖書を「一語一句間違えのないものだ」と言う人もいれば、「信仰を持った人が記した文章であるから、間違いも矛盾もある」と言う人もいます。また、「信じないと死んだ後に天国にゆけない」という人もいれば「天国というのは私たちがこの世をどう生きるか、という現実の事柄なのだ」という人もいます。私はどちらとも後者の考え方なのですが、それよりも大事なのは「どちらが正しいか」ではなく「どう信じるかはそれぞれの考え方」ということだと思っています。そしてみんながそのように思えたら、きっと両者は仲良く出来ると思っています。しかし、なかなかそうはならず、時々争いが起こります。信仰というものは、それこそ生き方の問題だから、やっぱり自分と違う主張をされると、自分の生き方が否定されているように感じるからでしょう。「宗教が戦争を起こす」という主張の根本にあるものもこれなのだと思います。宗教がいけないのではなく、神と自分を混同してしまう人間の問題です。落ち着いて!もっとリラックスして!って思います。

「聖書は一語一句誤りのない書物だ」と言う人がいると前述しましたが、こう主張する人は一見、「自分の意見ではなく聖書そのものの考え方である」と言っているように聞こえますが、実はここにも「私の考え」が入り込んでいます。聖書について語る、つまり解説したり説教をする時点で、自分の意見になっています。本当に「聖書のみ」というなら、聖書朗読しかしてはいけないのです。足しても引いてもいけないのですから。けれど、そのような人や牧師も説教をします。

もう少ししたらクリスマス、イエス・キリストの誕生をお祝いする日(誕生日ではない)です。伝統的キリスト教では、イエス・キリストは家畜小屋(馬小屋)で生まれ、そこに三人の占星術の学者(博士)が祝いにかけつける、という出来事が伝えられます。しかし、それは実は聖書的ではありません。聖書には家畜小屋で生まれたなどとは書かれていません。書かれているのは「マリアは月は満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカによる福音書2章6-7節・新共同訳)とあるのみです。その飼い葉桶から「家畜小屋」を連想したのです。同じように聖書には三人の占星術の学者などとは書かれていません。書かれているのは「彼らはひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」(マタイによる福音書2章11節)とあり、宝が三つだったので来たのも三人だったのだろう、という発想です。つまり、教会のクリスマスは「家畜小屋」とか「三人の占星術の学者」という聖書に記されていない事柄で成り立っているのです。私はそれでも良いと思います。でも「聖書は一語一句間違いない神の言葉である」と主張する人達はここで激高しなければならない、と思うのです。「そんなこと、聖書には書いていない!」って。ところが、そうはならない。時には「伝統的なものだから」という。そして、そこに「聖書よりも伝統が重んじられる」という矛盾があることに気づいていないのです。そこを突っ込まずに、処女降誕は間違いない聖書にはそのように記されているのだから、とそこばかり声高に主張する。

クリスマスは聖書の「記されていない伝統」と「記されている伝説」とが折り重なっている。それらを包んでイエス・キリストの誕生はある。もっとおおらかに、もっとリラックスしてクリスマスを迎えたい。信じている者の信じていない者もみんなを包むクリスマス。それで良いと思います。

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