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2022年03月20日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「躓いても一人じゃないよ」

聖書:マルコによる福音書14章27-31節

今読んで頂きました聖書の箇所、これは先週の聖書の箇所でありました「最後の晩餐」の後の場面です。さて、晩ご飯を食べた後にイエス様と12人の弟子たちは祈るために森に向かったんですね。その道でイエス様は言うんです、「あなたがたは皆わたしに躓く」。私たちはどんなときに躓くでしょうか。私は最近、何も無いところで転けてしまうときもあります。足が上がっていないんでしょうね。ただ地面を蹴飛ばして、でも、地面を蹴っても動きませんから、私の方が地面に引っかかって転んでしまう訳です。悲しくなります。でも、若い頃はそんなことはありませんでした。躓くのはそこに何かがあるからです。何かによって躓かされる訳です。そして「躓かせる」という単語を新約聖書の書かれたギリシア語で調べてみましたら、元々は「道に邪魔物を置く」とありました。正にそうですね。道を歩いていて邪魔な物があって、それに足をひっかけて転ぶ、それが躓くということです。それが転じて、ギリシア語では「不快になる」「激怒する」「憤慨する」という意味もありました。確かに嫌な気持ちになります。顔では「転んじゃったよ、あはは」なんてしていても、「誰だよ、こんな所にこんなものを置いて。腹立つぅ!」って思うんじゃないかって思います。

で、今日の聖書の箇所に戻りますが、イエス様は弟子たちに「あなたがたは躓く」と言うのですが何によって躓くと言っているか。それは「わたしに躓く」と言っているのです。じゃあ、イエス様に躓く、ってどういう事でしょうか。それはそこから生まれる感情「不快」「激怒」「憤慨」から分るように、「何でイエス様、そんなことしちゃうんだよ。今まで従ってきたのにもうガッカリだよ。これ以上ついて行けねぇよ」とか、「幻滅、もう立ち上がれんわ」とか、そんな風に思うということ、それが「躓く」ということです。「弟子の皆さん、きっとあなたがたは私にがっかりするでしょう。腹を立てるでしょう。見限るでしょう」そうイエス様は弟子たちに言うわけです。

それに対して一番弟子のペトロは言います。「いえいえ、たとえ他の者が躓いても、私は決して躓きません」。勇ましいですね。強いですね。でもね、実はこのペトロの言葉の中には二つのツッコミどころあります。一つは「たとえ他の者が躓いても」というところ。ちょっと嫌な感じですよね。他の人を引き合いに出して、「他の人は躓くことがあるかもしれませんが」と言っている訳です。これって聞いていた他の弟子は嫌な気分です。でも、ポイントはそこじゃないんです。イエス様が前に行かれ、その後に従う中で、他の弟子が躓く、転ぶ、その姿を見ながらもペトロはそれでもイエス様に従って行くということです。それはつまり躓いている他の弟子たちを見捨てて自分は前に進む、ということです。こぼれていった者は仕方ない、でも私はこぼれないよ、進むよ、と言っているのです。でも、これってどうなんでしょう?イエス様の姿とかけ離れていませんか?だって、イエス様の姿って、正に落ちこぼれていった人たち、もう進めないという人たち、周りから追い出された人たち、罪人呼ばわりされた人たち、裏切り者と呼ばれた人たち、そういう人たちのところに行って、寄り添ったり、慰めたり、一緒に泣いたりして、そして「神様はここにおるよ。あなたと一緒だよ。神様は愛しているよ」って言われた方です。ペトロの姿ってイエス様に従う者のあるべき姿でしょうか。イエス様に従うのであれば、他の弟子たちが躓いた時には、立ち上がるのを助けたり、立ち上がるまで側で一緒にいたり、というのが相応しい姿なのではないでしょうか。だって、イエス様が手本なのですから。しかし、ペトロは「他の者が躓いても私は躓かない」と言い切ってしまう。その強さは既にイエス様に従っていないのではないか、と思ってしまいます。
もう一つのツッコミどころ。それは「私は躓きません」と言い切ってしまえるところです。この事を考える中で一つの文章を思い出しました。西南学院大学の神学部で教授をされていた青野太潮先生が「どう読むか、聖書」という本を1994年に朝日新聞社から出されているのですが、その中にこんな一文があります。

『私はいつも大学での自分の聖書についての講義においては、この批判的なとらえ方の必要性を説くことにしているのだから、あるとき次のような内容のメモを私に渡した男子学生がいた。それにはこう書いてあった。「先生は、長い間自分の専門として聖書学をやってこられた。それに対して、自分たちはそれについて全く何も知らない素人である。そういう自分たちに、先生の批判などできるわけがない。むしろ、まず先生の言われることを受容していくことの方が大切なのではないか」この学生がこのように意見を伝えてくれたことは喜ばしいことであったが、残念ながら彼は二重の誤りをここで犯してしまっているのがおわかりであろうか。まず第一に、彼が主張するように、教師の説をまず「受容」することが彼にとって大切なのならば、教師はここで「批判的になれ」と言っているのであるから、それを受容して、彼もまた批判的にならなければならないはずである。そして実際には彼は、教師の主張を受容することなく批判しているのであるから、事実彼は自らの意に反して批判的になっているのである。それにもかかわらず彼は、受容が大切だと主張しつつ、その主張自体が「批判的になれ」という主張に対しては事実として批判的になっていることに全く気づいていないのである。これが第二の誤りである。』(p153-154)。

つまりね、青野先生の言う事を受け入れようとするのであれば、先生が「批判的になれ」と言われたら「はい、分りました。批判的になります」というのが、本当に受け入れるということなのになぁ、って言っている訳です。
ペトロと同じだと思いませんか?イエス様が「あなたがたは私に躓く」と言われたのに「いいえ、私は躓きません」と言っている時点で、ペトロはイエス様に従っていないのです。本当にイエス様に従っているなら「そうか、私はイエス様にがっかりするのか。憤りを覚えるのか。もうついて行けねえよ、って思うのか」という反応をするということなのです。しかし、そうしないペトロに「おいおい、お前イエス様の言う事に反論している時点で従ってないということだろ!」というのが二つ目のツッコミどころです。

イエス様の姿も見ていない、イエス様の言う事も聞いていない。そして「皆も同じように言った」と最後に書かれている、ということは、弟子たちみんな本当のイエス様を分っていなかった、イエス様に従っていなかった、ということです。みんな、イエス様に自分の理想を背負わせていた。みんな、イエス様に自分の願いを投影していた、ということなんですね。

私は高校時代、寮生活をしていたのですが、その当時、他の寮生から無視されていた時期が一年半ほどありました。寮の中で誰にも話しかけられない、話に加われない、そんな時がありました。本当に孤独でした。寮の中で一番ホッと出来るのは自分の部屋に一人でいる時でした。本当の孤独って一人でいる時じゃないんですよ。人がいるのに自分が理解されなかったり、自分を人として認められなかったりする時なんですよ。きっとイエス様は孤独だったと思いますよ。いつも一緒にいる弟子たちが一番自分の事を理解してくれていない、自分を自分として見てくれていない、自分の理想や願望というフィルターがいつも間にはあるのですから。

そして、そういう自分の理想とか願望を込めた目で神を見ることを「偶像礼拝」というのです。そういうものが戦争でよく使われます。「神は我々と共にいる」「神様は私たちを勝たせてくれるに違いない」って。でも、イエス様は「敵を愛しなさい」って言われています。何故なら、神様はあなたが嫌うあの人も、あなたが憎むこの人も愛しておられるからです。神様はすべての命を愛するために創られたのです。だから、「神様は私の側にいる」って言ってしまった時、それは偶像化が行われているのです。神様の思いは、すべての争いが終わってすべての命が大事にされる事です。ただね、悲しむ者、弱くさせられた者、虐げられた者、差別された者が一番傷つき、希望を失っているからイエス様はそこに行かれるのです。「あなたも愛されているよ。いや、あなたにこそ神様の愛が届くべきだ。だからあなたのところに来たんだよ」ってイエス様は行かれたのです。しかし、弟子たちはそのイエス様を見ようとしません。だからこそ、イエス様は「あなたがたは私に躓くよ」って言われるのです。そして、その言葉の通り弟子たちはイエス様に躓きます。イエス様のところに群衆が押し寄せ、イエス様が捕らえられて行く時に、弟子たちはイエス様を置いて逃げ出して行くことになります。

でも、イエス様はこの「あなたがたは私に躓くだろう」と言われたときに、既にそこに希望も語られています。「しかし、わたしは復活した後、あなたがたより先にガリラヤに行く。」とイエス様は語られています。ガリラヤというのは弟子たちの故郷、イエス様と一緒に過した場所です。そしてこの「あなたがたより先に」という言葉はある訳(田川訳)では「あなたがたを導いて」と書かれていました。私はこの訳に惹かれます。「先に行っているよ、待っているからね」ではなく「さあ、一緒に行こうか」というイエス様をそこに見るからです。

「あなたがたは私に躓く」と言われたイエス様の言葉はただの事実ではなく、そこから私はイエス様の慰めの言葉を聞くのです。「人間、一生懸命になると視野は狭くなるし、自分の理想や願望をそこに投影して正しく見ることが出来なくなるよ。自分の考えや自分の力に頼ってしまう。でもさぁ、人間頑張り続けられないし、自分の理想通りに行かない時もある。躓く事だってあるさ。でも、そこに私はいるよ。その躓いた痛みの傍らに私はいるよ。あなたは一人じゃないよ。その躓いたあなたにこそ神の愛は深く感じる事が必要なのだよ。その時、あなたはまた私と一緒に歩む事になる。私はあなた方を導いて、あのあなたがたが生きた、あの場所ガリラヤに導く。躓いても一人じゃ無い。私はいる。だからまた立ち上がって生きよう。一緒に進もう。私はあなたを愛している。」そんな言葉をイエス様は弟子たちに、そして私たちに語りかけています。弟子たちに理解されず孤独なイエス様。でも、愛はその孤独を打ち破って、私たちの偶像というフィルターを打ち破って、躓く私たちを共に生きる歩みへと導くのです。信じてイエス様と共に進みましょう。

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