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2022年02月06日 直方バプテストキリスト教会礼拝メッセージ「交代しながら寝ずの番」

聖書:マルコによる福音書13章32-37節

皆さんは、自分が教会に行っているとか自分がクリスチャンだとか、そういうことを人に話したことがありますか?そしてもし、言っていたとしたらその時、どんな気持ちでしたか?相手の人はどんな反応をされましたか?私は、高校生くらいまで自分がクリスチャンであるということを言うのが恥ずかしくて恥ずかしくて仕方ありませんでした。ですから、どうしても言わなくてはならない時には「親父がキリスト教の牧師でさぁ」なんて、言っていました。なんでそんなに恥ずかしかったかと言うと、世の中のクリスチャンのイメージを知っていたからです。クリスチャンというと清く正しく美しく、品行方正で、寛容で、怒らない、悪いことをしない、誰にでも優しく、それがクリスチャンのイメージです。何故なら聖書の中には何度となく「イエス様を信じる者はこうありなさい」という事柄が書かれているからです。そしてそれがそのまま教会やクリスチャンのイメージになっている訳です。それは教会の中にもあるイメージでもありますよね。私は教会の外でも教会の中でもそのことを感じながら過していました。なんせ、私の父は真面目で自分に厳しくてそして人には非常に優しい。ザ・クリスチャン、教会の外の人のイメージ通りの人でしたから。そして私は「それなのに自分は…」そんなことをいつも思って、「私はクリスチャンです」なんて堂々と言えませんでした。私は時々長男から「お父さんが礼拝の説教で自分の昔話をするとき、いつも悲しかった話とか残念な話とかだよね。聞いていて切なくなる話ばかり」と言われたことがあります。息子達は毎週、私の話すメッセージを聞いていましたから、私の子どもの頃のエピソードも繰り返し聞いていて、それでそう思ったのだと思います。それは、子どもの頃の私の中に、自虐的な思いがあったからだと思います。「自分は駄目だ」って。そしてその一端に「あるべきクリスチャンのイメージ」と「自分の姿」がかけ離れていることに負い目を感じていたからかもしれません。堂々と「私はクリスチャンです」と言えない負い目。子どもの頃の私は負い目を感じながらクリスチャンでいました。周りの人と比べたり、聖書の言葉通りに生きられない自分を卑下したり、それなのに周りの人を赦せなかったり、理想の自分になれない、決して届かない自分を思って「神様、ごめんなさい!私って駄目です。」そんな負い目ですね。

この「負い目」という言葉が聖書に出て参ります。それはマタイによる福音書6章12節、「わたしたちの負い目を赦して下さい。わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」これは私たちが礼拝でも祈る主の祈りの言葉です。私たちは主の祈りでは「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」と祈っています。この「罪」という言葉は、元々は「負い目」とか「借金」という意味で、それを新共同訳聖書ではそのまま「負い目」と訳しているのです。この箇所もまたプレッシャーのかかる聖書の箇所です。「わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。」という言葉に「わたしがいつ負い目のある人を赦したか」って、思っちゃう訳です。私もそうでした。若い頃、この言葉に躓いて礼拝で主の祈りのこの部分を祈れなかった時期がありました。でもこの言葉、本当はそんなプレッシャーを感じる必要ないのです。何故ならこの主の祈りでは常に「わたし」ではなく「わたしたち」と書かれているからです。それはつまり、みんなで補い合ってゆきましょう、という話だからです。団体スポーツ、例えば野球でもサッカーでもバレーボールでも一人ですべてを行う事は出来ません。届かないボールもあります。だから守る場所が一人ひとり決まっていて、そして互いに補い合い、支え合ってゆくのです。どれだけ優れた選手、スーパーエースがいても一人で相手チームと競技して勝つことは出来ません。この主の祈りは「わたしたち」つまり、クリスチャン、もしくは教会が「わたしたちはチームで進んで行きましょう。支え合い、補い合ってゆきましょう。」というそういう事、そういう祈りなのだ、ということです。そう思えたときに、私は心から主の祈りを祈れましたし、「自分は駄目。駄目でごめんなさい」という思いから解放されました。良いんですよ、一人で理想を背負わなくても。私たちはチームです。一緒に生きたら良い。支え合って、補いあって生きて行ったら良い。そのようしなさい、と主の祈りでもイエス様は言っています。良いの、良いの、私一人で理想にならなくても。相手がどんな理想を持っていても気にしなくて良いの。私が完全でなくても良いの。それが伝道者パウロが言った「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの身体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。」(ローマの信徒への手紙12章4-5節)という意味なのではないでしょうか。私の足り無さを卑下する必要はないし、周りの人を羨ましがる必要もありません。あなたはあなたとして大事なのです。大事なのはつながっているということです。そんな意味で、今日の聖書の箇所をよんでゆくと、ちょっと嬉しい言葉になるような気が致します。

今日の聖書の箇所の少し前、13章の最初の方、3節の題として「終末の徴」と書かれています。何か怖いですよね、世の終りって感じで。でもね、その前を見ますと1-2節でエルサレムの神殿の崩壊について触れてあって、それがいつ起こるか?という話で「終末」の話につながっているのです。そして歴史的に見ますと西暦70年、エルサレム神殿はローマ帝国の軍隊の攻撃によって滅んでいます。イエス様はこの時30歳ぐらいですから、西暦30年、そう考えますと、イエス様はもうこの国の先は長くないと思って「この神殿は滅ぶよ」って言ったことになります。そして実際それから40年後に起こる訳です。ですから、この「終末の徴」と書かれた事柄は世の終りの話ではなくて、西暦70年の事を表している訳で、現代の私たちから考えるともう1952年前に起こった、終わった出来事です。ですから、世の終りにはこんな事が書かれている、気をつけましょう、なんて話ではありません。ちなみに、聖書の一番後ろに書かれているヨハネの黙示録も同じです。キリスト教が迫害されている時代に「もうすぐ必ず希望の時代が来る。だから、望みを捨てずに一緒に歩んで行きましょう」ということがばれないように暗号のように書かれているのです。ばれたら迫害を受けたり殺されたりするからです。

さて、話を戻しますが、その「終末の徴」の話が続いて、その最後にイエス様が言われたのが、今日の聖書の箇所です。「その日、その時は、だれも知らない。」とイエス様は言われます。そして「気をつけて目を覚ましていなさい」と言われるのです。ここで小さな譬えをイエス様は語ります「それは、ちょうど家を後に旅に出る人が、僕たちに仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目を覚ましているようにと、言いつけておくようなものだ。」。その責任があなたがた弟子たちにはあるのだ、とイエス様は言うのです。「目を覚ましていなさい」。それはNHKのチコちゃんの言い方を借りれば「ボーッと生きてんじゃねーよ!」って感じでしょうか。時代は刻々と変わり、悪い時代が迫っている、やがて戦争が始まり、そして神殿は崩壊する。神殿というのは宗教一致のイスラエルにとっては国の象徴であり、国の土台です。その土台が崩れる日が来る。でも、あなたがたは目を覚ましてその時も時を見極め、本当の土台に立ち続けなさい、というのです。本当の土台というのは目に見える神殿のようなものではなく、目に見えない神様、ということも言っておられるのだと思います。これは、単に2000年前の話ではなく、今、そして私たちの国の事でもあると思います。軍事化が進み、それに従って私たちの国も他の国のミサイルの標的になり、国同士険悪になって、やがて戦争へと進み出す、それもこっそり。そんな中でちゃんと目を覚ましていなさい、と読む事が出来ます。しっかり目を覚ましてこの闇の時代を進む姿を見て行かなくてはならないとも思います。

しかし、だからと言って私たちはずっと起きてなんていられるでしょうか。でも、それを促すように今日の箇所では33節34節35節37節の4回も「目を覚まして」って言葉が使われています。イエス様は本当にわたしたちに「ずっと起きていなさい」と言われるのでしょうか?それは無理でしょう!昔、ドリンク剤にリゲインというものがありました。今でもあるのでしょうか。そのコマーシャルに「24時間戦えますか?」というセリフがありました。このドリンク剤を飲んで24時間戦いましょう、という意味だったのでしょう。でも、人間24時間起き続けている、目を覚まし続けている、一人で働き続ける事なんて無理です。じゃあ、どうしたら良いのでしょう。

ここでもう一度今日の聖書の箇所を見たいと思います。ここでイエス様は弟子たちに絶えず「あなたがた」と語っている事に気づきます。「気をつけて、目を覚ましていなさい。その時がいつなのか、あなたがたには分らないのである」「いつ家の主人が帰ってくるのか、夕方か、夜中か、鶏の鳴く頃か、明け方か、あなたがたには分らないからである」「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい。」このように「あなたには」ではなく「あなたがたには」とイエス様は言われる。イエス様は「あなたがた」という言葉を意識させるのです。これは主の祈りと同じです。「わたし」ではなく「わたしたち」として生きよ、チームで生きよ、と。それはつまり、夕方も、夜中も、鶏の鳴く頃も、夜明けも、いつも一人で目を覚ましているのではなく、夕方は私、夜中はあなた、鶏の鳴く頃はあの人、夜明けはこの人、と交代しながら「あなたがた」として見張って行くということです。交代しながら見張る、「交代しながら寝ずの番」をするということです。

「寝ずの番」という言葉を使いました。この「寝ずの番」という言葉の元々の意味、ご存じでしょうか。これはそもそも「家族が亡くなってお通夜の時に故人のそばにいてロウソクや線香の火を絶やさないようにすること」という意味です。目的は二つ。一つは故人の側にいること。もう一つは火を絶やさないこと。私はこの二つの意味を知った時に、「これって教会じゃないか!」って思いました。故人のそばを離れない事、それは十字架のイエス様から離れない事です。私たちの罪、重荷、負い目を負って十字架に進まれ、死なれたイエス様から離れない事。そして火を絶やさない、それはそのイエス様の愛の灯火を大事に守り続ける事です。私たち教会は世にあって「寝ずの番」をする者たちです。しかし、一人では無理です。私たちは起き続けてはいられません。弱さを持つ私たちは24時間戦えません。ボーッとすることだってありますよ。躓く事だってありますよ。離れてしまいそうになるときもありますよ。だから補い合い、支え合って、そして交代しながらイエス様の側におり、そして交代しながら火を灯し続けよ、って言われているのではないでしょうか。それは24時間の交代の話だけではありません。このキリスト教の歴史そのものがこの灯火を手渡しして役目を交代して来た歴史だからです。

目を覚ましていなさい、とイエス様は言われます。でも、それはあなたに頑張れ、起き続けていなさい、というものではなく、一緒に支え合いながら、補い合いながら、「交代しながら寝ずの番」をしてゆきなさい、ということです。あなたは一人じゃ無い。一人で生きてはいけない、ということです。特に最後の言葉「あなたがたに言うことは、すべての人に言うのだ。目を覚ましていなさい」。これは「良いかい?わたしは“あなた”一人に言っているんじゃない。“あなたがた”に言っているんだよ。そしてね、これは全ての人と行ってゆくことなんだよ」って。福音の灯火を手渡ししながら、一緒に歩みなさい。一人で全部しなくていいよ、というより一人で全部することなんて出来ない。眠るときだってあるんだからさ。落ち込むときもあるんだからさ。見失う時もあるんだからさ。離れそうになるときもあるんだからさ。交代しながら、一緒に歩んで行きましょう。イエスの死を覚えながら、福音の灯火を守って行きましょう。闇は迫ってきます。私たちの人生には様々な困難がやって来ます。悩み、悲しみ、憤り、そんな中でイエス様に躓くこともあります。そりゃそうですよ、私たちは人間ですから。24時間戦えません。連戦連勝という訳にもいきませんし、世の中にあるクリスチャンのイメージ通りに生きる事だって出来ません。眠ってしまいそうになるときもあります。良いのです、躓いたって。そのために私たちで生きるのです。
またその闇は世の中にもあります。毎朝YouTubeで行っている「今日の御言葉 今日の祈り」で沖縄の事を祈ったのですが、沖縄では防衛の名の下に自衛隊の基地がどんどん増えています。これは平和を守るためと称していますが、この基地があるために外国と気まずい関係になり、戦争の可能性が高くなり、そして一番に標的にされるのは基地がある沖縄です。基地が増えるということ、基地を持つ沖縄の人たちは「これで安心」とは思いませんよ。「危険の最前線にいる」と思っていますよ。基地が出来る度に、戦争が近づくということです。闇は近づいてきています。その闇の時代も灯火を絶やすことなく、絶望することなく歩んでゆきなさい、そうイエス様は語っておられるのです。

交代しながら、寝ずの番をする、イエス様から離れない、イエス様の愛の光を灯し続ける、それが私たちに与えられた働きです。「交代しながら寝ずの番」をして参りましょう。きっと私たちはその先に大きな光を見るのです。それがイエス様が語った終りの日の話です。それが黙示録の意味です。そして、それが私たちの信仰です。一緒に進んで行く時に、そこに既にイエス様は待っておられるのですから。

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