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2022年03月06日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「命しか勝たん」

今読んで頂きました聖書の箇所、この箇所を読むと思い出すことがあるんです。以前、ある教会で祈祷会の時にこの箇所を読んだら、そこに参加していた教会員のおばあちゃんが言うんです、「昔は、こんな事、よくあったよ」って。何があったか、というと、今日の聖書の箇所に出てきたサドカイ派の人の話です。つまりね、ある家で長男が結婚したけれど、子どもが出来ずに亡くなってしまった。そうしたら、その家では亡くなった長男の連れ合いを次男と結婚させたとかいう話です。日本も家社会でしたからね。というより今もそうですけど。だから、未だに選択制夫婦別姓に踏み切れない訳です。家とか名前を継ぐとか、そういうことに強いこだわりがあります。例えば男女で結婚するときに、男性が女性の名字を名乗るようにするとすぐに「養子になったの?」「婿入りしたの?」みたいな話になるでしょ?現行の法律では「どちらかの姓を選ぶ」となっているだけで、男性の姓になるなんて事は謳われていないのに、私たちの頭の中では「男性の名字を選ぶべき」という事柄がすり込まれてしまっています。それは家制度の強さの表れです。そして子どもが出来たら「家を継ぐ」みたいな考え方をする。だから、選択制であれ別姓になって「家」や「名字」が途絶える事を恐れるのです。日本人はこうあるべきだ、という事が強いから、それぞれの選択を赦さないのです。それだけ、この国では「家」とか「名前」に対するこだわりが強いということです。そしてそういう意味で子どもの存在は大事です。「何とかして跡継ぎを」と思う。それで、長男の家庭に子がなければ、そのパートナーが次男とか三男と結婚させられて、家のために子を得なければならなくなる訳です。これは家社会の問題であり、そして同時に男性中心主義の問題でもあります。男女平等ということを大切にするなら、まずこの家中心の考え方を崩さないといけない訳です。選択制夫婦別姓が進まないのは家制度、そして男性中心の考え方がはびこっているからだからです。聖書時代のイスラエルと2000年経った今の日本と同じような考え方である事は非常に残念な話ですし、それによって悲しむのはいつも女性なのです。

さて、今日の聖書の箇所に出て来たサドカイ派の人の譬えはその男女の問題が中心ではありませんでした。旧約聖書は復活をどう語っているか、という事柄でした。イエス様のいたイスラエルの宗教はユダヤ教でしたが、このユダヤ教の中にもいろいろと考え方の違いがありまして、このサドカイ派の人たちは「死んだらそれでおしまいよ」という考え方でした。身体とは別に霊があるなんて信じていません。霊がない、天使もいない、だから死んだらそれで終り、復活なんてとんでもない、という考え方でした。それに対してファリサイ派の人たちはどれもあると考えていました。対立していましたから、イエス様のところに議論をふっかけて、論破して、味方につけるような事を画策したのかもしれません。そしてファリサイ派の人に見せつけようとしたのかもしれません。

それでイエス様にいうのです、『モーセの書に(つまり私たちユダヤ人が一番大事にしている聖書に)こう書いてあります。「ある人の兄が死に、妻を残して子がない場合、その弟は兄嫁と結婚して兄の跡継ぎをもうけねばならない」。で、例えばですけど、七人の兄弟がおりまして、長男が結婚したけど子どもがないまま亡くなってしまった。それで次男がその女性を妻に迎えた。でも次男との間にも子どもが出来ないまま亡くなり、三男、四男、五男、と続きました。兄弟たちは皆死に、そして女性も亡くなった。そこで復活についてのお尋ねなんですけど、もし復活した時、この女性は七人のうち誰の妻になるんでしょうか?』。多分慇懃無礼に質問したんでしょう。そして彼らは、イエス様が何も言えないのを見て「はい、論破!復活はありませーん!」と言う予定だったと思うのです。

しかし、イエス様は言います「君たち、何にも分ってない。聖書も、神様の力も分っていない。あなたたちは人間の話で考えている。そもそも、このモーセの言葉は復活の話じゃなくて「この未亡人になった女性を放り出すな」って話だろ?そしてさ、復活というのは人間の力じゃないんだよ。神様の力なんだよ。復活というのはね、人間の肉や骨をもった人間になる話じゃなくて、天使みたいなものになるんだよ。だから自分の意思や肉体を持つ事もなく、ましてや結婚なんてしない。」とイエス様は言われます。ちなみに「天使」というのはギリシア語でアンゲロスという言葉が使われます。この言葉は「使者(使いの者)」とか「神から派遣されてその言葉を伝え、その人を守り、間に入って仲介する者」という意味があります。復活というのはね、その人の心にあって慰め励まし、力づけるような、そんな働きが起こった時に復活した、という意味でしょう。

以前執り行った葬儀の事を思い出します。四〇代の男性でした。突然の病気でした。その方の葬儀の後半、友人が弔辞を読みました。けれども感情が溢れて原稿から目を離し、司式をしていた私に「彼は今、どこにいるのでしょうか?」と尋ねました。会衆の目が私に注がれる中、私は胸を指さして「彼はここにいます」と言いました。友人は、「そうですよね。ここにいるんですよね」と納得して、また弔辞を読み続けました。私はあるいは「彼は天国に行かれたのですよ」と言うべきだったかもしれません。でも、ヨハネによる福音書17章23節にはこのように書かれています、「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つとなるためです。」。イエス様は私たちといつも共におられます。そして、亡くなられた彼をもイエス様は包んで下さっているはずです。そのイエス様が私たちのうちにおられるのなら、当然亡くなられた彼もイエス様と一緒に私たちのうちにいるのだ、と思い、とっさに胸を指さしたのです。それは亡くなったのだけれど、天使として一人ひとりの心に復活すべきものであるとも思います。イエス様が復活は天使のように、と言われているのはとても大きな事だと思います。

そして、今日の箇所でもイエス様も言うのです。26節「死者が復活することについては、モーセの書の『柴』の箇所で、神がモーセに言われたが、読んだことがないのか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。」アブラハムもイサクもヤコブもイスラエルの祖先で、もうとっくの昔に亡くなった方です。そのアブラハムやイサクやヤコブを神様はそれらの人たちの神だ。彼らは私と共にいる、と言って下さっている、神様の懐にある。「神様はそんな亡くなった者達一人ひとりを今も覚えて下さっている方だよ。死んで終り、もう忘れる、そんな神様じゃないんだよ」ってイエス様はそう言われてこの復活の議論を終えられます。「この女性は誰の所有か?なんてくだらない議論は終りだ」というのです。

そして、イエス様はこの話の一番大切なところにフォーカスされます。この譬えで一番目を向けなければならないのは家でも兄弟でもなく、夫を失い、次々に結婚されられていった女性です。だからイエス様は言われるのです、27節「神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ。」と。大切なのは死んでしまった息子のことではなく、生きている女性のことです。死んだ者は神の元にいる、ちゃんと神様はその名を覚えているから大丈夫。むしろ生きている者に神は目を向けておられるんだよ。イスラエルが一人の命よりも家という得体の知れないもの、男というかたちだけのものに価値をおくなんて亡霊に怯えているようなものだ。生きている命に価値を置け。その女性を大事にしろ。その悲しみの中にあり、しかも家のために人権が踏みにじられた彼女に寄り添うことこそ大切なんじゃないか?ってイエス様は言っておられるのではないでしょうか。神は死んだ者(=兄弟たち)の神ではなく、生きている者(=女性)の神だ。家だ、血筋だ、男だ、跡継ぎだ、と物扱いされた悲しみの中にある命に目も向けず、寄り添うこともせず、何やってんだ!議論なんてくだらない事やってんじゃねーよ!ってイエス様は言われているのではないでしょうか。大切なのは命なのです。命が一番大事なのです。

今日のメッセージの題は「命しか勝たん」。変な題だな、と思ったでしょ?この「~しか勝たん」というのは若者言葉で、私もつい最近知った言葉です。意味は「~は最高だ」とか「~に優るものはない」とかそういう事です。例えば、「アイドルグループは?」と聞かれたら「AKBしか勝たん」と答えるとか、「食べ物、何が好き?」に対して「焼き肉しか勝たん」という訳です。最初は人物か食べ物で使われていたそうですが、今ではいろんな事柄に使われるようです。ちなみに同義語として「~が正義」とは言うそうです。つまり、「好きな食べ物は?」って聞かれたら「寿司が正義」と言うんですって。「~しか勝たん」とか「~が正義」とか、若い人はどんどん言葉を作って行って面白なぁ、って思います。つまりね、今日のメッセージの題は「命に優るものはない」「命こそ大事だ」って事。そしてそれが若者言葉のように広がって欲しいな、ということです。「大事なものは何?」「命しか勝たん」とか、一緒に言ってゆきたいと思うのです。

特にね、今ウクライナで戦争が行われているでしょ?そしてたくさんの命が失われています。先週の木曜日の時点で2000人以上のウクライナの人たちが亡くなられているのです。戦争って怖いですね。人の命が簡単に奪われていく。でも、戦争は命だけではなく、人の心まで奪ってゆきます。「ロシアが攻めてきた!」というときに、ウクライナはどうしたでしょう。「私たちは国を守ります。」と言って応戦しています。国民総動員令が発布され、18歳から60歳の男性が国外に移動することが制限され、そして今も兵士として徴兵されています。戦いに向かわせようとしているのです。国を守る、と言いながら、国民を戦地に送り殺し合いをさせようとしているのです。国って何でしょう?国のためにって何を守っているのでしょう?いつの間にか命以上に大切な物を造り上げているのではないでしょうか。一番悪いのは攻め込んでいるロシア軍とそれを指揮する者です。でも、その中で国を守る戦いで戦死者を出し続けているって何でしょうか?戦争は命以上のものに価値を置くときに起こり、そして命が次々に奪われる。

ロシアでもウクライナでもなく、「命しか勝たん」と言ってゆかなくてはならないのではないでしょうか。今生きている命がもう失われない事、今生きている者の命が守られること、それが国のある意味なのではないかと思うのです。家社会、男性中心社会の中で机上の空論を並べ上げてその中でさえ女性を悲しませているサドカイ派の人たちに「神は生きている者の神だ」と言ったイエス様の言葉は「命しか勝たん」「命に目を向けよ」「命に優るものはない」だった。そのイエス様に従う者として命に目を向け、命のために祈ってゆきたいと思います。

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